アルバイト回になります。
講義が本格的に始まってから、二週間ほどが経った。
最初の数日は、結人も朝から少し緊張していた。
ポータルで教室を確認し、時間割を見直し、鞄の中に必要なものが入っているかを何度も確かめた。講義棟の位置も、教室の場所も、教授ごとの話し方も、すべてがまだ手探りだった。
けれど、人間は慣れる。
一限のある日は少し早く起きる。
昼休みは混む前に食堂へ向かう。
講義の資料はポータルから確認する。
渉が教室を忘れ、修司が淡々と訂正し、颯がどこかで聞いた話を持ち込み、紗理奈がそれを笑いながら拾う。
そんな流れが、いつの間にか日常の中に入り始めていた。
結人はまだ、自分が完全に大学生活へ馴染んだとは思っていない。
けれど、講義室で隣に誰かが座ることに、前ほど身構えなくなった。
グループメッセージに通知が増えることにも、少しずつ慣れてきた。
その日の昼も、結人は食堂の隅の席でトレーを置いた。
向かいには渉、隣には修司、斜め前には颯が座っていた。
「いやー、今日の二限、眠気がすごかった」
渉が唐揚げ定食を前にして、大きく息をついた。
「講義のせいにするな。昨日遅かったんだろ」
「修司、見抜くな。怖い」
「顔に出てる」
修司は冷静に味噌汁を口へ運ぶ。
颯はスマホを見ながら、軽い調子で笑った。
「渉、昨日サークルだったんだっけ?」
結人が食事の前に手を合わせながら聞いた。
「そう。フットサル」
「ちゃんと続いてるんだ」
渉は得意げに胸を張った。
「オレ、意外と動けるからな」
「意外とって自分で言うんだ」
「期待値を下げておくと、褒められた時に嬉しい」
「前向きなのか後ろ向きなのか分からないね」
結人は苦笑する。
渉が入ったのは、定期的に集まってスポーツをするサークルだった。
本格的な体育会系ではなく、週ごとにフットサルやバスケ、バドミントンなどをゆるく行うものらしい。
参加も強制ではなく、行ける日に顔を出す形だという。
「でも、結構自由なんだよな。来られる日だけ来ればいいって感じで」
「それなら続きそうだな」
「だろ。オレ向き」
修司にまでそう言われて、渉はますます得意げになった。
「颯は? 結局どこか入ったのか?」
修司が尋ねると、颯は首を横に振った。
「僕はまだ。特定のところに入るより、いろんなところに顔出す方が面白いし」
「それ、所属してないのに人脈だけ増やしてるやつだろ」
「大学生活は人脈でしょ」
「半分は女子目的だろ?」
「否定はしないかな。でも実際便利だよ。軽音の見学行ったらライブハウスの話聞けたし、イベント系のところ行ったら単発バイトの情報もあったし」
颯は本当に顔が広かった。
正式に所属しているサークルはない。
それなのに、軽音系、イベント系、飲み会中心の集まり、ボランティア系、名前だけ聞いてもよく分からない団体まで、なぜか情報だけは持っている。
結人には、少し真似できない動き方だった。
「修司は入らないの?」
颯が聞き返すと、修司は少し考えてから答えた。
「おれは今のところいい。講義と生活に慣れてから考える」
「確かに焦るものでもないし、ゆるめのサークルなら、途中からでもそこまで気まずくないところもあるしね」
「勢いだけで入っても続かないだろ」
「紗理奈も入る予定はないって言ってたっけ。毎週固定で何かするのはちょっと重い、みたいなこと言ってたよ」
颯が思い出したように、紗理奈のことを話題に出した。
ちなみに紗理奈は、女友達と昼を食べることも多い。今日はそちらと一緒らしく、ここにはいなかった。
結人は水を一口飲みながら、その会話を聞いていた。
「結人は?」
渉が唐揚げを箸で持ったまま尋ねる。
「サークル、何か入る?」
「自分は……今はいいかな」
「お、修司側?」
「というより、先に考えたいことがあって」
「考えたいこと?」
結人は少しだけ間を置いた。
「バイトを探そうと思ってる」
三人の視線が、自然と結人に集まった。
☆☆☆☆☆
「バイトかあ」
渉が感心したように呟いた。
「いいじゃん。大学生っぽい」
「サークルも大学生っぽいだろ」
「それはそれ。バイトはなんか、大人っぽい」
「判断がざっくりしてるな」
修司が呆れたように言う。
その修司に、颯が視線を向けた。
「そういう修司は、もう決まってるんだよね?」
「ああ。駅前の喫茶店」
「え、そうなの?」
渉が目を丸くした。
