朝のアラームが鳴る少し前に、結人は目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い朝日が部屋に差し込んでいる。冷蔵庫の低い音だけが、静かな室内に残っていた。
一人暮らしを始めてから、朝の静けさには少しずつ慣れてきた。
実家にいた頃は、台所から物音がした。椿が朝食を用意する音や、祐司が帰国している時なら、カメラの機材を確かめる音が聞こえた。
けれど今は、自分が動かなければ何も始まらない。
結人は布団から起き上がり、しばらく天井を見た。
『今日から、本格的に講義か』
ガイダンスとは違う。
説明を聞くだけではなく、実際に授業を受ける。ノートを取り、課題が出され、単位という現実が始まる。
大学生らしい、と言えばそうだった。
けれど、結人の胸には少しだけ変な緊張がある。
柴咲光として生きていた頃にも、講義室の空気は知っていた。履修登録の面倒さも、初回授業で教授が話す内容の大半が説明であることも知っている。
だから、初めてではない。
それなのに、初めてのように緊張している。
「……まあ、別の人生だしね」
小さく呟いて、ベッドから足を下ろす。
深く考えすぎると、朝から動けなくなる。
洗面所で顔を洗い、簡単な朝食を用意した。
白米、味噌汁、昨日の夜に作っておいた卵焼き。形は少し崩れていたが、味は悪くない。
スマホを確認すると、渉からメッセージが入っていた。
『今日一限、同じ教室で合ってる?』
続けて、修司から。
『経済学入門は二号館の大講義室。ポータル見る限りだとそこ』
そのすぐ下に、渉の返信がある。
『修司助かる。結人も助かれ』
結人は思わず笑った。
「助かれって何だよ」
指先で画面を叩いた。
『合ってると思う。少し早めに行く』
送信してから、結人は箸を取った。
スマホの画面がまた光る。
『じゃあ席取っといてくれ!』
渉の遠慮のなさに、苦笑が漏れる。
頼られるほどのことはしていない。
スマホでポータルを確認して、それを教えただけだ。
それなのに、渉はもう結人を当たり前のように会話の輪に入れている。
その距離の詰め方は少し眩しい。
けれど、ありがたくもあった。
☆☆☆☆☆
大学へ向かう道は、昨日よりも少し賑やかだった。
同じ方向へ歩く学生たちの声が、朝の空気に混じっている。
結人はその中に紛れながら、肩にかけた鞄の位置を直した。
講義棟に入ると、廊下にはすでに何人もの学生がいた。
教室の場所を確認しながら歩く者、友人と笑い合う者、壁際でスマホを見ている者。
昨日よりも大学が動いている感じがした。
二号館の大講義室に入ると、広い空間にまばらに学生が座っていた。
前方は空いている。後方は少しずつ埋まり始めている。
結人は迷った末、中央より少し後ろの席を選んだ。
前すぎると目立つ。
後ろすぎると、板書やスクリーンが見づらい。
無難な場所だった。
席についてノートを出す。
スマホを確認すると、渉からまたメッセージが来ていた。
『今向かってる。たぶん間に合う。たぶん』
結人は返信する。
『たぶんが二回ある』
すぐに返事が来た。
『そこは信じて』
「信じにくいな……」
そう呟いた時、講義室の入口から修司が入ってきた。
すぐに結人に気づき、軽く手を上げる。
「早いな」
「おはよう。席、ここでよかった?」
「見やすいし、いいと思う」
修司は結人の隣に腰を下ろした。
動作が自然だった。変に迷わず、かといって距離を詰めすぎるわけでもない。
「渉は?」
「向かってるらしい。たぶん間に合うって」
「それは少し怪しいな」
「やっぱり?」
「あいつ、昨日の帰りも駅の方向を間違えかけてたし」
その時、入口付近で少し大きな声がした。
「間に合った!」
渉だった。
息を少し弾ませながら、こちらへ歩いてくる。手にはコンビニの袋を持っていた。
「おはよう、二人とも」
「おはよう。走ってきたの?」
「途中までな。朝飯買うか迷って、買って、そしたら時間が消えた」
「自分で消したんだろ」
「修司、朝から正論が痛い」
渉は結人の反対側に座り、袋からおにぎりを取り出した。
「講義前に食べるの?」
「食べないと頭が動かない」
「食べても動くかは別だけどな」
