ライブハウスでの初出勤の日、結人は大学の講義を終えてから、いつもより少し早足で駅へ向かった。
鞄の中には、講義で使ったノートと筆記用具、それから店から持ってくるように言われた身分証とメモ帳が入っている。
服装は、動きやすい無地のシャツに黒いパンツ。派手ではないが、清潔に見えるようには気をつけた。
電車に乗って数駅。
大学の最寄りから離れるにつれて、車内の空気も少し変わる。
学生の声が減り、仕事帰りらしい人や、買い物帰りの人が目に入るようになった。
結人は窓に映る自分の顔を見た。
緊張している。
けれど、前ほど足がすくむ感じではない。
『今日は説明を受けて、少し手伝うくらい』
そう言い聞かせる。
それでも、胸の奥は落ち着かなかった。
ライブハウスへ向かう道は、前回の面接の日よりも少しだけ見慣れていた。
黒い看板。
地下へ続く階段。
壁に貼られた出演者のポスター。
二間結人としては、まだ二度目の場所だ。
だが、階段の下から漂ってくる少しこもった空気は、やはりどこか懐かしかった。
『懐かしい、で合ってるのかな』
前世の記憶があるから、そう感じるだけだ。
今の自分がここにいたことはない。
結人は小さく息を吸い、階段を下りた。
扉の前でノックをすると、中から声が返ってくる。
「はい」
「すみません。今日からアルバイトで入る二間です」
「ああ、入って」
扉を開けると、まだ開場前のライブハウスが広がっていた。
ステージの上にはマイクスタンドが置かれ、床にはケーブルが伸びている。
客席の椅子は端に寄せられ、カウンターの奥では、見知らぬ男性が機材ケースを確認していた。
面接の時よりも、空気に少しだけ熱がある。
「来たね」
奥から迫田が出てきた。
ふくよかな体格に、柔らかい顔立ち。
だが、店の中に立っていると、面接の時よりも少しだけ大きく見えた。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。そんなに硬くならなくていいよ。初日だし、今日は説明しながら簡単なところを手伝ってもらう感じで」
迫田はそう言ってから、機材ケースの前にいる男性へ視線を向けた。
「草ヶ谷くん」
「はい」
男性が顔を上げた。
背は迫田より少し高い。細身で、動作に無駄がない。
髪はやや長めだが、だらしなくは見えなかった。
「
草ヶ谷は軽く会釈した。
「二間結人です。よろしくお願いします」
「よろしく。初バイトだっけ?」
「はい」
「じゃあ、分からないことはすぐ聞いて。うち、小さいから、逆に一人で抱え込まれると詰まるんだよね」
迫田が頷く。
「そういうこと。うちは大きい店じゃないからね。基本は私と草ヶ谷くんで回してる。ライブの日は、出演者側に少し手伝ってもらうこともあるけど、それでも最近は手が足りなくて」
「それで募集を?」
「うん。二間くんには、まずできるところから入ってもらう」
結人は頷いた。
人が多い職場ではない。
大きな組織でもない。
だからこそ、一人分の動きが見えやすい。
そのことに、緊張が少し強くなった。
☆☆☆☆☆
最初に任されたのは、店内の説明だった。
迫田が大まかな流れを説明し、草ヶ谷が実際の場所を指しながら補足する。
「荷物はこっち。貴重品は自分で管理」
「スタッフの動線はここ。客席側を横切るより、基本は裏を通る」
「ステージ周りは勝手に触らない」
「ケーブルは踏まない。跨ぐ時も引っかけない」
「分からないものは、触る前に聞く」
結人はメモ帳を開き、要点を書いていった。
草ヶ谷がそれを見て、小さく笑う。
「真面目だ」
「覚えきれる自信がないので」
「いいよ。覚えたつもりで間違えるより、メモ見る方が全然いい」
その言葉に、結人は少しだけ肩の力を抜いた。
草ヶ谷は客席の後ろ寄りにある小さな卓を指差した。
そこには、つまみやフェーダーの並んだミキサーが置かれている。
