気がつけば、五月も終わろうとしていた。
朝、カーテンを開ける前から雨だと分かる日が増えた。
窓の向こうから、細い音がずっと続いている。
ベランダの手すりを叩く雨粒の音。
濡れた道路を車が走る音。
遠くで、誰かが傘を開いたような、薄い気配。
結人はベッドの上で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。
雨の日は、あまり好きではない。
服が濡れる。
鞄が濡れる。
電車が混む。
洗濯物が乾かない。
玄関に置いた傘から水が垂れて、床に小さな水たまりができる。
理由を並べようと思えば、いくらでも並べられる。
けれど、それだけではないことを、結人は自分でも分かっていた。
濡れたアスファルトの匂い。
タイヤが水を弾く音。
灰色に沈んだ空。
信号機の赤が、濡れた道路にぼんやり伸びる感じ。
そういうものが、胸の奥のどこかを、指先で軽く押してくる。
強く痛むわけではない。
はっきりと思い出すわけでもない。
ただ、体のどこかが少しだけ遅れる。
前世の最後の日も、雨が降っていた。
その記憶は、普段は深いところに沈んでいる。
けれど雨の日になると、水面に浮かぶ泡のように、ふと輪郭だけを見せることがあった。
『……起きよう』
結人は小さく息を吐き、体を起こした。
スマホのアラームを止める。
画面には、朝からグループチャットの通知が残っていた。
渉から。
「雨、だるい」
続いて颯。
「今日の出会い運、下がった」
その下に、修司の短い返信。
「天気で出会い運を決めるな」
結人はしばらく画面を見つめてから、指を動かした。
「傘、忘れないように」
送信して数秒後、渉から返信が来た。
「もう遅い」
「早すぎる……」
思わず呟くと、颯から何かを諦めたような犬のスタンプが送られてきた。
結人は少しだけ笑って、スマホを伏せた。
雨は好きではない。
それでも、朝から誰かのくだらないやり取りがあると、少しだけ体を動かしやすくなる。
それは、前世の自分にはあまりなかった感覚だった。
顔を洗い、朝食を用意する。
食パンを焼き、インスタントのスープを作り、冷蔵庫の中身を確認する。
卵は残り二つ。
牛乳はそろそろ買わないといけない。
洗濯物は、今日は部屋干しにするしかない。
洗濯機の横に置いた洗剤の残量を見て、結人は買い物リストに「洗剤」と打ち込んだ。
以前なら、なくなってから慌てて買いに行っていた。
最近は、少しだけ早めに気づけるようになった。
一人暮らしにも、少しずつ慣れてきた。
慣れたと言っても、楽になったというより、考えなくてはいけないことの順番が分かってきた、という方が近い。
何を先にして、何を後に回すか。
何を放っておくと、あとで困るのか。
どこまでなら自分でできて、どこからは誰かに聞いた方が早いのか。
生活は、毎日同じように見えて、少しずつ違う。
雨の日は、その違いが少しだけ分かりやすかった。
☆☆☆☆☆
大学の最寄り駅を出ると、改札前は傘の波になっていた。
透明なビニール傘。
黒い大きな傘。
淡い色の傘。
傘と傘がぶつかり、小さく水滴が跳ねる。
人の流れに合わせて歩いているだけで、肩や鞄が他人の傘に触れそうになる。
結人は傘を少し傾け、人の流れから半歩外れるように歩いた。
濡れた横断歩道を渡る時、車のタイヤが近くの水たまりを踏んだ。
水音に、ほんの少し体が強張る。
目の端に、濡れた道路の白線がにじむ。
赤信号の光が、アスファルトの上でぼんやり伸びている。
どこかでクラクションが短く鳴った。
胸の奥が、一瞬だけ詰まる。
けれど、すぐ横を歩いていた学生たちが「最悪、靴終わった」と笑っているのが聞こえた。
その声に、結人は少しだけ現実へ引き戻される。
今は大学へ向かう朝だ。
雨の中を、ただ歩いているだけだ。
結人は傘の柄を握り直し、歩調を戻した。
講義室に着いた時には、靴のつま先が少し濡れていた。
