水底から見上げた、二度目の空   作:しまらくだ

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新キャラ登場回。
外部キャラが先にどんどん出てきている事実


近くにいる人

「都子さん……?」

 

結人が名前を呼ぶと、女性――才木都子(さいきみやこ)は、少しだけ目を丸くしたあと、肩の力を抜いた。

 

「やっぱり結人だ。びっくりした。こんなところで会うとは思わなかった」

「自分もです」

 

そう答えてから、結人は自分の声が思ったよりも硬くなっていることに気づいた。

嫌だったわけではない。

むしろ、知っている人の顔を見られたことに、少し安心している。

けれど、予想していなかった再会は、心の準備を置き去りにしてやってくる。

それが親戚であっても、大学の友人であっても、あまり変わらない。

都子は結人の服装を上から下まで見た。

大学に行く時と大きく違うわけではない。ただ、今日の結人はライブハウスで動き回ったあとで、目元や肩に、わずかな疲れが残っていた。

 

「もしかして、バイト帰り?」

「はい。今日、初日で」

「初日……」

 

都子は少し驚いたように繰り返した。

 

「そっか。もうバイト始めたんだ」

「はい。駅の向こう側にあるライブハウスです」

「それで、ちょっと疲れた顔してるんだ」

「そんなに出てますか?」

「出てる。というか、音に揉まれてきました、って顔をしてる」

「音に揉まれるって表現、初めて聞きました」

 

結人がそう答えると、都子は小さく笑った。

その笑い方に、結人は年始のことを思い出した。

 

☆☆☆☆☆

 

正月の空気は、いつも少しだけ現実味が薄い。

 

テレビから流れる賑やかな声。

こたつの上に並んだみかん。

普段より少し多い料理。

玄関に置かれた、いつもよりよそ行きの靴。

 

二間家に都子が来たのは、年が明けてまだ数日しか経っていない頃だった。

両親が海外へ行く前に、親戚同士で一度顔を合わせておこうという話になったのだ。

結人が大学に通うために一人暮らしを始めること。

その部屋が、都子の住まいから比較的近い場所にあること。

祐司と椿が海外での仕事を増やすこと。

そういう事情が重なって、自然と都子の名前が出た。

 

「結人、春から一人暮らしだもんね」

 

都子はその時、リビングのソファに腰かけ、湯呑みを両手で包みながらそう言った。

 

「はい」

「緊張してる?」

「少しは……」

「正直でよろしい」

 

都子は冗談めかして頷いた。

彼女は椿の姉の娘にあたる。

親戚ではあるが、頻繁に会っていたわけではない。

子供の頃に何度か会った記憶はある。だが、それは二間結人としての記憶だ。

結人の中には、もう一つの記憶がある。

柴咲光としての記憶。

二十九年分の、別の名前で生きていた時間。

だから、親戚の集まりというものは、結人にとって少し難しい。

二間結人として懐かしむべき記憶がある。

でも、心の奥では、別の家の、別の両親の顔も浮かぶ。

笑えば笑うほど、どこかでずれているような感覚があった。

それでも、都子はそのずれを知るはずがない。

当然だ。

知るはずがない。

 

「うちから近いって言っても、歩いてすぐってほどじゃないからね。何でもかんでも呼ばれても困るけど」

 

都子はそう言ってから、少しだけ視線を柔らかくした。

 

「でも、本当に困った時は連絡して。椿さんたちも心配だろうし」

「都子ちゃん、無理しなくていいのよ」

 

椿がそう言うと、都子は首を横に振った。

 

「無理ってほどじゃないですよ。近くに親戚がいるってだけでも、本人はちょっと安心でしょ。ね、結人」

 

話を振られ、結人はわずかに反応が遅れた。

 

「……そうですね。助かります」

 

その答えは、嘘ではなかった。

だが、全部でもなかった。

近くに誰かがいる。

困った時に頼れる人がいる。

それは確かにありがたいことだ。

けれど同時に、申し訳なさもあった。

両親が海外へ行くことを、自分が引き止める理由になってはいけない。

都子の生活に、自分が余計な役目を増やしてはいけない。

そう考えてしまう。

 

『まただ』

 

結人は湯呑みに映る自分の指先を見た。

 

『普通に、ありがとうでいいのに』

 

祐司はそんな結人の様子に気づいたのか、明るい声で言った。

 

「まあ、都子ちゃんに全部任せるつもりはないよ。私たちも連絡は取るし、必要があれば帰ってくる。結人も、もう大学生だしね」

「そうそう。私は見張り役じゃないから」

 

都子は笑った。

 

「ただの、近くに住んでる親戚のお姉さん」

「お姉さん、なんですね」

 

結人がぽつりと言うと、都子は眉を上げた。

 

