怪異が喋った——という報告を、真壁係長は湯呑みを置いて聞いた。
報告の間、係長は一度も口を挟まなかった。俺が「セーラー服の少女の像」のくだりを話すと湯呑みに伸びかけた手が止まり、「数値が日中に上がり続けている」と言うと、手帳に何かを書いた。聞き終えて、係長はしばらく天井を見て、それから、ひと言。
「県には、まだ言わないでおこうか」
「いいんですか。特異案件は四十八時間以内に県の澱務調整室へ報告って、要綱に」
「要綱にはね。でも県に上げたら、どうなると思う? 特異案件の標準対応は決まってる。公園は即日封鎖、半径百メートルの住民に注意喚起、そして怪異は緊急除澱で消去。三日で全部終わって、報告書には『無事終結』って書かれる。——『かえして』の中身を確かめる前にね」
係長は受付票の束をめくりながら、こともなげに続けた。
「喋る怪異なんて、七年で全国に数件。学者は『高密度澱の偶発的な音声様現象』なんて呼んでるけど、まあ、誰も本当のところは分かってない。消すのは簡単だけど、消したら二度と聞けない。——佐倉くん、君はあれの言葉、聞き捨てられる?」
聞き捨てられるなら、報告書の文面で三十分も悩んでいない。俺が黙っていると、係長は頷いて、内線ではなく自分のスマホで、どこかに電話をかけた。
「もしもし、白瀬ちゃん? ちょっと視てほしいのがいてさ。うん、例の予算で。三丁目の児童公園。……うん。領収書は忘れずにね」
電話を切った係長に、俺は訊いた。
「白瀬さんって、嘱託名簿の、あの祓い師ですか。会ったことないですけど」
「うちの切り札。腕は県の専属連中より上だよ。愛想は、まあ、期待しないで。——私とは長い付き合いでね。あの子が中学生の頃から知ってる」
*
一時間後、三丁目児童公園に現れたのは、自転車にまたがった小柄な女だった。
歳は二十歳そこそこ。色の抜けた髪を無造作に括り、パーカーにジーンズ、背中には釣り竿ケースみたいな細長い筒。市嘱託の認定祓い師・白瀬みこと。資格番号は県内で二桁——制度発足時の、最初期の認定組だということだ。つまりこの若さで、キャリアは俺の倍近い。
「あんたが佐倉? 話は聞いた。喋る犬ね」
彼女は俺を上から下まで一度だけ見た。値踏みというより、現場で邪魔になるかならないかを測る目だった。測り終えると、もう俺を見なかった。
白瀬は挨拶もそこそこに滑り台へ歩み寄り、規制テープを片手でひょいと跨いで、しゃがみ込んだ。影の中の八本足を、じっと視る。「見る」ではなく「視る」と書きたくなる目つきだった。瞬きが極端に減って、呼吸が浅く、長くなる。三十秒。一分。やがて、ぽつりと言った。
「——これ、怪異じゃないよ」
「は?」
「澱から勝手に湧いた『形』じゃないってこと。芯がある。人間の側から出たものだ。あたしらは『遺り(のこり)』って呼んでる。強い想いが、持ち主から千切れて、澱を着て歩いてるの」
「遺り……初めて聞きました。要綱にも研修資料にもなかったです」
「役所の紙に載ってないものなんて、世の中の方には山ほどあるの。遺りはね、怪異と違って、退治の対象じゃない。誰かの想いの千切れ端なんだから、雑に祓えば、千切れた先がまた別の何かになる。基本は、用が済むまで待つ。……ま、現場で覚えな」
犬は白瀬を警戒する様子もなく、ただ伏せたまま、時折『かえして』と頭の内側に呟いた。白瀬は犬の前に膝をつき、ポケットから何かを出した。——個包装の、魚肉ソーセージ。
「食べないだろうけど、礼儀としてね」
犬は鼻先を寄せ、食べる真似だけをした。実体はないから当然だ。でもその仕草は、どこからどう見ても「飼い犬」のそれだった。誰かの手から、何度もおやつをもらってきた犬の、行儀のいい食べ方だった。