「言ってなかったか?」
「聞いてない。修司、いつの間に」
「先週、面接を受けた。今週末から入る」
「この裏切り者!一人だけ大人の階段を上りやがって!」
「裏切ってないし、上ってもない。誤解を生む言い方やめろ」
渉の大げさな言葉に、修司は淡々と返してから続けた。
「条件が合ったからな。大学からも近いし、夜遅くなりすぎない」
修司らしい選び方だった。
勢いではなく、生活のリズムと講義への影響を考えて決めている。
「しかし喫茶店かあ。修司、似合うな」
渉がうんうんと腕を組みながら頷く。
「コーヒー運ぶ姿が様になってそうだな」
「普通に運ぶだけだ」
「女子のお客さん増えそうだね」
「増えない」
「そこは否定早いんだ」
渉、颯、結人が順番に口を挟み、修司は少しだけ面倒そうな顔をした。
「僕も探してる途中。いくつか候補はあるけど、まだ決めてない」
「颯は顔広いし、情報だけは多そうだな」
「情報は多いよ。条件がいいかは別だけどね」
「何か気になってるのあるの?」
「バーのスタッフかな。知り合いから聞いたところがあって、雰囲気は悪くなさそう。そういう場所の空気を知っておくのも面白そうだしね。ただ、夜遅くなるから条件は見てる」
「未成年でも働ける感じ?」
「特に指定はなかったかな。店員は飲むわけじゃないし大丈夫なんじゃない?来年には飲めるしね」
「でもまあ、颯、そういうの似合いそうだな」
「でしょ?」
颯は軽く笑った。
「紗理奈も探し中とか言ってたかな。コールセンターがちょっと気になってるとか」
「なんで紗理奈の情報までそんな知ってんだよ」
「友人、しかも女の子だよ? 知ってて当然だと思うけどね」
「怖いわ!」
さすがは颯だと、結人は思った。
抜かりがない。
それでいて女子から嫌われているという話を聞かないのは、ルックスだけではなく、踏み込む距離と引く距離をきちんと分かっているからなのだろう。
渉がふと天井を見上げた。
「みんな考えてるんだな」
「渉は?」
「オレ? 正直、まだあんまり考えてなかった」
「サークルあるしな」
「いや、うちのサークル、結構融通利くんだよ。行ける日に行けばいい感じだし。バイトしてる人も普通にいる」
「なら、できなくはないのか」
「そう。だから結人が探すって聞くと、オレもちょっと考えてみようかなって」
「勢いで決めるなよ」
「修司、釘を刺すのが早い」
「刺しておかないと危ないだろ」
修司が淡々と言うと、渉は否定できずに唸った。
「でも、単発のイベント系とかならいいかもな。空いてる日に入れられるし」
「そういう系だと肉体労働も多くなるけど」
「任せろ!身体動かしたりは得意だ」
力こぶを作ってアピールする。
「まぁ、探すだけならタダだし、一回見てみれば?」
「おう」
渉は納得したように頷いて、食事に戻った。
その会話を聞きながら、結人は少しだけ不思議な気持ちになっていた。
修司はもう、自分の生活に合う場所を見つけている。
颯と紗理奈は、迷いながらも探している。
渉は今、考え始めた。
それぞれが、それぞれの速度で大学生活の形を作ろうとしている。
その中で、自分もまた、何かを選ぼうとしていた。
「結人は、どういうの探してるの?」
颯が尋ねる。
「まだ決めてない。コンビニとか、飲食店とか、塾講師とか。求人は見てる」
「塾講師とか、結人、真面目に準備しすぎて疲れそうだね」
颯が言うと、渉が頷いた。
「分かる。生徒より緊張してそう」
「そこまでじゃないと思うけど」
「いや、想像できる」
結人は苦笑した。
否定しきれない。
颯がスマホを操作しながら言った。
「バイト情報なら、いくつか聞いてるよ。僕も探してる途中だから」
「颯、何でも知ってるな」
「顔を出しておくと、こういう時に役立つんだよ」
颯は画面を見せるように少し傾ける。
「イベント設営、居酒屋、カフェ、あとライブハウスのスタッフ募集」
「ライブハウス?」
結人は思わず聞き返した。
ライブハウス。
その響きに、渉はかっこいいと目を輝かせた。
けれど、結人の胸に浮かんだのは、派手なステージや歓声ではなかった。
コードをまとめる手。
折りたたみの長机。
搬入口から運び込まれる機材ケース。
スタッフ用の軍手。
汗の匂いと、床に残った埃。
終了後、客席から一気に熱が引いていく、あの独特の静けさ。
柴咲光だった頃、学生時代にイベント派遣の仕事をしたことがある。
