双月の街で、おはようございます   作:かみ工船

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第十話 七年目の素振り

 三日後の午前、井頭は薄曇りだった。月の透けない空を選んで、白瀬が決めた日取りだった。

 

 軽自動車を集落の入口に停めて、そこからは歩いた。白瀬は私服ではなく、仕事の格好——背中に細長い筒——で来た。「丸腰で行くと、途中で引き返しそうだから」というのが理由だった。商売道具は、彼女にとって鎧でもあるらしかった。

 

 集落を抜ける間、畑から、縁側から、年寄りたちが顔を上げた。誰も声をかけなかった。代わりに、畑の爺さんが一度だけ、深く頷いた。七年待った、という頷き方だった。

 

 旧白瀬祓事務所の垣根の前で、白瀬は立ち止まった。表札の跡。伸びた草。その向こうの、庭。

 

「……足、動かないかと思ってたけど」

 

 白瀬は自分の爪先を見下ろして、少し笑った。

 

「動くね。あんたが隣にいると、格好つけなきゃいけないから」

 

 彼女は垣根の切れ目から、敷地に入った。七年ぶりの、ただいまも言わない帰宅だった。

 

 庭の真ん中、草の生えない円の中に、遺りは、いた。

 

 道着の少女は、素振りの途中だった。振り上げた型のまま止まって、こちらを——白瀬を、視た。それから、ゆっくりと腕を下ろした。七年間続けてきた素振りを、初めて、自分からやめた。

 

『にげて』

 

 頭の内側に、声が響いた。

 

『にげて、みこと。つきを、みないで。ぜったいに、みあげないで』

 

「……うん」

 

 白瀬は、逃げなかった。円の手前まで歩いて、七年前の自分と同じ高さまで、膝を折って、目線を合わせた。

 

「ずっと言ってくれてたんだってね。あたし、受け取りに来るの、七年もかかった。……ごめん。遅刻にもほどがあるよね」

 

 遺りは、首を傾げた。少女の輪郭が、ぶれる。

 

「師匠。あたし、確かめに来た。あんたが消えたのは、あたしのせいなのか。あたしが見上げたから、身代わりになったのか。……七年、そう思って生きてきた。違うなら、違うって、ちゃんと——」

 

 声が、続かなかった。遺りの輪郭が解けて、別の像を結んだからだ。

 

 背の高い、白髪交じりの女の人。長い払い棒を杖のように突いて、立っている。白瀬十重の形は、弟子を見下ろして、ゆっくりと、首を横に振った。一度。二度。言葉はなかった。遺りに残った想いが少女の形と『にげて』だけで、もう他の言葉を持っていないのは明らかだった。それでも、首を振るその動きだけで、伝えようとしていた。

 

 ちがう。お前のせいでは、ない。

 

「……っ」

 

 白瀬が、何かを言いかけて、口を押さえた。師匠の像は、すうと薄れて、また少女の形に戻った。そして少女は、白瀬の顔をじっと見てから、くるりと背を向けて、縁側へ歩き、開いたままの道場の戸の奥を——指差した。

 

「中に、何かあるの?」

 

 遺りは答えず、ただ指差し続けた。白瀬は立ち上がり、縁側に足をかけて、一度だけ深呼吸して、七年ぶりに道場へ上がった。俺も続いた。

 

 板張りの床。埃。壁の楷書。白瀬はその一行を、長いこと見上げていた。それから、何かを思い出した顔で、祭壇の跡の前に膝をつき、床板の一枚に手をかけた。

 

「……ここ、師匠の隠し場所。あたし、子どもの頃に見つけて、めちゃくちゃ叱られた」

 

 床板の下から出てきたのは、桐の手文庫だった。埃を払って蓋を開けると、中には、和綴じの帳面が一冊と、油紙の包みがひとつ。

 

 帳面は、手記だった。ただし、まともに読める頁は、ほとんどなかった。大半の頁が、墨で塗り潰されているか、根元から破り取られていた。他人が消したのではない。塗り潰しの墨の運びは、壁の楷書と同じ手だった。師匠が、自分で消したのだ。

 

「『視えるもんは、視た者の責任』……」白瀬が、呟いた。「人に渡しちゃいけないと思ったものは、残さない人だった」

 

 それでも、消し残された断片が、いくつかあった。

 

 ——月ハ七十年ヲ目安ニ窓ヲ開ク。先代ノ代ニモ開キタリ。窓ノ間、見上ゲテ目ノ合ヒタル者ヲ、月ハ迎エト勘違ヒスル。

 

 ——今代ハ窓ニ非ズ。戸ガ開ク。戸ノ開ク夜ハ、敷居ニ番ノ者ガ立タネバナラヌ。先代ハ立チ遅レタ。ユヱニ山デ——(以下、塗り潰し)

 