「何。その言い方。お姉さんでしょ?」

「いえ、否定はしてないです」

「否定しそうな間だった」

「すみません」

「謝るところじゃないし」

 

その場に小さな笑いが起きた。

親戚同士の軽口として通じるかと思って、口にした冗談だった。

幸い笑いになった。

少し安堵しながら、結人も笑みを返した。

けれどその一方で、胸の奥がわずかに痛んだ。

二間家の中で、自分は確かに息子として扱われている。

親戚からも、二間結人として呼ばれている。

心配され、からかわれ、将来を案じられる。

それは幸せなことだ。

だからこそ、時々怖くなる。

 

『この人たちが見ているのは、本当に自分なんだろうか』

 

そんな問いを、結人は誰にも言えなかった。

 

「でも、結人って落ち着いてるよね」

 

都子が湯呑みをテーブルに置きながら、ふと思い出したように言った。

 

「そうですか?」

「うん。変に大人びてるっていうか」

 

その言葉に、結人の指先がわずかに止まった。

都子は慌てた様子もなく、けれど誤解させないようにするみたいに、少しだけ声を柔らかくした。

 

「悪い意味じゃないよ。疑ってるとかでもないし。ただ、自分のことを一歩引いて見てる感じがする時があるなって」

「一歩引いて……」

「うん。困ってても、困ってますって顔をする前に、相手にどう見えるか考えてそうっていうか」

 

結人は何も言えなかった。

 

当たっている。

けれど、都子が思っている理由とは違う。

 

結人が自分を客観視しようとするのは、昔からの性格だけではない。

二間結人として生きながら、柴咲光としての記憶を抱えているからだ。

いつもどこかで、自分を外側から見ている。

この場面で二間結人ならどう返すべきか。

大学生として自然か。

息子としておかしくないか。

親戚として、相手を困らせていないか。

考えて、選んで、言葉を置く。

それが癖になっている。

 

「椿さんたちが言うには、昔から少しそういうところがあったみたいだけど」

 

都子はそう言って、軽く笑った。

 

「でも、あんまり大人ぶらなくていいからね。大学生なんだし」

「……はい」

「返事が早い」

「すみません」

「謝るのも早い」

 

都子が言うと、祐司と椿が笑った。

結人も、少し遅れて笑った。

その笑いの中で、胸の奥に残る違和感だけが、静かに沈んでいった。

 

☆☆☆☆☆

 

「……結人?」

 

呼びかけられて、結人は現実に戻った。

 

夜の街の音が戻ってくる。

車の走る音。

誰かの笑い声。

遠くの店から漏れる音楽。

そして、目の前にいる都子の声。

 

「大丈夫? 疲れてる?」

「すみません。少しぼーっとしてました」

「初日なら仕方ないか。立ち仕事?」

「半分くらいは。受付とか、片付けとか、いろいろです」

「ライブハウスって、音すごそう」

「すごかったです。まだ耳に残ってます」

 

結人がそう言うと、都子は少し顔をしかめた。

 

「それ、耳大丈夫?」

「たぶん、大丈夫です。慣れてないだけだと思います」

「たぶんって言う人ほど、あとで大丈夫じゃなかったりするからね」

 

その言い方が、どこか椿に似ていた。

血がつながっているからなのか。

それとも、心配する人間の口調というものは似るのか。

結人は答えに迷い、曖昧に頷いた。

 

「気をつけます」

「うん。気をつけて」

 

都子はそこで一度、駅の方へ視線を向けた。

 

「帰り、電車?」

「はい」

「私も駅まで行くところ。途中まで一緒に行く?」

「大丈夫ですか?」

「こっちの台詞。久しぶりの従弟とも話したいし、いいでしょ?」

「自分は大丈夫ですけど……」

「だったら、私も駅に行くんだから、遠慮するところじゃないでしょ」

 

都子は軽く肩をすくめて歩き出した。

結人は一拍遅れて、その隣に並ぶ。

歩幅は都子の方が少し速かった。

だが、彼女はすぐに気づいたように速度を落とした。

それが自然だったので、結人はかえって何も言えなくなった。

 

「あれから、部屋には慣れた?」

「はい。だいぶ」

「ご飯は?」

「一応、自炊もしてます」

「一応っていうのが怖いな」

「冷凍食品にも助けられてます」

「それは大事。現代人の味方だから」

 

都子は真面目な顔で頷いた。

 

「でも、ちゃんと食べてるならよし」

「はい」

「椿さんたちから、たまに連絡来る?」

「来ます。写真も送られてきます」

「写真?」

「父さんが撮った海外の景色とか、母さんが気に入った店の内装とか」

「二人らしいね」

 

都子は少し笑った。

 