大型ライブの会場設営や撤去だけではない。個人経営の店ではなく、公共施設に併設されたライブスペースのような場所で、音響機材や椅子、案内板の準備を手伝ったこともあった。
決して中心にいたわけではない。
指示を受け、荷物を運び、片づけ、邪魔にならないように動くだけだった。
それでも、現場の空気をまったく知らないわけではない。
『ああいう場所なら、少しは分かるかもしれない』
そう思った。
けれど、それは口には出せない。
前世の経験だ。
今の二間結人が履歴書に書けるものではない。
誰かに説明できるものでもない。
「音楽系サークルの人から聞いたんだ。受付とか、ドリンク補助とか、清掃とか、簡単な機材運びとか。未経験でも大丈夫らしいよ」
颯が説明する。
結人は画面を見つめたまま、小さく頷いた。
「へえ、ライブハウス店員ってかっこいいな!」
渉が単純に目を輝かせる。
修司は画面を見ながら言った。
「時間帯と日数次第だな。おれも喫茶店を決める時、そこは確認した」
「やっぱり大事?」
「大事だろ。最初から無理なシフトにすると講義に響く」
颯も頷いた。
「結人、真面目だし、裏方っぽい仕事なら向いてるんじゃない? 派手に前へ出るより、きちんと支える方」
「……向いてるのかな」
「やってみないと分からないけどね」
その言葉に、結人はスマホの画面を見つめた。
やってみないと分からない。
当たり前の言葉だった。
だが、結人には少し重かった。
前世では、やってみて、うまくいかなかったことがある。
努力しても、周囲と同じようにできなかったことがある。
今の身体は違う。手先も動く。動作も極端に遅くない。
それでも、不安が完全に消えるわけではなかった。
けれど、前世の全てが苦い記憶だけだったわけでもない。
イベント派遣の現場では、うまく動けずに戸惑ったこともあった。
指示を聞き返して、少し嫌な顔をされたこともある。
それでも、終わった後に「助かった」と言われた日もあった。
汗を拭きながら、空になった客席を見て、不思議な達成感を覚えたこともあった。
あの頃の経験が、今の自分に少しでも残っているなら。
言葉にはできなくても、身体の奥で何かの支えになるのなら。
『やってみても、いいのかもしれない』
結人は小さく頷いた。
「一度、問い合わせてみる」
そう言うと、渉が嬉しそうに笑った。
「おお。結人、ライブハウス店員への第一歩」
「まだ問い合わせるだけ」
「第一歩は第一歩だろ」
その言葉に、結人は少しだけ笑った。
☆☆☆☆☆
問い合わせの返信は、その日の夜には届いた。
『簡単な面接をしたいので、都合のいい日時を教えてほしい』
そう書かれていた。
結人はしばらくスマホの画面を見つめていた。
応募する。
面接へ行く。
働くかもしれない。
それだけのことなのに、胸が落ち着かない。
アパートの部屋は静かだった。
テレビの音を小さく流しているが、内容はほとんど頭に入ってこない。
机の上には講義ノートと、バイト情報をメモした紙が置かれている。
「……面接、か」
呟くと、少しだけ喉が渇いた。
柴咲光として就職活動をした時の記憶が、ぼんやりと浮かぶ。
面接官の視線。
きちんと答えなければという緊張。
職場に入ってから、周囲より作業が遅いと感じた日々。
言われた言葉。
頭を下げた回数。
それと同時に、学生時代の派遣現場も浮かんだ。
軍手をはめた手。
台車を押す音。
重いものを持つ時の掛け声。
撤去後の、がらんとしたホール。
誰かが投げた「お疲れさま」という声。
『今は違う』
結人は自分に言い聞かせるように、手を握った。
指は思った通りに動く。
スマホの画面を操作するのにも困らない。
この身体は、前世とは違う。
それでも、中にいる自分は同じだ。
同じだから、怖い。
同じだから、覚えている。
嫌なことも。
少しだけ、誇らしかったことも。
結人はしばらく黙っていた。
やがて、返信を打つ。
面接希望日。
大学の講義が早く終わる日。
時間帯。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
まだ何も決まっていない。
けれど、自分で一つ進めた。
それだけは確かだった。
☆☆☆☆☆
面接の日、結人は講義を終えてからライブハウスへ向かった。
大学から電車で数駅。