修司が静かに言うと、渉は胸を押さえた。
「やめろ。まだ一限始まってないのに致命傷だ」
結人は笑いを堪えきれなかった。
周囲の学生がちらりとこちらを見る。
その視線に気づいて、結人は少しだけ背筋を伸ばした。
騒がしくしすぎるのはよくない。
そう思ったのは、柴咲光だった頃の感覚かもしれない。
周囲から浮かないように。
迷惑をかけないように。
そういう意識は、今も身体の奥に残っている。
だが、渉はあまり気にした様子がない。
小声に落としながらも、楽しそうにおにぎりを食べていた。
☆☆☆☆☆
経済学入門の初回講義は、予想通り、授業全体の説明が中心だった。
教授は穏やかな口調の中年男性で、出席点、レポート、期末試験の配分を淡々と説明していく。
スクリーンにはシラバスの内容が映され、学生たちはそれを眺めながらノートを取ったり、スマホで撮影したりしていた。
「経済学というと、お金の話だけを思い浮かべる人も多いかもしれません。もちろん、それも含まれます。ですが、より広く言えば、人が限られた資源をどう使うかを考える学問です」
教授の声が講義室に響く。
結人はペンを動かしながら、その言葉をノートに写した。
限られた資源を、どう使うか。
時間。
お金。
体力。
人との関係。
自分にできることと、できないこと。
ふと、前世の記憶が脳裏をよぎった。
柴咲光は、限られた身体の使い方が下手だったのだろうか。
いや、そうではない。
あの身体には、あの身体なりの難しさがあった。
努力だけでは埋まらないものがあった。
『また、そっちに考えてる』
結人はノートの端に視線を落とし、息を整えた。
今は講義中だ。
過去に沈む時間ではない。
隣を見ると、修司は要点だけを簡潔にまとめている。
反対側の渉は、最初こそ真面目に書いていたが、途中から文字が少しずつ崩れていた。
結人は小さく笑いそうになり、慌てて視線を前へ戻した。
講義の終わり際、教授が言った。
「次回からは本格的に内容へ入ります。今日配布した資料は必ず持ってきてください。なくした場合はポータルから印刷できますが、初回からなくす人は大体最後まで苦労します」
講義室に少し笑いが起きた。
渉が隣で小さく呟く。
「今の、オレに言われた気がする」
「資料、ちゃんと鞄に入れれば大丈夫だよ」
「結人、オレのこと何歳だと思ってる?」
「同い年だけど、少し心配ではある」
「否定できないのが悔しい」
修司が資料を揃えながら言った。
「クリアファイル買った方がいいんじゃないか」
「それだ。大学生っぽいやつ」
「クリアファイルに大学生っぽさを感じるんだ」
「資料を管理する男、秤渉」
「名前負けしそうだな」
三人でそんな話をしながら、講義室を出る。
廊下には次の講義へ向かう学生たちが流れていた。
本当に大学生活が始まったのだと、結人は改めて思った。
昨日までは、まだ準備の延長だった。
今日からは違う。
講義があり、課題があり、友人と時間を合わせ、昼食の場所を考える。
それはひどく普通のことだった。
普通すぎて、結人の胸には小さな痛みが走った。
『自分は、普通の大学生みたいに見えてるのかな』
そんな問いが浮かぶ。
けれど、すぐに渉の声がそれを掻き消した。
「次、どこだっけ?」
「三号館」
「遠い?」
「近くはない」
「じゃあ急ごう。オレ、座りたい」
「今まで座ってただろ」
「講義室の椅子と次の講義室の椅子は別腹」
修司が呆れた顔をする。
結人は今度こそ、声に出して笑った。
☆☆☆☆☆
二限目の講義が終わる頃には、結人のノートは思ったより埋まっていた。
まだ本格的な内容に入ったわけではない。
それでも、教授ごとに話し方も、評価方法も、資料の使い方も違う。初回だからこそ聞き逃せないことが多かった。
教室を出ると、渉が大きく伸びをした。
「腹減った」
「十二時だしな」
修司がスマホで時間割を確認する。
「午後は三限からだよな」
「うん」
「なら学食行くか。混む前に」
三人で食堂へ向かう。
昼時だけあって、すでに席は埋まり始めていた。券売機の前に列ができ、厨房から揚げ物の匂いが漂ってくる。
渉はメニューを見上げて真剣な顔をした。
「これは人生の選択だ」