鞄からタオルを取り出し、軽く拭く。
「結人、タオル持ってんのえらいな」
隣から声がして顔を上げると、渉が濡れた前髪を手で払っていた。
「傘は?」
「コンビニで買った」
「忘れたんだ」
「家出る時は降ってなかった気がする」
「降ってたと思う」
「現実を突きつけるな」
渉はそう言いながら、ビニール傘を机の横に立てかけた。
傘の先から、水滴がぽたりと床に落ちる。
結人は無言で、鞄から小さなタオルをもう一枚出した。
「使う?」
「え、いいの?」
「濡れたままだと風邪引くかもしれないし」
「結人、優しい。今日のオレ、結人に救われた」
「大げさ……」
「いや、朝から傘忘れた男にタオルを差し出すのは、もう救済だろ」
「返して」
「使う前に返却要求された」
渉は笑いながらタオルを受け取った。
軽口を叩きながらも、前髪と鞄をきちんと拭いている。
少し遅れて、修司も講義室に入ってきた。
「廊下、滑るから気をつけろよ」
「お前は保護者か」
「転ぶ方が面倒だろ」
「正論が強い」
渉が椅子に座りながら肩を落とす。
その少しあと、颯がやってきた。
傘は持っているのに、なぜか肩だけ妙に濡れている。
「傘あるのに、何でそんな濡れてるんだ」
修司が聞くと、颯は苦笑した。
「駅前で傘さしてる子が困ってたから、ちょっと道譲ったら横から風が来た」
「出会いは?」
「なかったよ」
「残念だったな」
「修司、そういうとこ淡々としてるよね」
渉が笑い、颯も笑う。
結人もつられて少し笑った。
何でもない朝だった。
雨で足元が悪くて、少し肌寒くて、教室の空気もどこか湿っている。
窓際の席からは、ガラスを流れる雨粒が見えた。
外の景色はにじんでいて、校舎の輪郭もいつもより曖昧だった。
それなのに、誰かが濡れただの、傘を忘れただの、そんな話をしているだけで、時間は自然に進んでいく。
結人は机の上にノートを広げながら、ふと思った。
『こういうのも、大学生活なんだな』
特別な出来事ではない。
何かが劇的に変わるわけでもない。
けれど、同じ講義室に集まり、同じように文句を言い、同じように笑う。
その繰り返しが、少しずつ関係を形にしていくのかもしれなかった。
講義が始まる少し前、渉が借りたタオルを丁寧に畳んで返してきた。
「ありがとな」
「うん」
「ちゃんと洗って返した方がよかった?」
「そこまではいい」
「じゃあ今度ジュース奢る」
「覚えてたらでいい」
「覚えてるって。たぶん」
「その言い方は覚えてない」
修司が小さく笑った。
颯が「僕が覚えとくよ」と言い、渉が「お前に覚えられると高いやつ買わされそう」と返す。
雨音はまだ窓の外で続いていた。
けれど、その音は朝起きた時よりも少し遠く感じられた。
☆☆☆☆☆
梅雨に入ってから、昼休みの学食はいつもより混むようになった。
外のベンチや芝生で食べる学生が減るからだろう。
湿った傘を持った学生たちが、席を探して学食の中を行き来している。
床にはところどころ水の跡があり、誰かが滑らないように置いた黄色い注意看板が、妙に目立っていた。
結人たちも、四人掛けの席を見つけるまでに少し時間がかかった。
「混みすぎだろ」
渉がトレーを持ったまま、周囲を見回す。
「雨だからな」
修司は短く答えた。
「雨の日って、みんな考えること同じだよね」
颯が言いながら、空いた席を見つけて顎で示した。
どうにか席につくと、渉はすぐにため息をついた。
「大学ってさ、もっとこう、自由でキラキラしてると思ってたんだよ」
「してない?」
「レポートと雨とバイトのシフトで埋まってる」
「現実だな」
修司が箸を割りながら言う。
因みに結局渉は悩んでいたアルバイトに関しては派遣で空いた時間で行っている。
そんなに頻度は多くないようだが、それでも予定は埋まっているらしかった。
また、颯は前に話していたバー、紗理奈もコールセンターに落ち着き現在はアルバイトをしている。
「前に似たようなこと言った気がするけど、それ、理系の人に聞かれたら怒られそう」