駅前の大通りから少し外れた場所に、その店はあった。
外観は思っていたよりも落ち着いている。黒い看板に白い文字で店名が書かれており、地下へ続く階段の前に、今日の出演者らしきポスターが貼られていた。
結人は階段の前で、一度足を止めた。
昼間だからか、周囲は静かだった。
夜になれば、きっと音が響き、人が集まり、今とは違う空気になるのだろう。
『懐かしい、と思うのは変だよな』
初めて来る場所だ。
二間結人としては、間違いなく初めての場所だ。
それでも、階段の下から漂う少しこもった空気や、貼り出された出演者名、搬入口らしき扉を見ただけで、前世の記憶が微かに反応する。
結人は息を吸い、階段を下りた。
扉の前でノックをすると、中から声が返ってきた。
「はい」
「すみません。アルバイトの面接に来ました」
「ああ、入って」
扉を開けると、少し薄暗い空間が広がっていた。
ステージ、客席、カウンター。まだ営業前だからか、椅子が端に寄せられ、床には掃除用具が置かれている。
想像していたより狭く、けれど妙に密度があった。
奥から、一人の男性が出てきた。
ふくよかな体格で、メガネをかけており、顔立ちは柔らかい。
「店長の
「二間結人です。本日はよろしくお願いします」
「はい、よろしく。そんなに硬くならなくていいよ。こっち座って」
迫田は穏やかな声で言い、カウンター近くの椅子を指した。
結人は頭を下げて座る。
面接は、思っていたよりも淡々と始まった。
大学の学科。
入れる曜日。
終電の時間。
音楽経験の有無。
接客経験の有無。
結人は一つずつ答えた。
「音楽経験は、特にないです」
「うん。そこは別に大丈夫。働いてるうちに覚えることも多いから」
「はい」
「接客は?」
「アルバイト自体が初めてです」
「初めてか……」
迫田は少しだけ結人を見た。
結人は背筋に力が入るのを感じた。
「設営とか、こういう現場の手伝いは?」
「……未経験です」
一瞬間をおいてからの回答になった。
前世のことを考えるにしても、この場では即答すべきだった。
その方が自然だと分かっているのに、わずかに間が空いてしまった自分に、内心で苦笑した。
『性格の不器用さは、そう簡単には治らないか……』
そんなことを考えていた。
改めて目の前の人に意識を向ける。
不自然ではなかっただろうか。
そう思ったが、幸いにも迫田は特に気にした様子もなく、頷いた。
「まあ、そうだよね。学生なら初めての人も多いし」
「はい」
「それで、どうしてうちに?」
問いは穏やかだった。
けれど、結人にとっては少し難しい質問だった。
かっこいいから。
音楽が好きだから。
ライブハウスに憧れがあるから。
そんな答えなら分かりやすかった。
だが、結人にはどれも当てはまらない。
本当のことを言うなら、前世で少しだけ似た現場を知っていたから。
完全に未知の場所ではない気がしたから。
あの時の経験が、今度は少しでも役に立つかもしれないと思ったから。
けれど、それは言えない。
結人は膝の上で手を握り、少し考えてから口を開いた。
「大学生活に少し慣れてきたので、自分で生活費を補えるようになりたいと思いました」
「うん」
「音楽に詳しいわけではありません。こういう場所にも、今の自分ではあまり来たことがありません」
「正直だね」
「すみません」
「いや、いいよ。続けて」
迫田は急かさなかった。
結人は少し息を吸った。
「派手なことは、たぶん得意ではないです。でも、任されたことを丁寧にやることなら、できるようになりたいと思っています。受付や清掃、準備や片付けのような仕事なら、自分にも覚えながらできることがあるんじゃないかと思って、応募しました」
言い終えてから、胸が少し苦しくなった。
これでよかったのか分からない。
真面目すぎただろうか。
面白みがないと思われただろうか。
迫田はしばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「真面目そうだな」
「……よく言われます」
「悪いことじゃないよ。うちは派手に見えるかもしれないけど、仕事の大半は地味だからね。掃除、準備、確認、片付け。そういうのをちゃんとやれる人の方が助かる」
結人は顔を上げた。
「もちろん、忙しい日はある。酔ったお客さんもいるし、機材に気を使うこともある。楽しいだけじゃない」
「はい」
