こうして書いてると仕事にしているプロの方の凄さを実感します。
翌朝、結人はいつもより少し重いまぶたを開けた。
カーテンの隙間から差し込む光は、もう冬を感じるものではなかった。
白く冷たい朝ではなく、どこか薄く黄色を含んだ、すっかり春の朝の光だった。
スマホのアラームを止める。
画面には、昨夜のグループチャットの通知が残っていた。
渉からは、意味の分からない勢いだけのスタンプが三つ。
修司からは、「初日お疲れ。無理すんなよ」と短いメッセージ。
その少しあとに、また渉が「ライブハウスってモテる?」と送っていた。
結人は寝起きの頭でそれを眺め、少しだけ口元を緩めた。
「……朝から元気だな」
小さく呟いてから、画面に指を滑らせる。
「まだ分からない」
そう返すと、数秒もしないうちに既読がついた。
早い。
渉からすぐに返信が来る。
「夢がない」
続いて修司が、
「バイトに夢を求めるな」
と返した。
そのやり取りを見て、結人は布団の上で静かに笑った。
昨日の夜、都子と別れたあと、電車の窓に映った自分の顔を思い出す。
疲れていて、少しぼんやりしていて、それでも確かにそこにいた大学生の顔。
その感覚は、朝になっても完全には消えていなかった。
『今日も、ちゃんと起きた』
たったそれだけのことなのに、結人は少しだけ自分を確認するような気持ちになった。
顔を洗い、簡単な朝食を用意する。
食パンを焼き、インスタントのスープを作り、冷蔵庫からヨーグルトを取り出す。
一人暮らしを始めたばかりの頃は、その一つひとつに妙な緊張があった。
米を炊く量。
洗剤の減り方。
ゴミを出す曜日。
冷蔵庫の中身の管理。
使った食器を、あとでではなく今洗うこと。
どれも些細なことだ。
けれど、些細なことを一人で積み重ねる生活は、思っていたよりも静かに体力を使った。
それでも最近は、少しずつ手順ができてきた。
何時に起きれば間に合うのか。
どのスーパーが安いのか。
どの冷凍食品が思ったより助けになるのか。
そういう小さな情報が、少しずつ自分の生活の輪郭になっていく。
食パンをかじりながら、結人はスマホをもう一度見た。
都子からもメッセージが来ていた。
「昨日はお疲れ。耳、大丈夫?」
昨夜別れたあと、家に着いたとだけ送っていた。
その返事だろう。
結人は少し考えてから、短く打つ。
「大丈夫ですよ。もう何ともないです」
すぐには既読にならなかった。
社会人の朝は忙しいのだろう。
結人はスマホを伏せ、残ったスープを飲み干した。
都子との距離感は、不思議だった。
親戚。
近くに住んでいる人。
困った時に連絡していい相手。
ただ、それをどう扱えばいいのかはまだ分からない。
頼ればいいと言われても、頼ることそのものが簡単ではない。
迷惑ではないのか。
重くないのか。
自分の都合で誰かの時間を奪っていないのか。
考え出すと、いつも同じところへ戻ってしまう。
『困った時は、困ったって言うこと』
昨夜の都子の声が、ふと耳に戻る。
結人は空になったスープカップを見下ろした。
「……難しいな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
☆☆☆☆☆
大学の構内にあった桜は、少しずつ葉を増やしていた。
入学式の頃には、風が吹くたびに花びらが舞っていた道も、今は薄い緑に変わり始めている。
春は、始まりの季節というより、始まったものが日常に馴染んでいく季節なのかもしれない。
結人が講義室に入ると、すでに渉が席を取っていた。
「お、ライブ後の男」
「その呼び方、都子さんにもされた」
「誰?」
「親戚の人。近くに住んでる」
「へえ。近くに親戚いるの、何か安心だな」
渉はそう言いながら、隣の席を鞄で軽く叩いた。
座れ、ということらしい。
結人が席につくと、後ろから修司もやってきた。
「顔、少し疲れてるな」
「出てる?」
「少しな」
「昨日も同じこと言われた」
「じゃあ出てるんだろ」