「あと、ここ。PA卓。ここは基本、触らない」
「はい」
結人は頷いた。
PA。
ライブやイベントの音響を扱う領域で、それを担当する人間をPAエンジニアと呼ぶ。
前世のイベント派遣で、何度か聞いた言葉だった。
マイクや楽器の音をまとめ、客席へ届ける音を調整する仕事。
概要くらいは知っている。
ただ、それだけだ。
大型ライブや公共施設のイベントで、警備や導線整理の仕事をしていた時、PA卓の近くに立つことはあった。
黒い服を着たスタッフが、ヘッドホンを片耳に当て、卓の前で何かを調整している姿も見たことがある。
けれど、きちんと意識して見たことはなかった。
自分の仕事は、あくまで客の流れを見ることや、通路を塞がないことだったからだ。
「PAって、音響ですよね」
「ああ、知ってるんだ」
「概要だけです。イベント会場で、見たことがあるくらいで」
「なら話が早い。分からない人ほど、平気で触ろうとするから」
「触らないですよ」
結人が少し強めに答えると、草ヶ谷は納得したように頷いた。
「そこまで分かってるなら十分」
草ヶ谷は続けて、ステージの左右を指した。
「このあと、椅子を少し戻すんだけど、そこの黒いケースは上手側に寄せて。で、下手側の通路は空けておきたいから……」
そこまで言って、草ヶ谷がふと結人を見た。
「あ、ごめん。上手下手、分かる?」
「確か……客席から見て右が上手、左が下手、ですよね」
「そうそう。舞台に立ってる側からだと逆になるから、慣れてないと混乱するやつ」
草ヶ谷は軽く頷いた。
舞台やテレビ、ライブの現場で使われる言葉だ。
前世のイベント派遣でも、聞いたことはあった。知らない人もいるが、特別な専門職だけが使う言葉というほどでもない。
テレビ番組などでも、時折耳にすることがある。
結人自身も、前世のアルバイトで初めて聞いて覚えた。
だから、関わりがなければ知らない人もいる言葉だろう、くらいの認識だった。
迫田が店内を見渡しながら言う。
「あと、お客さんが入る前は通路を広く取る。荷物やケースを置きっぱなしにしない。暗くなると足元が見えにくいから、引っかかりそうなものは先に避ける」
「分かりました」
「分からない時は?」
「聞きます」
「うん。それが一番大事」
その言葉に、結人は前回の面接を思い出した。
『分からないことは、分からないって言っていい』
言われたばかりだ。
忘れてはいけない。
草ヶ谷は店内を見渡しながら、説明を続けた。
「今日はそこまで大きいイベントじゃないけど、開場前と終演後はどうしてもバタつく。出演者さんにも手伝ってもらうことはあるけど、こっちの確認なしに動いてもらうと逆に危ない時もあるから」
「はい」
「だから、二間くんは最初、運ぶ前に確認。触る前に確認。判断する前に確認。これでいい」
「分かりました」
「慣れてきたら嫌でも判断させられるから」
草ヶ谷はそう言って、作業に視線を戻した。
結人はその落ち着いた様子を見て、少しだけ息をついた。
☆☆☆☆☆
最初の作業は、客席周りの準備だった。
椅子を並べる。
フライヤーを決まった場所に置く。
通路に余計なものが出ていないか確認する。
カウンター前の床を軽く掃く。
難しい作業ではない。
けれど、気を抜くと見落としが出そうな仕事だった。
結人は椅子を運びながら、通路の幅を見る。
このくらいなら人が通れる。
だが、混んだ時には少し狭いかもしれない。
「あの、店長」
「うん?」
「この椅子、もう少し壁側に寄せた方がいいですか。人が通る時、少し狭い気がして」
「ん? ああ、そうだね。そこはもう少し寄せようか」
迫田は少しだけ目を細めた。
「初日にしては、変なところ見るね」
「すみません」
「いや、褒めてる。お客さんが入ると、ちょっとした幅が大事になるから」
近くでケーブルをまとめていた草ヶ谷も顔を上げた。
「いいね。そういうのに気づける人は助かるよ」