「大げさ」
「カレーにするか、唐揚げ定食にするか。これは大問題だろ」
「日替わりもある」
「修司、選択肢を増やすな。オレは弱い」
結人はメニューを見て、少し悩んだ末に日替わり定食を選んだ。
鯖の味噌煮。
学食で魚を選ぶ大学生は少数派かもしれないと思ったが、何となく和食の気分だった。
トレーを持って席を探していると、窓際の四人席が空いた。
修司が目ざとく見つけ、三人でそこへ向かう。
渉は結局、唐揚げ定食を選んでいた。
「カレーは?」
「明日のオレに託した」
「明日の自分、責任重大だな」
「オレの未来はカレーに託された」
くだらない会話だった。
けれど、結人は嫌いではなかった。
食事を始めると、渉が結人の皿を見て目を丸くした。
「結人、魚いくんだ」
「うん。何となく」
「健康的だな。オレも見習うべきか」
「唐揚げ食べながら言っても説得力ないぞ」
修司が言うと、渉は唐揚げを一つ口に入れてから頷いた。
「うまいから仕方ない」
「仕方ないで済ませた」
「食堂の唐揚げが悪い。うまいのが悪い」
その時、少し離れたところから聞き覚えのある声がした。
「お、いたいた。やっぱりここか」
トレーを持った颯が、こちらへ歩いてきていた。
その隣には、女子学生が一人いた。
茶髪のセミロングの髪は、ゆるくウェーブがかかっていた。
派手に飾っているわけではないが、髪のウェーブや小物の選び方に気を配っているのが分かる。軽く波打つ髪が、表情まで明るく見せていた。
目鼻立ちは整っていて、笑うと人懐っこさが先に立つ。
客観的に見て、ルックスはかなり良い方だろう。
「颯、午前中どこいたんだよ」
渉が言うと、颯は悪びれず笑った。
「せっかくの大学生活だぞ? 多くの人と関わりたいじゃないか」
「言い方は爽やかなのに、颯が言うとなんか……」
「失礼だな。交流は大事だろ」
「可愛い子に声かけてただけじゃないのか」
「それも交流の一部だ」
颯は胸を張る。
修司が呆れたように息を吐いた。
「否定しないんだな」
「嘘はよくない」
隣の女子学生が、そこでくすっと笑った。
「颯、昨日もそんな感じだったよね」
「感じ悪かった?」
「悪くはなかったよ。あ、慣れてるなーとは思ったけど」
「それは褒め言葉として受け取っておく」
「うん。前向きなのはいいと思う」
軽い返しだった。
けれど、適当にあしらっているわけではない。
颯の調子に合わせながらも、距離を置きすぎず、かといって乗せられすぎてもいない感じだ。
女子学生は結人たちへ視線を向けると、にこりと笑った。
「初めまして。
「二間結人です」
「綾瀬修司」
「秤渉だ。よろしく」
渉が明るく名乗ると、紗理奈は少し目を細めた。
「渉ね。昨日、遠くから見た気がする。声、大きかったから」
「え、もう名前呼び?」
「嫌だった?」
「いや、嫌じゃないけど、ずいぶんフレンドリーだな」
「友達の友達は、わりと友達寄りでしょ」
「距離感がすごい」
「でも、嫌なら戻すよ。秤くん」
「あ、それはそれで距離を感じる」
「じゃあ渉で」
紗理奈はあっさりそう決めた。
渉は一瞬だけ考えてから、まあいいかという顔で頷く。
「じゃあ、オレも紗理奈でいい?」
「いいよ。呼びやすい方で」
「軽いな」
「軽いんじゃなくて、名前くらいで構えすぎないだけ」
そう言って、紗理奈は空いている席を見た。
「で、ここ座ってもいい? 友達が学生課に用事あるって言って、一旦別れちゃってさ。ひとりで食べるかーって思ってたら颯を見つけた」
「僕が拾った」
「拾われた覚えはない」
「じゃあ合流した」
「それなら合ってる」
颯が空いている椅子を指差した。
「ここ、座っていい?」
「四人席だけど、詰めればいけるんじゃないか」
修司が自分のトレーを少し横へずらした。
結人も椅子を引いて、スペースを作る。
紗理奈はその動きを見て、軽く手を合わせた。
「ありがと、結人」
「え?」
「あ、ごめん。名前呼び早かった?」
「いや……驚いただけ」
「じゃあ結人で。あたしも紗理奈でいいよ。名字、ちょっと硬いし」
結人は少しだけ返事に迷った。
初対面で名前呼び。
普通の大学生なら、そこまで珍しくないのかもしれない。
「……分かった。紗理奈」