結人は味噌汁の湯気を見ながら、ぽつりと突っ込んだ。
「まじかよ……」
渉は信じられないという顔で項垂れていた。
「大学はもっと遊べる場所だと思ってた」
「大学も、一応学校だから」
「急に真面目なこと言うなよ」
「真面目に聞こえた?」
「聞こえた」
「じゃあ、たぶん疲れてる」
結人がそんな調子で返していると、颯が笑った。
「結人、最近その返し覚えたよね」
以前なら、こういう時にどう返すべきか少し迷っていた。
今も迷いはある。
ただ、迷っても言葉がまったく出てこない、ということは少し減った。
失敗しないように。
変に思われないように。
空気を悪くしないように。
そう考えすぎる癖は、まだある。
けれど、渉が笑い、颯が軽く乗り、修司が必要以上に踏み込まない。
その中でなら、多少不器用な返事をしても、会話は壊れないのだと分かってきた。
隣のテーブルから、紗理奈の声が聞こえた。
「ねえ、誰か水取ってきて。あたし今、立ったら戻ってこられない気がする」
「人多いもんな」
渉が振り返る。
「あ、渉。ついでにお願い」
「何でオレなんだよ」
「一番立ち上がりそうな顔してた」
「どんな顔だよ」
文句を言いながらも、渉は立ち上がる。
ついでに自分の水も取りに行くらしい。
紗理奈は当然のように手を合わせた。
「ありがとー。助かる」
「自分で行く気なしだな」
修司が言うと、紗理奈はにっと笑った。
「人に頼るのは大事なスキルでしょ」
その言葉に、結人は少しだけ箸を止めた。
人に頼る。
簡単そうに見えて、結人にはまだ難しい。
頼ればいいと言われることは増えた。
都子にも言われた。
迫田にも、分からないことは聞いていいと言われた。
けれど、自分から誰かの方へ手を伸ばすことには、まだ慣れない。
渉が戻ってきて、紗理奈に紙コップを渡した。
「ほら」
「ありがと。渉、いい人」
「もっと褒めてもいいぞ」
「調子に乗るからここまで」
「ひどい」
そのやり取りを聞きながら、結人は少しだけ口元を緩めた。
人に頼るのは大事なスキル。
紗理奈が言うと、冗談のように聞こえる。
けれど、たぶん本当にそうなのだろう。
頼らないことが強さなのではなく、頼り方を知っていることも、生活の一部なのかもしれない。
その日の帰り、結人は駅前のスーパーで牛乳と洗剤を買った。
雨はまだ細く降っていて、買い物袋の持ち手が少し指に食い込む。
店の入口で傘を開く時、隣で年配の女性が買い物袋を持ち直そうとして、少しだけ手間取っていた。
落ちそうになった小さな袋を、結人は反射的に支える。
「あ、すみません」
「いえ」
女性はほっとしたように笑った。
「ありがとう。雨の日は嫌ねえ」
「……そうですね」
結人は短く答えた。
雨の日は嫌だ。
その言葉には、素直に頷ける。
けれど、女性の笑顔は柔らかく、雨そのものを恨んでいるわけではないようだった。
雨の日を面倒に思うのは、きっと自分だけではない。
けれど、誰もがそれぞれの荷物を持って、傘を差して、何とか歩いている。
それだけのことを、結人は少し不思議な気持ちで見ていた。
アパートに着いて傘をたたむと、玄関先にまた小さな水滴が落ちた。
結人はタオルでそれを拭き取ってから、買ってきたものを冷蔵庫と洗面所に分けてしまった。
誰に見られるわけでもない。
褒められるわけでもない。
それでも、そういう小さな後始末をすると、少しだけ部屋が自分の場所になる気がした。
結人は買い物袋をテーブルに置き、ふと雨音のする窓の方を見た。
まだ、雨は苦手だ。
けれど、その雨の日にも、自分は朝起きて、大学へ行って、買い物をして、部屋へ帰ってきた。
それを生活と呼んでいいのなら、今日の自分も、どうにか一日を積み重ねたことになるのかもしれなかった。
☆☆☆☆☆
雨の日のライブハウスは、いつもより足元に気を遣う場所になった。
客が持ち込む傘。
濡れた靴底。
入口付近に残る水滴。
