七年前の九月四日、空に月が二つになった。
前触れは何もなかった。気象庁も、NASAも、世界中のどの天文台も、何ひとつ観測していなかった。ただその夜、二十二時十七分、本物の月のすぐ隣に、ひと回り小さな青白い月が「点灯」した。後に「双月の夜」と呼ばれる、世界が変わった日だ。
第二の月——通称「ルナ・セクンダ」——は、ただ浮かんでいるだけではなかった。あれの光が長く当たった場所には、「澱(おり)」と呼ばれる靄のようなものが溜まる。そして澱が一定量を超えると、そこから「形」が生まれる。
最初の数年は大混乱だった。高速道路に体長十メートルの白い鹿が現れて大渋滞を起こし、小学校のプールに人魚らしきものが住み着き、株価は乱高下し、終末を叫ぶ団体が雨後の筍のように湧いた。
でも、人間というのは大したものだと思う。
国は三年で関連法を整備し、「祓い師」の国家認定制度を作った。各自治体には澱対策の担当部署が置かれ、市の条例には怪異への対応手順が定められた。今では天気予報の最後に澱濃度の予測が流れるし、小学校の避難訓練には地震・火災に並んで「澱訓練」がある。月が増えた世界で、子どもたちは「お・り・は・し」——近寄らない・凝視しない・走らない・知らせる——を暗唱して育つ。
七年も経てば、世界の終わりは「行政案件」になる。
「——というわけでね、佐倉くん。三丁目の児童公園、また出たって」
月曜の朝九時十五分。市役所別館二階、生活環境部・澱対策課。係長の真壁さんが、湯呑み片手に苦情受付票をひらひらと振った。
澱対策課は、課と名がつくくせに、島は机四つ分しかない。係長、俺、データ整理の嘱託さん、そして空席がひとつ。市民の生活を月の脅威から守る最前線の陣容が、これだ。
「出たって、何がですか」
「滑り台の下に、足が八本ある犬」
「先週、除澱したばっかりですよ。あの公園」
「したねえ。でも出たんだから仕方ない。ほら、苦情第一号は例の町内会長さん。十時に現地で待ってるってさ」
俺——佐倉湊、二十六歳、地方公務員四年目——は、デスクに突っ伏したくなるのをこらえて立ち上がった。配属希望の欄には「市民課か、できれば広報」と書いたのに、辞令に書かれていたのは澱対策課。同期からは「ハズレ部署」と同情され、母からは「危なくないの」と毎週電話が来る。一年目は、異動願いを出すタイミングばかり考えていた。四年目の今も、考えていないと言えば嘘になる。
装備は、ジュラルミンケースに入った計測器と、業務用の塩、そして市から貸与された一本の「払い棒」。見た目はただの白木の警棒だが、認定祓い師が術式を込めた正規品で、一本四十八万円。新任研修で「これを壊した先輩は始末書を三枚書いた」と聞かされて以来、俺はこれを公用車の鍵より丁寧に扱っている。
「行ってきます」
「はいよ。あ、佐倉くん、帰りに庁舎裏の澱だまりも見といて。守衛さんが、夜中に歌が聞こえるって」
「歌……了解です」
怪異が歌うのは、だいたい良くない兆候だ。でもそれを言ったら、この街で「良い兆候」なんて見たことがない。
*
三丁目児童公園は、住宅地の真ん中の、どこにでもある公園だった。砂場、ブランコ、象の形の滑り台。違うのは、入口の掲示板に「澱濃度週報」が貼られていることと、植え込みの陰に市の定点計測器が埋まっていることくらいだ。
九月の陽射しの下、滑り台の影に、それはいた。
体高は中型犬くらい。毛並みは煤けた灰色で、確かに足が八本ある。蜘蛛のようにではなく、四本足の前後にもう一組、影が実体化しかけたみたいに、ぶれて生えている。澱から生まれる「形」の典型だった。何かの記憶や印象が、月光の靄の中で半端に像を結んだもの。
「市の方!? 早く何とかしてくださいよ、子どもが遊べないでしょう」
規制テープの外から、町内会長が腕組みで言った。この人は課の「苦情常連番付」で東の横綱を張っていて、声は大きいが、言っていることはだいたい正しい。実際、砂場の縁には誰かの忘れたスコップが転がったままで、犬が出てから三日、子どもは一人も来ていないという。
俺は計測器を起動した。起動音、自己診断、測定開始。澱濃度、〇・三一。除澱の発動基準値の、ちょうど倍。おかしい。先週の作業で〇・〇四まで落としたはずだ。一週間でここまで戻るのは、自然蓄積じゃありえない。
——誰かが、ここに澱を「捨てて」いる?