「うん、よろしく」
紗理奈は満足そうに笑って、席についた。
フレンドリーな性格をしている。
けれど、相手が本当に嫌がっていないか、ちゃんと見ている。
踏み込むけれど、踏み荒らすわけではない。
結人は、そんな印象を受けた。
☆☆☆☆☆
昼食の時間は、思っていたより賑やかになった。
紗理奈は同じ経済学科で、颯とは昨日少し話しただけらしい。
一緒にいた友人が学生課へ行くことになり、学食で一人になりかけたところで颯と再会した。
そこへ結人たちがいた、という流れだった。
偶然と言えば偶然だ。
ただ、颯が昨日のうちに声をかけていなければ、この席に紗理奈はいなかったのだろう。
そう思うと、人間関係というのは本当に少しのきっかけで形を変える。
「一限の先生、声優しすぎなかった? あれは眠くなる」
「分かる!」
渉が勢いよく同意した。
「オレも途中で意識が遠くなった」
「それは先生の声だけが原因じゃないだろ」
「修司、オレの睡眠不足を見抜くな」
「見抜くほど隠れてない」
紗理奈が結人を見る。
「結人は眠くならなかった?」
「少しは。でも、初回だから聞き逃すと困るかなと思って」
「真面目だ」
「普通だと思う」
「普通って便利な言葉だよね。だいたい普通って言う人ほど何か隠してる」
「そんなことは……」
言いかけて、結人は少し言葉に詰まった。
隠していることなら、ある。
誰にも言えないことがある。
二間結人の中に、柴咲光の記憶があること。
今ここで笑っている自分が、本当にただの大学生なのか分からないこと。
だが、そんなことを言えるはずもない。
紗理奈は、結人のわずかな間に気づいたのかもしれない。
けれど、追及はしなかった。
「まあ、大学生なんて大体何か隠してるか。寝坊とか、課題やってないとか、実は昨日夜更かししたとか」
「それ隠すほどのことでもないだろ」
「隠さないと怒られるだろ」
「そもそもやればいいだけじゃないかな」
気を遣ったのかは分からないが、そんな会話が続き、話題は流れていった。
結人は助かったと思う一方で申し訳なさも覚えていた。
友人たちに、今後も簡単には言えないであろう秘密を抱えている。そのことに……。
颯が水を飲みながら言った。
「午後の講義、みんな何?」
「経営学概論」
「同じく」
「オレもそれ」
「あたしも同じ」
紗理奈が答える。
「じゃあ、五人とも一緒か」
「席どうする?」
「適当に並べばいいだろ」
「適当って言った人が一番いい席取るんだよね」
紗理奈が颯を見る。
颯は笑った。
「ばれたか」
「ばれるでしょ」
渉が箸を置きながら言った。
「じゃあ、次も一緒に行くか」
「そうだな」
修司が頷く。
結人も小さく頷いた。
知り合いが増える。
それは嬉しいことのはずだった。
実際、悪い気分ではない。
けれど、同時に少しだけ怖くもある。
関わる相手が増えるほど、二間結人としての自分を見られる機会も増える。
笑い方、話し方、距離の取り方。
そのすべてが、誰かの中に印象として残っていく。
『自分は、ちゃんと二間結人に見えてるんだろうか』
そんな問いが浮かぶ。
だが、すぐ隣で渉が言った。
「結人、午後眠くなったら起こして」
「自分で頑張って」
「見捨てるの早くない?」
「渉のためだよ」
「優しさが厳しい」
そのやり取りに、紗理奈と颯が笑った。
修司も小さく口元を緩めている。
結人は、その笑い声の中で、少しだけ肩の力を抜いた。
☆☆☆☆☆
三限の講義は、五人で並んで受けた。
渉、結人、修司、颯、紗理奈の順で座る。
誰が決めたわけでもない。講義室に入った流れのまま、自然とそうなった。
経営学概論の教授は、先ほどの穏やかな教授とは違い、声が大きく、テンポも速かった。
初回からやる気に満ちているタイプらしく、評価方法の説明を終えると、すぐに簡単な導入へ入った。
「企業とは何か。利益を出す組織、という答えは間違いではありません。ただ、それだけなら長続きしません。人が集まり、役割を持ち、何かを継続する仕組み。それを考えるのが経営学の入り口です」
結人はノートを取った。
人が集まり、役割を持ち、継続する仕組み。
大学の友人関係も、ある意味ではそうなのかもしれない。