スタッフが気づかないうちに、床は少しずつ滑りやすくなる。
外から入ってくる湿った空気と、店内に残る機材の熱が混ざって、独特の匂いがした。
雨の匂い。
金属の匂い。
少し甘いドリンクの匂い。
開演前のざわめき。
最初の頃は、その全部が一度に押し寄せてきて、結人はどこを見ればいいのか分からなくなっていた。
今も完全に慣れたわけではない。
けれど、視線を置く場所は少しずつ増えていた。
入口。
カウンター。
足元。
出演者の通る通路。
客が立ち止まりやすい場所。
「二間君、入口のマット、もう一枚出しておこうか」
迫田に言われ、結人はすぐに頷いた。
「はい。出してきます」
以前なら、指示されたことをこなすだけで精いっぱいだった。
今も余裕があるわけではない。
けれど、何度かシフトに入るうちに、雨の日に確認すべき場所が少しずつ分かってきた。
傘立て。
入口のマット。
ドリンクカウンターの床。
トイレ前。
楽屋へ続く細い通路。
小さな危険は、音よりも静かにそこにある。
結人がマットを敷き直していると、草ヶ谷がステージ側から声をかけた。
「二間、そこ終わったら通路の奥も見といて。ケーブル濡れてたら困る」
「分かりました」
結人は顔を上げて答えたあと、すぐに足元を見た。
返事より足元。
前に言われた言葉が、体の中に残っている。
胸が固くならなかったわけではない。
草ヶ谷の声は相変わらず少し強い。
けれど、言葉を受け取ったあとに動けるまでの時間は、前より短くなっていた。
結人はマットの端を整え、通路へ向かった。
奥の方は少し暗い。
ケーブルが壁沿いにまとめられ、いくつかの機材ケースが置かれている。
結人はしゃがみ込んで、床の水気を確認した。
濡れてはいない。
ただ、入口近くに傘から落ちたらしい水滴がいくつか残っている。
結人は近くの雑巾でそれを拭き取った。
拭き終えたあと、もう一度だけ通路を見直す。
自分が通った場所。
客が通るかもしれない場所。
出演者が急いで移動するかもしれない場所。
大丈夫。
そう言い切るにはまだ怖い。
けれど、少なくとも見た。
確認した。
それだけは、自分の中で言えた。
カウンターへ戻る途中、傘立てのそばで若い客が一人、濡れた床に足を滑らせかけた。
結人は思わず一歩踏み出す。
「大丈夫ですか?」
客は少し驚いた顔をしたあと、照れたように笑った。
「あ、大丈夫です。すみません」
「足元、少し滑りやすくなってます」
「ありがとうございます」
それだけのやり取りだった。
特別なことをしたわけではない。
けれど、声をかけたあと、結人は自分の手のひらが少し汗ばんでいることに気づいた。
誰かに注意する。
誰かを止める。
そういう行為は、まだ少し怖い。
余計なお世話ではないか。
言い方が変ではなかったか。
相手に嫌な顔をされないか。
そんなことを考えてしまう。
それでも、今は声をかけた。
滑りそうだったから。
危ないと思ったから。
その事実だけは、残った。
「二間君」
戻ると、迫田がカウンターの内側から声をかけてきた。
「はい」
「今の声かけ、よかったよ」
結人は一瞬、返事に迷った。
褒められている。
たぶん、そうだ。
けれど、すぐに受け取るには少し勇気がいる。
「……まだ、確認することは多いです」
「うん。それは悪いことじゃないよ」
迫田は穏やかに笑った。
「確認しないで動くよりずっといい。慣れてきた時が一番危ないからね」
「はい」
「でも、前より周りを見てる。そこはちゃんと良くなってる」
そう言われて、結人は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
胸の奥に、少しだけ温かいものが残った。
自分が役に立っている。
そう思うには、まだ足りない。
けれど、少なくとも前よりは動けているらしい。
それが誰かの目にも見えるなら、完全な思い込みではないのかもしれなかった。