「八本足は、像がぶれてるだけ。元はたぶん普通の犬。それも、もう死んだ犬だね。死んだ犬の形を借りて、誰かの『かえして』が歩いてる」
「死んだ犬だって、なんで分かるんですか」
「歩き方。生きてる犬の記憶から出来た形は、地面の匂いを嗅ぎながら歩く。こいつは嗅がない。床のない場所を歩いてた時間が長い形——つまり、思い出の中の犬。輪郭の風化具合からして、死んでから二年ってとこ。想いの方は、もっと新しい。半年くらいかな」
死んで二年の犬と、生まれて半年の想い。手帳に書きながら、その組み合わせの意味を、俺はまだ分かっていなかった。
「あの、ひとつ謎が解けてないんですが」俺は手帳を開いた。「この公園、先週除澱したばかりなのに、濃度が基準値の倍まで戻ってたんです。誰かが澱を捨ててるんじゃないかと」
「ああ、それはこいつだよ」白瀬は事もなげに言った。「遺りは、形を保つために周りから澱を掻き集めて着込む。除澱したって、こいつがいる限り集め直す。犯人捜しは要らない。——むしろ気になるのは、集まりが早すぎることのほうだね。空気中の澱そのものが、濃くなり始めてる」
白瀬はちらりと空を見た。昼の空に薄く透ける、青白い月を。それから、何でもないという顔に戻った。
「で? こいつの『かえして』の相手——セーラー服の子の件。役所の仕事はここからでしょ。その子、誰?」
*
翌日から、俺は本来業務の合間を縫って「セーラー服の少女」を洗った。
手がかりは三つ。三月頃、夜、この公園。近隣でセーラー服の指定校は市立第二中学と私立の女子校の二つ。少年補導の記録は該当なし。次に、公園の向かいのコンビニ。三月のレシートデータなんて当然残っていないが、夜勤明けの店員が覚えていた。「ああ、いましたね。週に何回か、夜の九時十時に。あったかいミルクティーの缶を一本だけ買って、公園の方へ。……制服で、一人で。声かけようか迷ってるうちに、来なくなりました」
最後は、公園の斜向かいの市立図書館の防犯カメラ。外向きの一台が、歩道の端を映していた。三月の映像をデータ整理の嘱託さんと二人がかりで早回しして、三晩目に見つけた。二十一時四十六分、画面の隅を横切る、セーラー服。第二中学の指定鞄。顔までは映っていない。でも、十分だった。第二中学の生活指導の先生に防犯協力の照会をかけて、三日目の夕方、一人の名前に行き着いた。
如月汐里(きさらぎしおり)。市立第二中学の三年生。自宅は公園から徒歩五分。
ここまでは良かった。問題はその先だ。
「……行方不明者届、出てません。学校に照会したら、在籍してて、今日も普通に登校してるそうです」
夕方の事務所で報告すると、来客用の煎餅を齧っていた白瀬の手が、止まった。
「今日も、登校してる」
「はい。三月に長期欠席の記録もなし。皆勤に近いそうです。部活は美術部、成績は中の上、友人関係も問題なし。……どこからどう見ても、普通の中学生です」
「じゃあ犬は何を『かえして』って言ってるわけ? 本人、ぴんぴんしてるじゃん」
「分かりません。人違い……というか、犬違い? の可能性も」
「ない」白瀬は即答した。「遺りの想いは、宛先を間違えない。間違えるくらい薄い想いなら、形になる前に消えてる。あの犬は二年もので、まだあの輪郭。宛先は確実に、生きてる——いや、『存在してる』」
言い直した言い方が、嫌に引っかかった。白瀬は煎餅を置き、筒から白木の長い棒——俺の払い棒の倍はある——を取り出して、肩に担いだ。
「確かめよう。明日、学校終わりの時間に張る。今そこにいる『如月汐里』が——本物かどうか」
「本物かどうかって、そんなの」
「佐倉。あんた、この街に七年住んでて、まだ『そんなの』って言うんだ?」
窓の外、夕暮れの空。沈む夕陽の反対側に、青白い月が、昨日より少しだけ濃く透けていた。