双月の街で、おはようございます   作:かみ工船

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第十一話 ちゃんとした店の肉まん

 十月が深まって、街路樹が色を変えた。

 

 澱対策課の日常は、おおむね平和だった。遺りの目撃件数は相変わらず多いが、凶暴なものは出ていない。汐里の唐揚げはついに「店が出せる」と係長に言わしめる域に達し、タッパーには「次はお弁当に挑戦します」と進路宣言めいた付箋が貼られるようになった。彼女は冬に高校受験を控えている。志望校の願書の自由記入欄に「公務員(澱対策課)志望」と書こうとして、担任に止められたらしい。やめてほしい。嬉しいから困る。

 

 白瀬みことは、月に二度、井頭に通うようになった。

 

 集落の婆ちゃんたちと墓の相談をして、空き家になっていた母屋の風を入れて、道場の床を拭いているらしい。「らしい」というのは、本人がいちいち報告しないからで、俺が知るのは、彼女の自転車の籠に時々、茄子や柿が積まれているのを見るからだ。庭の草の生えない円には、つい先日、彼女が小さな花の種を撒いた。「素振りは、続けてもやめてもいい、らしいから」と言って。

 

 そして十月最後の土曜、俺は貸しを返すことになった。

 

「ここ。この店」

 

 白瀬が指差したのは、駅裏の商店街の外れにある、古い中華まんじゅう屋だった。間口一間半、店先の蒸籠から白い湯気が立ちのぼり、硝子のケースに「肉まん 二六〇円」の手書き札。創業年を訊いたら店主の婆ちゃんが「先代に訊いて」と言い、先代はもういないらしいので、創業年は永遠に不明だった。

 

「コンビニのやつの倍以上するんですけど」

 

「貸しは倍にして返すって約束でしょ。ぴったりじゃん。二個ね」

 

 俺は素直に二個——白瀬の分と、自分の分も買い足して計三個——を買い、俺たちは湯気の立つ紙袋を抱えて、川沿いの土手に出た。あの独白の日に歩いた道を、今日は逆向きに、ゆっくり歩いた。

 

 肉まんは、悔しいことに、コンビニのやつとは別の食べ物だった。皮が甘くて、肉汁が熱くて、白瀬は二口目で「ん」と目を細めた。それは彼女の語彙で言う最大級の賛辞で、つまり「おいしい」だった。

 

「で。閉庁までで終わらない話の、続きだけど」

 

 白瀬は土手の段差に腰を下ろし、川を見ながら言った。今日も、月の昇る方角には背を向けていた。ただし以前と違って、それは怯えた背中ではなく、単なる癖の背中に見えた。

 

「と思ったけど、その前に。……あんたの話、聞いてない」

 

「俺の?」

 

「ずっとあたしばっかり喋ってる。汐里ちゃんの件からこっち、あんたはあたしの七年を聞いて、師匠のことを聞いて、集落の婆ちゃんの証言まで集めて。なのにあたしは、佐倉湊が何で役所にいるのかも知らない。不公平でしょ。聞き取りは相互主義でやって」

 

 相互主義、と役所の言葉で返されて、俺は少し笑った。それから、たいして面白くもない話をした。地元の大学を出て、安定志向で市役所を受けて、希望は市民課か広報で、配属はハズレ部署と呼ばれる澱対策課。最初の一年は異動願いを出すタイミングばかり考えていたこと。

 

「……で、今は? 異動願い、出してないの」

 

「出してないですね。気づいたら、四年目で」

 

「なんで」

 

 なんで、と訊かれて、俺は初めてちゃんと考えた。湯気の消えた肉まんの最後の一口を飲み込んでから、答えた。

 

「最初は、惰性だと思ってたんです。でも汐里の事件のとき、分かりました。この課の仕事って、苦情処理に見えて、本当は——誰にも受け取られなかった言葉の、最後の窓口なんですよね。『かえして』も、『にげて』も、放っておいたら、誰にも聞かれないまま消えてた。それを聞く部署が、市役所の別館二階に、机四つ分だけある。……俺、たぶんあの仕事、好きなんだと思います。広報より向いてるかは別として」