終演後、床に落ちた紙コップを拾っていると、客席に残っていた熱気が少しずつ冷めていくのが分かった。
雨音は、扉の向こうでまだ続いている。
それでも、店内にはライブが終わったあとの静けさがあった。
草ヶ谷がステージ上の片付けをしながら、短く言った。
「今日、入口見てたのはよかった」
結人は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「雨の日はそこ見てないと詰むから」
それだけ言って、草ヶ谷はまた機材に視線を戻した。
褒められた。
たぶん、今のも。
そう思っていいのか少し迷いながら、結人はゴミ袋の口を結んだ。
雨の日が好きになったわけではない。
けれど、雨の日に自分ができることは、少しだけ増えたのかもしれない。
☆☆☆☆☆
六月の終わりが近づくと、雨の合間に夏の気配が混じるようになった。
朝はまだ曇っていても、昼には湿った熱気が肌にまとわりつく。
大学の構内では、半袖の学生が増えた。
自動販売機の前で、冷たい飲み物を買う列ができる日もある。
雨上がりの舗装路には、薄い水たまりが残っていた。
そこに雲の切れ間から差した光が反射して、目を細めたくなるほど白く光る。
結人は講義の合間に、図書館の入口近くでレポートの資料を探していた。
渉は隣で、開いた本を見ながら眉間に皺を寄せている。
「文字が多い」
「本だから」
「結人、たまにすごい真顔で当たり前のこと言うよな」
「今のは渉が悪いと思う」
修司が別の本を持って戻ってくる。
「この辺、使えるかもな」
「修司、優秀」
「自分でも探せ」
「探してる。見つからないだけ」
「それは探してるとは言わない」
渉が机に突っ伏す。
その横で、颯がスマホを見ながら言った。
「夏休み、何か予定ある?」
「急だな」
修司が言う。
「いや、レポートやってたら現実逃避したくなって」
「分かりやすいな」
渉が顔を上げる。
「夏休みかあ。旅行とか行きたいよな」
「お金あるの?」
結人が聞くと、渉は黙った。
颯が笑う。
「そこ現実的に刺すんだ」
「バイト代、すぐ使うと残らないから」
「結人はライブハウスだっけ。夏も忙しいの?」
「たぶん。イベントは増えるって聞いた」
「夏フェス的な?」
「そこまで大きくはないけど、学生バンドの企画とか、週末のライブが増えるらしい」
結人はそこで、少しだけ言葉を切った。
楽しい。
その言葉を、まだ簡単には使えない。
緊張する。
疲れる。
分からないことも多い。
注意されることもある。
でも、全部が嫌なわけではない。
音が始まる前の静けさ。
照明が落ちる瞬間。
客席の空気が変わる感じ。
終演後、床に残った紙コップを拾いながら、少しだけ何かが終わった気配を感じる時間。
そういうものは、嫌いではなかった。
「……慣れてきたら、面白いところもあると思う」
結人が言うと、渉は少しだけ目を丸くした。
「お、前向き」
「そう?」
「そう」
修司も本を閉じながら言った。
「無理してないなら、いいことだろ」
その言い方が静かで、結人は少し救われた。
無理していないなら。
その条件がついているだけで、言葉はずいぶん受け取りやすくなる。
「へえ。機会あったら行ってみたいかも」
渉が言った。
「ライブを見に?」
「そりゃそうだろ。ライブハウスなんだし」
「まあ、そうだけど」
結人は少しだけ考えた。
ライブハウスは、ただふらっと寄って中を眺める場所ではない。
誰かの演奏があって、チケットがあって、その時間を見に来る客がいる。
結人が働いている場所ではあるけれど、そこは結人を見に来る場所ではなかった。
「自分のシフトに合わせるとかじゃなくて、見たいライブがあったら来るくらいがいいと思う」
「真面目」
「いや、普通にそういう場所だから」
「たしかに。喫茶店じゃないもんな」
渉が納得したように頷く。
颯はスマホを置き、話を引き取った。
「じゃあそのうち、面白そうなイベントあったら教えてよ。初心者でも入りやすそうなやつ」