修司はさらりと言って、結人の後ろの席に座った。
渉が身を乗り出す。
「で、どうだったんだよ。ライブハウス。やっぱバンドマンってかっこいいの?」
「かっこいい人もいたけど、裏ではみんな普通に準備してた」
「夢があるような、ないような」
「仕事だから」
「結人、急に現実を刺してくるよな」
渉が大げさに胸を押さえる。
修司が小さく笑った。
「初日なら、何したんだ?」
「受付を少しと、ドリンクの補助と、片付け。あと、機材の近くで邪魔にならないようにすること」
「最後、仕事なのか?」
「たぶん、大事な仕事」
結人が真面目に答えると、渉は一瞬きょとんとしてから笑った。
「まあ、確かに。邪魔しない新人、えらい」
「褒められてる気がしない」
「褒めてる褒めてる」
渉の軽い声に、結人は肩の力を少し抜いた。
こういう会話は、前世では得意ではなかった。
何をどこまで冗談として受け取ればいいのか。
どこで笑えばいいのか。
どう返せば場を止めずに済むのか。
考えすぎて、返事が遅れることも多かった。
今も考えないわけではない。
でも、渉は多少返事が遅れても勝手に喋る。
修司は無理に言葉を足さない。
その二人の間にいると、沈黙が全部失敗になるわけではないのだと、少しだけ思える。
講義が始まる前、颯が遅れて入ってきた。
「おはよ。何の話?」
「結人がライブハウスの男になった話」
「何それ。急にモテそうじゃん」
「やっぱそう思うよな」
渉と颯が勝手に盛り上がる。
結人は苦笑した。
「モテるかどうかは分からない」
「いや、ライブハウスで働いてる大学生って、響きは強いよ」
颯は軽い調子で言いながら、自分の席に座った。
「今度、合コンの時に使おうよ。友達がライブハウスで働いてて、って」
「使わないで」
「即答」
「それは即答する」
修司が低く笑った。
渉も笑う。
颯は「ちぇ」とわざとらしく肩を落とした。
その空気の中で、結人は少しだけ息を吐いた。
大学生活は、まだ慣れたとは言えない。
講義も、友人関係も、一人暮らしも、バイトも、全部が始まったばかりだ。
けれど、始まったばかりのものが、少しずつ繰り返しに変わっていく気配はあった。
そのことが、少し怖くもあり、少し救いでもあった。
☆☆☆☆☆
ライブハウスのバイトは、想像していたよりも地味な作業が多かった。
華やかなステージ。
照明に照らされるバンド。
観客の歓声。
そういうものは確かにある。
だが、その裏側には、床に落ちた紙コップを拾う時間があり、ドリンクの在庫を確認する時間があり、出演者に楽屋の場所を案内する時間があった。
結人は何度目かの出勤で、受付横の小さな棚を整理していた。
「二間君、そこ終わったらこっちもお願いできるかな」
カウンターの奥から、迫田が声をかけてきた。
「はい。すぐ行きます」
棚を整え終えてカウンターへ向かうと、迫田は紙のリストを差し出した。
「今日は客入りが多めだから、ドリンク周りを早めに確認しておこう。分からないことがあったら、勝手に判断しないで聞いてね」
「はい」
「新人のうちは、聞くのも仕事だから」
迫田は穏やかに言った。
その言葉は、結人にとってありがたいものだった。
勝手に判断して失敗することへの怖さがある。
けれど、聞きすぎれば迷惑になるのではないかという不安もある。
聞くのも仕事。
そう言われると、少しだけ動きやすくなる。
リストを見ながら在庫を確認していると、ステージ側から声が飛んだ。
「二間、そこのケーブル踏むなよ」
草ヶ谷の声だった。
「分かりました」
結人はすぐに足を引いた。
「返事より足元。ここ、暗くなるとマジで危ないから」
「はい。気をつけます」
草ヶ谷はそれ以上何も言わず、ケーブルの位置を直すと、また機材の方へ向き直った。
ただの注意だった。
そう分かっている。
分かっているはずなのに、結人の体は一拍遅れて固まっていた。
胸の奥が、きゅっと狭くなる。
何か大きな失敗をしたわけではない。
怒鳴られたわけでもない。