 

 白瀬はしばらく黙って、川を見ていた。それから、ぽつりと言った。

 

「向いてるよ」

 

「え?」

 

「向いてる。あんたは、聞き方が役所なの。同情しないで、記録する。けど捨てない。……視える人間より、そういう聞き方ができる人間の方が、この仕事には要るんだと思う。七年やって、最近やっと分かった」

 

 それは白瀬の語彙で言えば、最大級の賛辞の、さらに上だった。俺が返事に詰まっていると、彼女は急に話を変えた。変えたように見せて、本題に入った。

 

「手記の話、していい?」

 

「……はい」

 

「『番ハ私ノ仕事。みことニハ継ガセヌ』——あの一行ね、あたし、毎晩読んでる。読むたびに思うの。師匠、ごめん。それは無理だわ、って」

 

 白瀬は懐から、油紙の包みを出した。あの手紙を、彼女は持ち歩いているらしかった。

 

「月は七十年周期で窓を開ける。前回が七年前。なら次は六十三年後で、あたしは九十歳。……普通ならそれで終わる話。でも七年前は『窓じゃなくて戸』だった。戸が開いたまま閉まってないなら——第二の接近があった時点で、周期なんて当てにならない。次がいつ来てもおかしくない。そのとき、敷居に立てる『番』は、この辺りには、もうあたししかいない」

 

「継ぐんですか。継がせないって、書いてあるのに」

 

「継がない」白瀬は即答した。「師匠の『番』は継がない。あれは、家の務めとして一人で立って、一人で消える型のやり方。あたしはあの型のせいで師匠を持っていかれた。同じ型を繰り返すのは、弟子として一番の親不孝でしょ。——だから、新しい型にする」

 

「新しい型?」

 

「一人で立たない」

 

 白瀬は、こともなげに言った。川の音に紛れそうなくらい、軽く。

 

「役所と組む。記録して、共有して、係長を巻き込んで、県ともいつか喧嘩して、次に戸が開く夜は、規制線と除澱車と書類の山と一緒に敷居に立つ。世界の終わりを行政案件にしてきた街のやり方で、番をやる。……ついては、佐倉」

 

 彼女は俺の方を向いた。逆光で、表情はよく見えなかった。声だけが、まっすぐだった。

 

「あんた、付き合いなよ。番の、相方」

 

「……それは、業務命令ですか。嘱託職員に命令権はないですけど」

 

「うるさいな。……お願い、だよ」

 

 最後だけ、声が小さくなった。お願い、という言葉を、この人は七年間、たぶん誰にも言ってこなかったのだ。置いていかれた側は、頼んだ相手に置いていかれるのが、一番怖いから。

 

 だから俺は、考える間を置かなかった。

 

「了解です。相方、引き受けます。——ただし条件が一つ。今後、一人で井頭の戸の前に立つの、禁止です。視るのも、立つのも、二人一組。現場の基本なので」

 

「……役所っぽい条件」

 

「役所なので」

 

 白瀬は、ふは、と息だけで笑った。それから、手紙の包みを仕舞って、代わりに帳面——あの手記を出した。墨で塗り潰された頁を開いて、夕陽に透かす。

 

「最後に、もう一個だけ。……墨で塗り潰した字ってね、視えるんだよ、あたしらには。紙に残った筆の跡を辿ればいい。技術的には、いつでもできた。七年前から、ずっと」

 

「視てないんですか」

 

「視てない。怖かったから。師匠が消した言葉を視るのは、師匠の『いちばん中のとこ』に勝手に入ることだから。……でも、誰かさんのおかげで、分かったんだよね。勝手に視るのと、受け取りに行くのは、違うって」

 

 白瀬は帳面を閉じて、立ち上がった。土手の上、暮れていく空の高いところに、青白い月が薄く透けていた。彼女はそれを——見上げなかったけれど、もう、背も向けなかった。

 

「いつか視る。あんたと、二人一組で。それまで預かっといて」

 

 差し出された帳面を、俺は両手で受け取った。引き取り手の決まっている預かり物は、窓口の仕事のうちで、一番いいやつだった。

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