「でも、最初から全部できる必要はない。覚える気があるなら、それでいい」
迫田の声は、落ち着いていた。
その落ち着きに、結人は少しだけ肩の力を抜くことができた。
「まずは週二日くらいからどう? 講義に支障が出ない範囲で」
「はい。お願いします」
「正式な連絡は後で入れるけど、前向きに考えてるよ」
「ありがとうございます」
結人は深く頭を下げた。
店を出る時、迫田は扉のところまで見送ってくれた。
「二間くん」
「はい」
「初めてのバイトなら、分からないことは分からないって言っていいから。黙って抱え込まれる方が困る」
「……はい」
「そこだけ覚えといて」
結人は、その言葉に少しだけ胸を突かれた。
分からないことを、分からないと言っていい。
前世の自分は、それがうまくできなかった。
迷惑をかけたくなくて、できるふりをして、結局遅れて、余計に謝ることになった。
イベント派遣の現場でも、分からないまま動こうとして、余計に手間取ったことがある。
逆に、勇気を出して聞いた時には、面倒そうにされながらも結果的には早く済んだこともあった。
分からないと言うことは、迷惑をかけることではない。
その場を止めないために、必要なことでもある。
「ありがとうございます」
今度は、さっきよりも少しだけ深く頭を下げた。
☆☆☆☆☆
採用の連絡が来たのは、二日後の夕方だった。
講義を終え、アパートに戻った結人は、机の上に鞄を置いたところでスマホの通知に気づいた。
ライブハウスからだった。
『先日は面接ありがとうございました。よろしければ、アルバイトとしてお願いしたいと思います。来週から来られますか?』
短い文章だった。
けれど、結人はしばらくその画面を見つめていた。
決まった。
本当に、決まった。
胸の奥に、不安が浮かぶ。
同時に、小さな熱も生まれる。
『できるかどうかは、まだ分からない』
それは本音だった。
けれど。
結人は「問題ありません。よろしくお願いいたします」と返信をする。
『始める場所は、できた』
結人は椅子に座り、グループメッセージを開いた。
文字を打つ。
『バイト、決まった』
それだけの文章なのに、送信するまで少し時間がかかった。
指先が画面の上で止まる。
やがて、結人は送信した。
すぐに渉から返事が来た。
『おおお! 結人、社会人!』
大げさだな、と思っていると、
『まだバイトだろ。おめでとう。無理はするなよ』
『ライブハウス店員の結人、ちょっと見たいね』
『良かったじゃん。今度話聞かせて』
修司、颯、紗理奈から各々の返信が来る。
『ありがとう。来週説明に行ってくる』
結人が画面を見ながらそう返すと、またすぐに渉が反応した。
『オレもイベント系の単発探してみるわ。結人に負けてられん』
『張り合うところか?』
『でもいいじゃん。渉、向いてそう』
『単発なら紹介できるかも。怪しくないやつを選ぶけど』
『怪しいやつは絶対やめろ』
いつの間にか渉のアルバイトの話へ移っているのを見て、結人は思わず笑った。
部屋には自分しかいない。
それでも、画面の向こうに誰かがいる。
そのことが、思ったよりも胸を軽くした。
講義室でも、アパートでもない。
もう一つ、自分が向かう場所ができる。
そこが自分に合うかどうかは、まだ分からない。
うまく働けるかも分からない。
不安は消えない。
それでも、嫌ではなかった。
結人はスマホを伏せ、窓の外を見る。
夕方の空は、少しずつ夜へ変わろうとしていた。
『来週から、そこへ行くんだな』
そう思うと、胸の奥が静かに揺れた。
怖さはある。
けれど、それだけではない。
かつての記憶は、結人を縛るものでもある。
だが、全部が傷だけでできているわけではない。
手順を覚えようとした時間も、重いものを運んだ感覚も、終わった後の静かな達成感も、自分の中に残っている。
それを表に出すことはできない。
誰かに説明することもできない。
けれど、結人自身だけは知っている。
二間結人としての生活が、また少し広がっていく。
その先に、柴咲光としての記憶が少しでも役に立つ場所があるのなら。
それは、悪いことではないのかもしれない。
そう思えたことが、今日の結人にとっては十分だった。
投稿したものをふと見返すと、なんだかんだで修正箇所を発見します。
一度くらい後から修正をしない事がありたいと思う今日この頃です。