「寂しくない?」

 

その質問は、突然ではなかった。

会話の流れとしては自然だった。

 

けれど結人は、すぐには答えられなかった。

寂しい。

そう言えば、両親を心配させるような気がする。

寂しくない。

そう言えば、嘘になるような気がする。

二間祐司と二間椿は、結人をきちんと愛してくれている。

それは分かっている。

だからこそ、彼らが海外で仕事をすることを応援したいと思う。

でも、部屋に帰って明かりをつける瞬間、ふと静けさが広がる時がある。

その静けさの中で、二間結人としての自分と、柴咲光としての自分が、同じ部屋に立っているような気がする。

どちらも自分なのに、どちらかだけを選べない。

 

『寂しいって、誰に対してなんだろう』

 

結人は足元を見た。

 

「……たまに、静かだなとは思います」

 

ようやく出した答えは、少し遠回りだった。

都子は茶化さなかった。

 

「そっか……」

 

ただ、短くそう言った。

それだけなのに、結人は少し息がしやすくなった。

大げさに同情されるよりも、無理に励まされるよりも、その相槌は楽だった。

 

「でも、大学もありますし。友人もできましたし。バイトも、今日からですけど始めたので」

「うん」

「だから、大丈夫です」

 

最後の一言は、少しだけ急いで付け足したものだった。

都子は横目で結人を見る。

 

「結人の大丈夫って、便利に使われてそう」

「え?」

「何でも大丈夫って言えば済むと思ってない?」

 

図星だった。

結人は返事に詰まった。

都子はその沈黙を見て、苦笑する。

 

「ごめん。責めてるわけじゃないよ」

「いえ……」

「でも、年始に会った時もちょっと思ったんだよね。結人って、変に大人びてるところがあるっていうか」

「大人びてる、ですか?」

「うん。落ち着いてるって言えばいいのかな。自分のことを、外から見てるみたいに話す時がある」

 

結人の足が、ほんの少し遅れた。

都子はそれに気づいたのか、すぐに言葉を重ねる。

 

「悪い意味じゃないよ。疑ってるわけでもないし。ただ、自分のことを一歩引いて見てる感じがする時があるなって」

「……そうなんですね」

「ただ、そういう子ってさ、周りに心配かけないようにするのも上手いんだよね。上手いというか、慣れてるというか」

 

結人は答えられなかった。

都子の言葉は、核心を突いているようで、少しだけ外れている。

いや、外れているからこそ、息ができた。

転生していることを見抜かれているわけではない。

前世の記憶を疑われているわけでもない。

ただ、二間結人という人間にある性質として、都子はそれを見ている。

それならまだ、受け止められる。

 

「……癖かもしれません」

 

結人が言うと、都子は「そっか」と短く返した。

 

「じゃあ、今後のために一個だけ約束」

「約束ですか?」

「本当に困った時は、困ったって言うこと。私に限らなくていい。友達でも、大学でも、バイト先でも、誰でもいいから」

「はい」

「返事が早い」

「すみません……」

「謝るのも早い」

 

都子が言うと、結人は思わず口を閉じた。

それを見て、都子は笑った。

 

「今のはちょっと意地悪だったね」

「いえ、事実なので」

「そういうところ」

「……はい」

 

二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。

気まずい沈黙ではなかった。

夜道を歩くには、むしろちょうどいい間だった。

結人は横断歩道の信号を見上げた。

赤い光が、濡れてもいない道路にぼんやり映っている。

都子は隣で鞄の肩紐を直していた。

 

「そういえば、うちの彼氏が音楽好きなんだよね」

 

都子が思い出したように言った。

 

「彼氏さん、ですか」

「うん。ライブハウスもたまに行くの。大きい会場より、近い距離で音を浴びる感じが好きなんだって」

「音を浴びる……」

「さっき私も言ったけど、彼氏の受け売り」

 

都子は少しだけ照れたように笑った。

 

「だから、結人のバイト先にも行くことあるかもね」

「そうなんですか」

「どんな系統のライブが多いの?」

「まだ詳しくは分からないですけど、今日はロック系のバンドが多かったです。インディーズの人たちだと思います」

「あー、じゃあ好きそう」

 

都子は納得したように頷いた。

 

「もし行ったらよろしくね」

「どんな人なんですか?」

「音楽の話になると、ちょっと長い」

「長いだけなら、大丈夫だと思います」

「結人、今ちょっと大人な返ししたね」

「そうですか?」

「うん。そういうところ」

 

都子がからかうように言う。

結人は返事に困って、視線を前に戻した。

 

「でも、そうなったら少し緊張します」

「何が?」

「仕事しているところを、都子さんたちに見られるのが……」

「ああ、親戚にバイト先見られるのって気まずいか」

「はい。かなり」

 