 ——九月四日 二十二時十七分。番ハ私ノ仕事。みことニハ継ガセヌ。(以下、頁ごと破り取り)

 

 窓。戸。敷居。番。読めば読むほど、分かることと分からないことが同時に増えていった。月は七十年周期で「窓」を開けてきた。先代も関わって、消えた。でも七年前は窓ではなく「戸」で、白瀬の家は代々その「番」で——肝心の、番が何をするのか、戸の向こうに何があるのかは、ことごとく墨の下だった。

 

 ただ、一つだけ、確かなことがあった。

 

 「番ハ私ノ仕事。みことニハ継ガセヌ」。

 

 師匠は、身代わりになったんじゃない。最初から、自分の仕事として、あの夜の庭に立っていた。弟子が見上げたのは誤算だったとしても、行くこと自体は、三ヶ月前から決めていた。

 

 白瀬は、その一行を、指でなぞった。何度も、なぞった。

 

 油紙の包みの中身は、書きかけの手紙だった。これは、消されていなかった。

 

 ——みことへ。これを読んでいるなら、私はしくじったか、しくじらなかったかのどちらかだ。どちらでも、お前に言うことは変わらない。

 ——お前を弟子にしたのは、力のためではない。とうに決めていたことだが、はっきり決めたのは射的の夜だ。お前が笑ったとき、ああこの子は笑える、なら大丈夫だと思った。

 ——私が行くのは、お前の身代わりではない。白瀬の家の、番の仕事だ。だからお前は、誰の代わりでもなく、誰の番でもなく、生きなさい。

 ——飯を食え。よく寝ろ。素振りは、続けても、やめてもいい。

 

 手紙は、そこで終わっていた。署名もなかった。書き上がる前に、九月四日が来たのだ。

 

 白瀬みことは、道場の床に正座したまま、手紙を膝に置いて、長いこと、動かなかった。俺は何も言わずに、埃っぽい光の中で、ただ隣に座っていた。相槌は要らないと、言われていたから。

 

 やがて、庭の方で、気配が動いた。

 

 戸口の外、円の中心に、道着の少女が立っていた。素振りの構えではなく、ただ、まっすぐに立って、こちらを見ていた。七年分の言葉を、届け終えた顔だった。

 

 白瀬は手紙を畳んで懐に入れ、立ち上がり、縁側に出て——息を吸った。

 

「……ただいま」

 

 七年遅れの、ただいまだった。

 

 少女の形をした遺りは、ふ、と笑った。あの射的の夜と同じ笑い方なのだろうと、見たこともないのに、分かった。そして、頭の内側に、最後の声が響いた。

 

 今度のそれは、『にげて』ではなかった。

 

『おかえり』

 

 遺りの輪郭が、足元から、光の粒になって解けていく。白瀬は縁側から庭に降りて、円の中心まで歩き、解けていく光の真ん中に、両手を椀の形にして差し出した。掬うのでも、引き留めるのでもなく——見送る手つきだった。

 

「ん。……いってらっしゃい、師匠」

 

 光は、曇り空に向かって、ゆっくりと昇って、見えなくなった。

 

 風が庭を渡って、七年分伸びた草を鳴らした。草の生えない円の中に、白瀬みことが一人で立っている。置いていかれた側の立ち方ではなく、見送った側の立ち方で、立っていた。

 

 *

 

 帰り道、集落の入口で、婆ちゃんたちが待ち構えていた。誰が知らせたのか、漬物と栗と、なぜか大量の茄子を持たされた。「みことちゃん、また顔をお見せ」と言われて、白瀬は「……うん。今度は、墓も建てるから」と答えた。建てる、という言い方に、もう探さないという意味と、ちゃんと迎えに行くという意味が、矛盾なく同居していた。

 

 軽自動車の助手席で、白瀬は茄子の袋を膝に抱えたまま、ずっと窓の外を見ていた。泣いているのかどうか、運転席からは見えなかった。見ようともしなかった。代わりに、市街地に入ったあたりで、彼女の方から口を開いた。

 

「佐倉。あんた、今日の報告書、どう書くの」

 

「『遺り一件、自然消滅を確認。澱濃度は背景値まで低下』。……手記と手紙のことは、書きません。あれは行政文書じゃなくて、遺品なので」

 

「ん。……あとさ」

 

 白瀬は窓の外を見たまま、ぶっきらぼうに言った。

 

「肉まん、あたしまだ一個貸しがあるから。今度、倍にして返して。——コンビニのじゃなくて、ちゃんとした店の」

 

 それが彼女なりの礼の言い方だと分かるくらいには、俺はもう、白瀬みことという人を知り始めていた。

 

「了解です。閉庁までで終わらない話も、そのとき聞きます」

 

「……生意気」

 

 窓の外、薄曇りの空のどこかに、月はあるはずだった。でも今日だけは、車の中の誰も、空を確かめなかった。

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