「ありがとうございます」
結人は曖昧に頷いた。
自分でも、なぜそこが気になったのか分かっている。
前世でイベント派遣をしていた時、通路の確保や荷物の置き場所について何度も注意されたからだ。
人の流れを邪魔しないこと。
暗い場所で引っかかりそうなものを減らすこと。
搬入と撤去の動線を塞がないこと。
そういう細かな感覚が、身体のどこかに残っている。
「前に、似たような場所を見たことがある気がして」
「へえ。ライブハウス?」
「……こういう場所、というか。イベント会場みたいなところを少し」
「なるほどね」
迫田に尋ねられたが、言えるはずもなく、曖昧に濁した。
草ヶ谷も「ふうん」と言っただけで、ケーブルをまとめる手を止めなかった。
「じゃあ、そういう目は大事にして。慣れてきたら助かる」
「はい」
助かる。
その言葉が、結人の胸に少しだけ残った。
草ヶ谷が備品の入ったケースを指差す。
「二間くん、これ、カウンター下に入れてくれる? 重かったら無理しなくていい」
「はい。大丈夫です」
機材ではなく、備品の入ったケースだった。
結人は両手で持ち上げ、指定された場所へ運ぶ。
思ったより、身体が動いた。
柴咲光だった頃なら、こういう作業は少し遅れたかもしれない。
持ち上げ方に迷い、周囲の速度に焦り、余計に動きがぎこちなくなったかもしれない。
今は違う。
重さはある。息も少し上がる。
けれど、持てる。動ける。
『同じ自分なのに、違う身体なんだな』
嬉しいような、怖いような感覚だった。
身体が動くからといって、自分が急に別人になったわけではない。
迷うところは迷う。
緊張もする。
人の目も気になる。
それでも、できることが増えている。
その事実は、確かに結人の中に残った。
☆☆☆☆☆
開場時間が近づくと、店の空気が変わった。
出演者らしい人たちがステージ周りで声をかけ合い、音出しが始まる。
マイクに声が入り、ギターの音が鳴り、低い振動が床から伝わってくる。
草ヶ谷はPA卓の前に立っていた。
さっきまで淡々としていた草ヶ谷の表情が、さらに引き締まっていた。
ヘッドホンを片耳に当て、ステージ上の出演者へ短く声をかけている。
「じゃあ、上手ギターください。……はい、そこで。下手ベース、少しお願いします」
「返し、もう少し欲しいです」
「了解。これくらい?」
「大丈夫です」
草ヶ谷の指が、ミキサーのフェーダーに触れる。
ほんの少し動かしただけなのに、スピーカーから出る音の感じが変わった気がした。
結人に細かい違いが分かるわけではない。
どのつまみが何を変えるのかも、正確には分からない。
けれど、草ヶ谷がただ音を大きくしているわけではないことは分かった。
ステージの上にいる人間がいて。
客席で受け取る人間がいて。
その間で、音を整える人間がいる。
『こういう仕事なんだな』
前世のイベント現場では、PAエンジニアを視界の端で見ていただけだった。
忙しそうだと思ったことはある。
触ってはいけない場所だと思ったこともある。
けれど、きちんと意識して見るのは初めてだった。
上手。
下手。
返し。
聞いたことのある言葉が、今は実際に現場を動かすための合図になっている。
ただの知識ではなく、人を動かし、音を整え、場を成立させるための言葉だった。
PA卓の前にいる草ヶ谷の目は、ひどく真剣だった。
結人は邪魔にならない位置で、その横顔を見ていた。
「二間くん」
迫田に呼ばれ、結人は慌てて顔を向ける。
「はい」
「開場したら、最初は受付の補助。難しい対応は私がやるから、案内とドリンク代の確認だけ手伝って」
「分かりました」
結人は頷いた。
ステージの音が、また少し変わる。
草ヶ谷の指が動く。
出演者が頷く。
そのやり取りを背中に感じながら、結人は受付の位置へ向かった。
☆☆☆☆☆
開場すると、結人は受付の補助についた。