草ヶ谷の言葉だって、間違っていない。
むしろ、正しい。
ケーブルを踏めば、誰かが転ぶかもしれない。
機材に影響が出るかもしれない。
暗い店内で、スタッフが足元を見ていなければ事故に繋がる。
『事故にならないように、か』
結人は足元のケーブルを見下ろした。
当たり前のことだ。
けれど、当たり前を当たり前として受け取るまでに、結人は少し時間がかかることがある。
前世でもそうだった。
注意されると、内容より先に自分が責められた感覚が来る。
自分の不器用さを突きつけられたようで、体が固まる。
そのあとでようやく、何を直すべきだったのかを考える。
今の自分は、前世の自分とは違う。
そう思いたい。
それでも、体の奥に残った癖は、簡単には消えない。
「二間君」
迫田の声で、結人は顔を上げた。
「大丈夫?」
その問いかけで、自分が少し動きを止めていたことに気づいた。
「はい。大丈……」
反射のように答えそうになったが、ふと都子の声を思い出す。
『結人の大丈夫って、便利に使われてそう』
結人は一度、言葉を飲み込んだ。
大丈夫。
そう言えば、その場は終わる。
相手もそれ以上気にしなくて済む。
でも、それは本当に大丈夫なのか。
それとも、ただ自分が話を終わらせたいだけなのか。
結人は手元のリストを見直した。
「……いえ、少し確認したいです。ドリンクの補充、こっちの順番で合ってますか?」
迫田は一瞬だけ目を細め、それから嬉しそうに頷いた。
「うん。確認してくれて助かる。そこは先に水からで大丈夫」
「はい」
たったそれだけのことだった。
けれど、結人の中では少しだけ大きかった。
困ったと言ったわけではない。
助けを求めたというほどでもない。
ただ、確認した。
それだけでも、昨日までの自分よりは少しだけましな気がした。
☆☆☆☆☆
四月は、気づけば終わりに近づいていた。
大学の講義にも少しずつ慣れ、教室の場所を確認するために早く着きすぎることも減った。
昼食を一人で済ませる日もあれば、渉や修司たちと食べる日もある。
バイトはまだ緊張する。
だが、初日のように何もかもが分からない状態ではなくなった。
迫田に聞く回数は多いままだが、聞く内容は少しずつ具体的になってきた。
草ヶ谷に注意されることもある。
それでも、注意の意味をその場で考えられる日が増えた。
都子とは、時々メッセージをやり取りした。
内容は大したものではない。
耳は大丈夫か。
ご飯は食べているか。
駅前のスーパーは夜に惣菜が安くなる。
ただし、買いすぎると冷蔵庫が詰む。
彼氏が音楽好きなので、そのうち本当にライブハウスに行くかもしれない。
そういう、生活の端に触れるようなやり取りだった。
結人は、それが少し不思議だった。
誰かと頻繁に長く話しているわけではない。
深刻な相談をしているわけでもない。
けれど、ふとした時に連絡していい相手がいることは、思っていたよりも心を軽くした。
ある日の昼休み、結人は学食で渉たちと昼を食べていた。
渉はカレーを食べながら、なぜか真剣な顔をしていた。
「大学ってさ」
「うん」
「思ったより、イベント多いよな」
結人が首を傾げると、渉はスマホの画面を見せてきた。
そこには、実行委員募集、ボランティア募集、講演会の案内が映っていた。
その中に、少し気の早い文字がある。
秋桜祭実行委員募集。
「秋桜祭?」
「学園祭だってさ。秋にやるやつ」
「まだ春だけど」
「準備は早いんだろ」
修司が水を飲みながら言った。
颯は興味ありげにスマホを覗き込む。
「学祭か。いいね。出会いがありそう」
「お前、そればっかだな」
修司が呆れたように言う。
颯は悪びれもせず笑った。
「大学生活だよ? 出会いは大事にしないと」
「否定はしないけど、目的が偏ってる」
「修司は黙ってても出会いが来る側だからな」
「来ない」
「嘘つけ」
渉がすぐに突っ込んだ。
そのやり取りを見ながら、結人は掲示板の写真にもう一度目を向けた。
秋桜祭。
学園祭。