結人が素直に答えると、都子は楽しそうに笑った。

 

「じゃあ、行く時は事前に言う」

「できればお願いします」

「できればっていうか、たぶん彼氏が先に語り出すと思う。今度このライブ行くんだけど、みたいに」

「本当に音楽が好きなんですね」

「好きだね。私は詳しくないけど、たまに一緒に行くと楽しいよ。音が大きすぎて、終わったあと会話がちょっと変になるけど」

「今日の自分がそれです」

「そっか。じゃあ今、結人はライブ後の人なんだ」

「そうなります」

「ライブ後の人、お疲れさま」

 

都子が少しふざけて言う。

結人は笑いながら、「ありがとうございます」と答えた。

駅が近づいてくると、人の流れが増えた。

改札へ向かう人。

反対に街へ出ていく人。

スマホを見ながら歩く人。

イヤホンをしたまま、誰とも目を合わせない人。

その中を、結人と都子は並んで歩いた。

駅前の明かりの下で、都子は立ち止まった。

 

「結人はこっち?」

「はい。都子さんは?」

「私は反対側」

「そうですか」

 

会話が終わる。

そう思うと、結人は少しだけ名残惜しさを覚えた。

親戚だから。

近くに住んでいるから。

両親に頼まれているから。

そういう理由はある。

それでも、今この時間に一緒に歩いてくれたことは、都子自身の意思でもあったはずだ。

それを、結人はどう受け取ればいいのか分からなかった。

 

「結人」

 

都子が名前を呼んだ。

 

「はい」

「また、どこかでご飯でも食べよう。予定が合えば」

「いいんですか?」

「だから、そういう聞き方」

 

都子は苦笑した。

 

「いいから言ってるの」

「彼氏さんは?」

「従弟とご飯行くくらいで、どうこう言うタイプじゃないよ」

「ならいいですけど……」

 

煮え切らない結人に対して、都子は少し胸を張った。

 

「少しはお姉さんに甘えなさい」

 

都子はじっと結人を見ていた。

 

結人は小さく息を吐き、改めてきちんと都子に顔を向けた。

 

「その時は、よろしくお願いします」

「よろしい」

 

都子は満足そうに頷いた。

 

「じゃあ、帰り気をつけて。初日、お疲れさま」

「ありがとうございます。都子さんも、お疲れさまです」

「ありがとう」

 

都子は軽く手を振り、反対側の改札へ向かって歩き出した。

結人はその背中を少しだけ見送った。

人の流れに紛れていく都子の姿は、すぐに駅の明かりの中へ溶けていく。

それでも、彼女が最後に言った「お疲れさま」は、耳の奥に残った低音よりもはっきりと残っていた。

 

『近くに住んでる親戚のお姉さん、か』

 

年始に都子が言った言葉を思い出す。

見張り役ではない。

保護者でもない。

ただ、近くにいる人。

その距離感は、結人にとって少し不思議だった。

近すぎず、遠すぎない。

踏み込みすぎず、でも必要な時には声が届く。

そんな人間関係を、自分はうまく受け取れるのだろうか。

改札を通り、ホームへ向かう階段を下りながら、結人はスマホを取り出した。

メッセージアプリを開く。

両親からの未読はなかった。

代わりに、大学のグループチャットで渉がどうでもいいスタンプを送っていた。

結人はそれを見て、少しだけ笑う。

返事を打つか迷って、画面に「バイト初日、終わった」と打ち込んで、送信した。

すぐに既読がつく。

渉から、勢いだけのスタンプが返ってきた。

修司からは、「お疲れ」と短い返信が来た。

それだけで、胸の奥の緊張が少し緩んだ。

続けられるかは、まだ分からない。

うまくやれるかも、分からない。

二間結人として、自分がどこまで自然に生きられるのかも、分からない。

けれど今日、バイト初日を終えた。

都子と再会した。

友人に、終わったと送った。

それらは全部、小さなことだ。

でも、小さなことが一つずつ積み重なって、今日という日を作っている。

電車がホームに入ってくる。

風が頬を撫で、結人は一歩下がった。

 

扉が開く。

人が降りる。

人が乗る。

 

結人も、その流れの中に入った。

吊り革の下に立ち、窓に映る自分を見る。

そこにいたのは、疲れた顔をした大学生だった。

ライブハウスの音を耳に残し、親戚に心配され、友人にメッセージを送った、ただの大学生。

それが本当に自分なのかという問いは、まだ消えない。

けれど、今夜だけは少しだけ思えた。

 

『今日の自分は、ちゃんとここにいた』

 

電車が動き出す。

窓の外の光が、線になって流れていった。




なかなか本筋要素までいけない。
テンポが難しい……。
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