誰かが話題を作り、誰かが整え、誰かが横から混ざる。
たまたま同じ場所にいただけの人間が、少しずつ関係を作っていく。
渉は空気を明るくする。
修司は落ち着いて周囲を見る。
颯は軽やかに輪を広げる。
紗理奈は遠慮なく場へ入りながらも、相手の反応を見ている。
では、自分は何だろう。
結人はペンを止めた。
『自分は、この中で何の役割なんだろう』
すぐには答えが出ない。
そもそも、友人関係に役割を求めること自体が少し硬いのかもしれない。
ただ一緒にいる。
ただ話す。
ただ講義を受けて、昼を食べる。
それだけで成り立つ関係もあるはずだ。
講義の終盤、教授が次回までにシラバスを読み込んでおくように告げた。
大きな課題ではない。
けれど、大学生活が着実に動き出した感じがした。
講義が終わると、渉が机に突っ伏した。
「頭使った」
「まだ導入だぞ」
「導入でこれなら本編どうなるんだ」
「頑張るしかないだろ」
修司が資料を鞄にしまう。
颯はスマホを確認していた。
「僕、このあと少しサークル棟見てくるよ」
「もう?」
「せっかくだしね。あと、多くの人と関われば、人脈も広がる」
「人基準なんだ」
「大学生活は人脈でしょ」
紗理奈が鞄を肩にかけながら言う。
「あたしは友達と合流する。学生課終わったって連絡来てた」
「じゃあ、今日はここまでか」
「そうだね。みんな、また講義かぶったらよろしく」
結人が頷くと、紗理奈は少しだけ笑った。
「結人、思ったより話しやすかった」
「そう?」
「うん。静かだけど、反応がちゃんと返ってくるから」
「それは……よかった」
「褒めてるよ。たぶん」
「そこは言い切ってほしかった」
結人がそう返すと、紗理奈は声を出して笑った。
「今の返し、結構好き」
その言葉に、結人は少しだけ戸惑った。
好意というほど重いものではない。
ただの会話の流れだ。
それでも、まっすぐ褒められることにはまだ慣れていなかった。
颯が横から口を挟む。
「紗理奈、結人は見た目より面白いだろ」
「見た目よりって何?」
「真面目そうに見えて、ちゃんと突っ込む」
「それは渉が突っ込まれるようなことを言うからだろ」
「オレのせいだった」
渉が胸を押さえる。
また皆が笑った。
その輪の中に、自分もいる。
結人はそれを少しだけ遅れて実感した。
☆☆☆☆☆
夕方の大学構内は、朝とは違う色をしていた。
講義を終えた学生たちが、駅へ向かったり、サークル棟へ流れたりしている。どこかから楽器の音が聞こえ、グラウンドの方では掛け声が上がっていた。
結人、渉、修司は校門へ向かって歩いていた。
颯は宣言通りサークル棟へ向かい、紗理奈は友人と合流するために別れた。
「いやー、大学始まったな」
「昨日も似たようなこと言ってなかった?」
「昨日は仮始動。今日は本格始動」
「言いたいことは分かる」
修司が頷く。
結人も同じ気持ちだった。
昨日はまだ、大学に足を踏み入れた日だった。
今日は違う。
講義を受け、食堂で昼を食べ、新しい知り合いが増えた。
たったそれだけなのに、昨日よりもずっと大学生活の輪郭が濃くなった気がする。
渉が鞄を肩にかけ直した。
「明日も一限あるんだよな」
「ある」
「大学生ってもっと自由だと思ってた」
「履修をそう組んだのは自分だろ」
「過去のオレを止めたい」
「それでも理系と比べたら全然楽だからね」
結人は笑いながら言った。
渉は大げさに空を見上げる。
「未来のオレには優しくしたい」
「まず明日の自分が遅刻しないようにしたら?」
「結人が正論を覚えた」
「元から知ってるよ」
「使い方が修司寄りになってきた」
修司が横で首を傾げる。
「おれのせいか?」
「たぶん」
「便利に使うな、その言葉」
三人で笑いながら歩く。
結人は、その時間を少しだけ不思議に思った。
まだ出会って間もない。
相手のことを深く知っているわけでもない。
それでも、こうして並んで歩いていると、昔からそうしていたような錯覚がある。
前世の記憶があるからこそ、同年代の輪に入ることに違和感を覚えると思っていた。
実際、その違和感は消えていない。
渉たちの言葉に対して、どこか年下を見るような感覚が一瞬だけ顔を出すこともある。