まだ、遠い話のように思えた。
春がやっと馴染み始めたばかりなのに、大学はもう秋の準備を始めている。
そのことが少し不思議だった。
「ミスコンとかもあるのかな」
颯が何気なく言った。
その言葉に、渉がすぐ反応する。
「あるんじゃね? 大学の学祭ってそういうのやるイメージある」
「偏見がすごいな」
修司が言うと、渉はスプーンを持ったまま胸を張った。
「でも見たいだろ、ミスコン」
「まあ、やるなら人は集まるだろうな」
その時、隣のテーブルにいた紗理奈が、こちらを振り返った。
「何、ミスコンの話?」
「紗理奈、食いつくの早いな」
渉が軽く手を上げると、紗理奈は当然のような顔で笑った。
「あー、毎年何かしらそういう企画あるっぽいよ。ミスコンか、ステージ企画かは年によるらしいけど」
「詳しいな」
「高校時代の先輩に聞いた。ここの大学に通ってる人でさ。秋桜祭は毎年けっこう盛り上がるらしいよ」
「へえ。じゃあミスコンも本当にあるかもしれないんだな」
渉が少し前のめりになる。
「あるなら見たいな」
「分かる。かわいい子出るなら見たい」
紗理奈が当然のように頷いた。
「紗理奈も出ればいいんじゃね?」
渉が軽く言うと、紗理奈は即座に首を横に振った。
「やだよ。あたしは見る方がいい」
「えー、普通にいけると思うけど」
颯が軽い調子で言うと、紗理奈はスプーンを片手に、わざとらしく肩をすくめた。
「ありがと。でも出るのは別。かわいい子を肴に友達と騒いでる方が楽しい」
「発想がもう観客側なんだよな」
修司が呆れたように言う。
「当然でしょ。かわいい女子は全人類の癒やしなんだから、正面から浴びるべきじゃん」
「主語がでかい」
「大丈夫。イケメン男子もちゃんと癒やしだから」
「何が大丈夫なんだよ」
渉が笑う。
結人もつられて少し笑った。
紗理奈は確かに、目立とうと思えば目立てる方だと思う。
整った顔立ちで、表情も明るい。
黙っていれば綺麗と言われそうなのに、本人は黙っている時間の方が短い。
その気安さが、かえって彼女らしさになっていた。
けれど、本人が言うように、ステージの上で見られるより、客席で騒いでいる方が似合う気もした。
「結人は?」
急に渉がこちらを見た。
「え?」
「ミスコンあったら見る?」
「……人が多そうだから、遠くからなら」
「じいさんみたいな回答するなよ」
「混雑は苦手だから」
「まあ、それは分かる」
修司が静かに頷いた。
紗理奈は結人を見て、にやりと笑う。
「でもさ、そういうのに限って、興味ないって言ってる人ほど巻き込まれたりするんだよね」
「それは困る」
「困るって即答するの、逆にフラグっぽい」
「フラグじゃない」
「どうかなあ」
紗理奈は楽しそうに笑い、隣の友人に呼ばれて席を戻っていった。
渉はまだ何か言いたそうだったが、修司が「午後の講義、移動あるぞ」と言ったことで、話はそこで流れた。
結人は食器を片付けたあと、みんなと教室へ向かった。
その途中で、ふと廊下の掲示板が目に入った。
さっき渉のスマホに映っていたものと同じ張り紙が、そこにも貼られている。
秋桜祭実行委員募集。
春の光の中に、秋の文字がある。
それは少しだけ、季節の先を覗き込むような感覚だった。
まだ遠い。
まだ関係ない。
そう思っている。
けれど、大学生活というものは、思っているよりも早く進んでいくのかもしれない。
桜の花びらが消え、葉が増え、雨の季節が来て、夏が来て。
その先に、秋がある。
いつの間にか足を止めていた結人は、小さく息を吐いて、友人たちの後を追った。
今はまだ、そこまで考えなくていい。
今日の講義に出て、バイトのシフトを確認して、帰ったら洗濯物を畳む。
それだけで十分だ。
それでも、掲示板に貼られた秋の文字は、結人の視界の端に、小さく残り続けていた。
今更ながら自分が執筆しているの主人公どっちも「結」がつきますね。
全く意図してはいなかったですが……。
徐々に先々の展開に繋がる事にも触れていかないとですね。