「分かれば」
「そこで断言しないの、結人っぽい」
「まだ詳しくないから」
「でも、ライブハウスの男だろ?」
「その呼び方、まだ続くの?」
渉が笑った。
「続く。少なくとも夏までは」
「長い」
「じゃあ夏限定で」
「限定でも困る」
そんな会話をしながら、レポートの資料を開く。
ページの端には、誰かが昔つけたらしい薄い折り目があった。
大学の時間は、講義だけではなかった。
レポートに追われる時間。
友人とくだらない話をする時間。
バイトのシフトを確認する時間。
雨の日に傘を持っていくか迷う時間。
全部が少しずつ混ざって、結人の毎日を作っている。
窓の外では、雨上がりの木々が濃い緑を揺らしていた。
春に薄かった葉は、いつの間にか影を作るほど増えている。
季節は、思っているより早く進んでいる。
そう思うと少し焦る。
けれど、その焦りは嫌なものばかりではなかった。
☆☆☆☆☆
七月が近づく頃、大学の掲示板には夏休みに向けた案内が増え始めた。
集中講義。
試験日程。
図書館の開館時間変更。
短期ボランティアの募集。
夏季休業中の事務窓口について。
そして、その端に、また秋桜祭の文字があった。
秋桜祭企画協力者募集。
四月の終わりに見た実行委員募集とは少し違う。
今度は、ステージ企画や展示、当日の運営補助に関する案内らしい。
結人は立ち止まり、少しだけ張り紙を見た。
春に見た時よりも、秋という言葉が少し近くなっている気がした。
まだ夏にもなっていない。
それなのに、大学はもう先の季節へ向かって動いている。
近くを通りかかった女子学生たちの会話が、ふと耳に入った。
「七海さん、説明会にいたらしいよ」
「商学科の?」
「そうそう。
「ああ、分かる。あの子、明るいし人に声かけられそう」
「手伝いだけって言ってたらしいけど、結局いろいろ頼まれそうだよね」
「ステージ企画とか似合いそう」
「ミスコンとか、周りが出しそうじゃない?」
「分かる。本人も断りきれなさそう」
知らない名前だった。
七海日葵。
結人は一度だけ、その声の方へ視線を向けた。
けれど、話していた学生たちはもう掲示板の前を離れていくところだった。
結人にとっては、まだ関係のない名前だ。
同じ大学にいる誰か。
誰かの話題に上がる、少し目立つ人。
それ以上でも、それ以下でもない。
「結人?」
後ろから声をかけられて振り返ると、修司が立っていた。
少し離れたところで、渉と颯が何かを言い合っている。
「何見てた?」
「秋桜祭の張り紙」
「ああ。また増えてたな」
「うん」
「興味あるのか?」
結人は少し考えた。
興味。
そう言えるほどではない。
ただ、春には遠かったものが、少しずつ近づいている。
そのことが、妙に気になっただけだ。
「まだ分からない」
結人が答えると、修司はそれ以上聞かなかった。
「そろそろ行くぞ。渉が購買でアイス買うって言ってる」
「雨、降りそうなのに?」
「暑いんだろ」
修司の後ろで、渉がこちらに手を振った。
「結人、早く! 売り切れる!」
「アイスは逃げないと思う」
「人気のやつは逃げる!」
颯が隣で笑っている。
結人はもう一度だけ、掲示板を見た。
秋桜祭企画協力者募集。
そして、さっき耳に入った名前。
七海日葵。
今はまだ、遠い。
まだ、自分とは関係ない。
そう思いながら、結人は友人たちの方へ歩き出した。
廊下の窓の外では、雲の切れ間から少しだけ青が見えていた。
さっきまで降っていた雨の名残が、窓枠の下で小さく光っている。
雨の季節は、少しずつ夏へ変わろうとしている。
足元はまだ湿っていて、空は重い雲を残している。
それでも、雲の向こうには、確かに次の季節がある。
結人は友人たちの後を追いながら、少しだけ息を吸った。
湿った空気の中に、夏の匂いがした。
この話予定では恋愛要素とシリアスもある予定なのですが、そこまでなかなか行きつかない……。