けれど、それだけではなかった。
自分も今、同じ講義を受けている。
同じことで笑っている。
同じように明日の一限を面倒だと思っている。
その事実は、思ったよりも強かった。
校門の前で、修司が言った。
「おれ、こっちだから」
「じゃあまた明日」
「おう、また明日!」
渉が手を振る。
修司は軽く手を上げて、駅とは反対方向へ歩いていった。
渉と結人はしばらく同じ方向だった。
並んで歩きながら、渉がふと尋ねる。
「結人ってさ」
「うん?」
「講義中、すごい真面目にノート取るよな」
「そうかな」
「うん。オレの三倍くらい」
「渉の三倍だと基準が分からない」
「ひどくない?」
「ごめん」
謝ると、渉は笑った。
「いや、いいけど。何かさ、結人って落ち着いてるよな」
「……そう見える?」
「見える。オレが落ち着いてなさすぎるだけかもしれないけど」
結人は少し返事に迷った。
落ち着いている。
そう見えるのだとしたら、それはたぶん、中身が本当の意味で同年代ではないからだ。
けれど、その理由は言えない。
「緊張してるだけかも」
「緊張してるようには見えなかった」
「見えないだけだよ」
「そっか」
渉はそれ以上、深く聞かなかった。
ただ、少し考えるように歩幅を緩める。
「まあ、緊張しててもしてなくても、明日も一緒に座ろうぜ」
「うん」
「オレ、たぶんまた教室分からなくなるし」
「そこは分かってほしい」
「努力はする」
「信用しきれないな」
「そこは信じて」
朝と同じ言葉だった。
結人は小さく笑った。
☆☆☆☆☆
アパートに帰ると、部屋は朝と同じ静けさで結人を迎えた。
鞄を置き、手を洗い、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
コップに注いで一口飲むと、ようやく一日が終わった気がした。
スマホを見ると、グループメッセージが増えていた。
渉が作ったらしいグループに、修司と颯、そしていつの間にか紗理奈も入っている。
グループ名は【経済学科の民】だった。
「……雑だな」
思わず呟く。
渉が送ったらしいメッセージが表示されていた。
『明日の教室どこ?』
すぐ下に修司。
『ポータルを見ろ』
さらに紗理奈。
『渉、初日から期待を裏切らないね』
颯は短く、
『ウケる』
とだけ送っていた。
結人はしばらく画面を眺めてから、返信を打った。
『四号館の二〇三だと思う』
送信すると、すぐに渉から返事が来た。
『結人ありがとう。やっぱり命の恩人』
続いて紗理奈。
『命、軽くない?』
修司。
『遅刻しなければ助かる』
颯。
『明日も交流日和だな』
「交流日和って何……」
結人は画面の前で笑った。
部屋には自分しかいない。
それでも、少しだけ賑やかだった。
テレビをつける。
夕方のニュース番組の音が流れ始める。
結人は椅子に座り、今日のノートを開いた。
経済学入門。
経営学概論。
まだ内容は浅い。
けれど、そこには確かに今日一日の跡があった。
講義室の空気。
渉の声。
修司の静かな相槌。
颯の軽い笑み。
紗理奈の明るい距離感。
新しい名前が増えていく。
新しい会話が増えていく。
二間結人としての生活が、少しずつ分厚くなっていく。
それは嬉しいことのはずだった。
実際、嬉しかった。
けれど、胸の奥にはまだ、柴咲光としての記憶が沈んでいる。
自分は本当にこの場所にいていいのか。
この人たちと同じ顔をして笑っていていいのか。
そんな問いは、消えていない。
それでも。
『明日も、大学に行くんだな』
そう思った時、嫌だとは思わなかった。
結人はノートを閉じ、夕飯の準備をするために立ち上がった。
冷蔵庫の中身を思い出しながら、献立を考える。
今日の出来事は、特別な事件ではない。
講義を受けて、昼を食べて、少し話しただけだ。
けれど、結人にとっては、それだけで十分だった。
大学生活は、静かに、けれど確かに動き始めていた。
自分の中でこの作品の展開とかエンディングとかの構想はある程度固まっているので、しっかり描いていきたいです。
最低でも週1、多いときで週2~3更新はしたいとは思っている今日この頃ですが、あくまで趣味の範疇なので、のんびりです。