難しい対応は迫田が行い、結人は横でチケット確認の流れを見ながら、案内を手伝う。
「いらっしゃいませ」
「こちらで確認します」
「ドリンク代は、こちらでお願いします」
言葉は何度も頭の中で練習した。
それでも、最初の数人には声が少し上ずった。
「い、いらっしゃいませ」
「あ、はい」
客の方が軽く会釈してくれたので、結人は余計に申し訳なくなった。
『落ち着け。声を出すだけだ』
そう思っても、簡単ではない。
接客は、荷物を運ぶのとは違う。
相手の反応がすぐに返ってくる。
少し詰まりながらも、結人は何とか案内を続けた。
分からないことは、隣の迫田に小声で確認する。
聞くたびに、胸の奥が少しだけざわついた。
迷惑をかけているのではないか。
自分で判断した方がいいのではないか。
そんな考えが浮かぶ。
だが、迫田の言葉が頭をよぎった。
『黙って抱え込まれる方が困る』
結人は唇を結び、もう一度確認する。
「あの、この方は当日券で大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。こっちで受けるから、二間くんはドリンク案内お願い」
「はい」
聞いた方が早い。
分からないまま止まるより、ずっといい。
当たり前のことだった。
けれど、結人には小さな進歩だった。
本番が始まると、草ヶ谷はほとんどPA卓の前を離れなかった。
客席の後ろ寄りに置かれた卓からステージを見て、時折フェーダーに指を添える。
ボーカルの声が少し埋もれたと思えば、ほんのわずかに音量を上げる。
ギターが前に出すぎれば、少しだけ抑える。
結人には、その細かな違いのすべてが分かるわけではなかった。
それでも、草ヶ谷の仕事がライブ全体を支えていることは分かった。
派手な場所の、派手ではない仕事。
けれど、そこに技術と責任がある。
結人は空いたカップを回収しながら、草ヶ谷の横顔をちらりと見た。
ステージに立たない仕事。
けれど、ステージを成立させる仕事。
その姿は、妙に印象に残った。
☆☆☆☆☆
その後、結人は主にカウンター周りの補助と客席の確認をした。
こぼれたドリンクを拭く。
空いたカップを片付ける。
通路に荷物がはみ出していないか見る。
困っていそうな客がいれば、迫田に伝える。
ライブの音は、ずっと身体の奥で鳴っていた。
歌詞ははっきり聞き取れない。
けれど、客席にいる人たちが同じ方向を向き、ステージからの音を受け止めているのは分かった。
誰かにとって、ここは特別な時間なのだろう。
結人は床に落ちた紙くずを拾いながら、ふと思った。
自分がやっていることは、目立つ仕事ではない。
ステージに立つわけでも、音を作るわけでもない。
ただ、誰かの時間が崩れないように、端を整えているだけだ。
けれど、それでいいのかもしれない。
前世でも、イベントの終わった後の空っぽの客席を見たことがある。
自分が何か大きなことを成し遂げたわけではなかった。
それでも、準備と片付けの中に自分の手が少しだけ混ざっていたことが、不思議と嫌ではなかった。
今も同じだ。
いや、今は少しだけ違う。
自分で選んで、ここに来た。
その違いは、思ったよりも大きかった。
ステージの曲が終わり、客席から拍手が起きる。
その拍手を聞きながら、結人は空いたカップを回収した。
☆☆☆☆☆
終演後の片付けは、開場前よりも慌ただしかった。
客が帰り、出演者が荷物をまとめ、迫田と草ヶ谷が一斉に動き出す。
椅子を戻す。
床を掃く。
忘れ物がないか確認する。
カウンター周りを片付ける。
出演者の一人も、慣れた様子でマイクスタンドを端へ寄せていた。
「これ、いつもの場所でいいですか?」
「うん、助かります。そこ置いといてください」
草ヶ谷が短く返す。
小さなライブハウスだからこその距離感なのだろう。
店側だけで完結しきれない部分を、出演者も少しだけ手伝う。