嫌な可能性に眉をひそめつつ、俺は払い棒を抜いて、規定の口上を唱えた。これも条例で定められた正式な手続きだ。怪異にも、一応の「告知義務」がある。
「市条例第十九条に基づき、当該領域の澱の除去を行います。形あるものは、速やかに退去してください」
八本足の犬は、俺を見た。
怪異の目は、普通は虚ろだ。澱から生まれた「形」に意思はない、というのが七年間の公式見解で、四年間で百件以上の現場を踏んだ俺の感覚とも一致していた。形は、風景だ。動く風景。声をかけても、ガラス玉みたいな目が素通りするだけ。
でも、その犬の目は、虚ろじゃなかった。俺を見て、それから俺の後ろを見て、誰かを探すように、視線が動いた。
『……かえして』
声、と呼んでいいのか分からない。耳ではなく、頭の内側で響く音。俺は払い棒を構えたまま固まった。四年やって、怪異が「喋った」のは初めてだった。
「……今、何か言ったか?」
『かえして。あのこを、かえして』
犬の輪郭が、ぶれた。八本の足が四本に見えたり、十六本に見えたりする。そして次の瞬間、犬の姿が解けて、一瞬だけ——本当に一瞬だけ、別の像を結んだ。
セーラー服の、女の子の後ろ姿。
肩までの黒髪。スカートの裾。それが霧のように散って、犬の形に戻る。
背筋が冷えた。澱の「形」は、その場所に染みついた印象から生まれる。つまりこの公園には、誰かの——おそらくは一人の少女に関する、強烈な「何か」が染みついているということだ。一週間で基準値の倍まで濃縮されるほどの、何かが。
「会長さん」
俺は振り返らずに訊いた。
「この公園で最近、何かありませんでしたか。事故とか、行方不明とか」
「は? いや、何も……ああ、そういえば」
会長は腕組みを解いて、少し声を落とした。横綱の声ではなく、近所の年寄りの声だった。
「うちの町内の子じゃないけどね。三月頃かな、よくこの公園に夜いた子がいてさ。セーラー服の。寒いのに、ブランコのとこに、じっと。補導されないか心配してたんだけど、いつの間にか見なくなったねえ」
計測器が、ぴ、と短い警告音を立てた。
澱濃度、〇・三五。上がっている。今、この瞬間に。日中に、自然に上がるはずのない数値が。
俺は無線に手を伸ばしかけて、やめた。マニュアル通りなら応援要請、緊急除澱。除澱車の散布ノズルが澱を中和して、形は十分で霧に戻る。百件以上、そうやって処理してきた。形は風景で、風景に同情はしない。それが研修で教わったことで、四年間それで間違っていなかった。
でも「かえして」と言う風景の話は、研修のどこにもなかった。マニュアルの外に出るなら、その前に確かめるべきことがある気がした。払い棒を下ろし、条例の口上ではなく、ただの言葉で、八本足の犬に訊いた。
「……『あの子』って、誰だ。お前は、誰を返してほしいんだ」
犬は答えなかった。代わりに、ゆっくりと首を持ち上げて、空を見た。
つられて見上げた九月の青空に——昼間は決して見えないはずの、青白い第二の月が、薄く、確かに、透けていた。
双月の夜: 七年前の九月四日二十二時十七分、第二の月「ルナ・セクンダ」が出現した夜。全国で2,136人が消えた(非公表)。
澱(おり): 第二の月の光が溜まった場所に生じる靄。背景値0.02前後、除澱の発動基準値は0.155程度。
形: 澱が土地の印象・記憶を写し取って結んだ像。意思はない、というのが公式見解。