だが、草ヶ谷はその動きも見ていた。
任せきりではない。
確認しながら、全体を流している。
結人は指示を聞きながら動いた。
重い機材には勝手に触らない。
運んでいいものと、そうでないものを確認する。
重いものは一人で運ばず、人を呼ぶ。
ケーブルを跨がない。
通路を塞がない。
途中、一度だけ、どこに置けばいいのか分からないケースを持ったまま止まりかけた。
聞くべきだ。
そう思ったのに、一瞬だけ迷った。
忙しそうだ。
今聞いたら邪魔ではないか。
自分で判断できるのではないか。
その迷いを、草ヶ谷に見られていた。
「二間くん」
「はい」
「分からない?」
「……はい。これ、どこに置けばいいか確認したくて」
「それは奥の棚の前。次からは迷ったらすぐ聞いて」
「すみません」
「謝るより先に聞く。初日はそれでいい」
声は怒っていなかった。
けれど、少しだけ芯があった。
結人は深く頷いた。
「はい」
また、抱え込みかけた。
それに気づくと、少しだけ苦くなる。
変わった身体。
新しい生活。
前世の記憶。
それでも、染みついた癖は簡単には消えない。
だが、今日は聞けた。
遅れたが、聞けた。
それを、結人は小さく胸の中に置いた。
片付けが一段落した頃には、身体に軽い疲れが残っていた。
だが、不思議と嫌な疲れではなかった。
迫田がカウンターの近くで声をかけてくる。
「お疲れさま」
「お疲れさまでした」
「初日としては十分。真面目に見てるし、動けてる」
「ありがとうございます」
「ただ、分からない時に一瞬止まるね」
「……はい」
「悪いことじゃない。慎重なのは大事。ただ、現場だと止まる時間が長いほど危ないこともある。分からないなら聞く。慣れたら判断する。その順番でいい」
「はい」
結人はその言葉を、メモするように心の中で繰り返した。
分からないなら聞く。
慣れたら判断する。
草ヶ谷が隣で口元を緩めた。
「迫田さん、その言い方だと学校の先生みたいですね」
「先生ならもっと優しく言うよ」
「いや、十分優しいですって」
「草ヶ谷くんには厳しくしてるつもりだけど」
「それは初耳です」
二人のやり取りに、結人は少しだけ笑った。
大きな店ではない。
人手も多くない。
けれど、ここにはここなりの空気がある。
迫田は結人へ視線を戻した。
「次も同じくらいでいいよ。無理にできるふりはしないこと」
「分かりました」
「じゃあ今日は上がって大丈夫。帰り、気をつけて」
「ありがとうございました」
結人は頭を下げた。
☆☆☆☆☆
ライブハウスを出ると、夜風が少し冷たかった。
耳の奥には、まだ低音の余韻が残っている。
身体にも、片付けの疲れが残っていた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
結人はスマホで時間を確認し、駅へ向かって歩き出す。
大学の周辺とは少し違う夜だった。
学生の声よりも、仕事帰りの人の足音が多い。
店の看板が灯り、スーツ姿の男女が行き交い、細い路地から飲食店の匂いが漂ってくる。
ここは、講義室でもアパートでもない。
今日から、自分が少しだけ関わる場所になった。
『初日、終わったんだな』
完璧ではなかった。
声は上ずった。
何度も確認した。
迷って止まりかけた。
それでも、最後までいた。
逃げずに、終えることができた。
結人は小さく息を吐いた。
その時だった。
「……結人?」
聞き覚えのある声がした。
結人は足を止めた。
ゆっくり振り返る。
少し離れた場所に、一人の女性が立っていた。
仕事帰りなのか、肩に鞄をかけている。髪はきちんと整えられているが、表情にはわずかに疲れが見えた。
けれど、その顔を結人は知っている。
「都子さん……?」
女性は、驚いたように結人を見ていた。
固定は土曜日の22時にしようかと考えております。
出来る限り継続していきたい……。