翌日の十五時四十分。市立第二中学の正門から二百メートル、桜並木の歩道。
俺と白瀬は、市の軽自動車の中から下校の列を眺めていた。傍から見れば完全に不審者だが、ダッシュボードには「澱濃度定点観測中」の公用札。この街では、これで大抵の張り込みが許される。
「言っとくけど、視るのはあたし、声かけるのはあんたの役。役所の人間が職員証出すのが、一番穏便だから」
「白瀬さんは何て紹介すれば」
「技術職員のシラセさん。嘘じゃないでしょ」
「……もし、本物じゃなかったら。そのときは、どうするんですか」
訊いてから、自分の声が硬いのに気づいた。白瀬は正面を見たまま、しばらく答えなかった。
「どうもしない。今日は視るだけ。……佐倉、先に言っとくけど、もし『そう』だったとしても、あれは敵じゃないからね。澱で出来てようが何だろうが、半年も学校に通って、友達と笑って、家で飯を食ってきた何かだ。引き剥がしに来たみたいな顔、しないこと。中学生は、大人の顔をよく見てる」
張り込みは三十分に及んだ。白瀬は助手席で微動だにせず、下校の列を視続けた。集中している間、彼女はまったく喋らない。喋らないことが、こんなに音として大きいのかと初めて知った。
「来た。あの子でしょ」
白瀬が顎で示した先、友人らしい二人と歩く少女がいた。肩までの黒髪、セーラー服、第二中学の指定鞄。図書館のカメラに映っていた歩き方と同じだった。如月汐里。何かを言って、友人と笑い合っている。ごく普通の、放課後の中学生に見えた。
俺は膝の上の計測器に目を落として——息を呑んだ。
「白瀬さん、これ」
「ん?」
「彼女の周り、澱濃度が……ゼロです」
「ゼロ?」
「ゼロなんです。完全に。彼女が歩くと、ゼロの円が一緒に動いてる」
ありえない数値だった。澱は、双月の夜以降、空気中に必ず微量に漂っている。市街地の背景値は〇・〇二前後。ゼロというのは、無菌室でも出ない。計測器の故障を疑って隣の通行人に向けると、〇・〇二。彼女に戻すと、ゼロ。つまり彼女の周囲では、何かが澱を「吸って」いる。
「……なるほどね」白瀬は筒のケースを引き寄せた。「澱で出来てるものは、自分を保つために周りの澱を喰う。遺りと、同じ理屈だ。歩く除湿機みたいなもんだよ」
「じゃあ、あの子は」
「決めつけるのはまだ早い。本人に訊いても意味はない——たぶん、本人がいちばん知らないから。……接触するよ。役所の人、出番」
*
声をかけると、汐里は素直に立ち止まった。市の職員証と「公園の安全調査」という建前は、中学生相手には十分すぎる効力を持つ。友人たちと別れ、彼女は不思議そうに俺たちを見た。警戒よりも、教師に呼び止められたときの神妙さに近い顔だった。
「三丁目の児童公園のことで、少しだけ。如月さん、あの公園、よく行く?」
「……たまに。小さい頃は毎日でした。象の滑り台の、青いやつですよね」
「そう、それ。最近、遊具の点検をしててね。それで利用者に聞き取りを。——三月頃、夜にあの公園にいたって話があるんだけど」
「三月、ですか」
汐里の表情が、初めて揺れた。揺れた、というより——途切れた。一瞬、顔から表情がすっぽり抜け落ちて、すぐに戻った。テレビの映像が、一コマだけ飛んだみたいに。
「すみません、あんまり覚えてなくて。三学期って、なんか、ぼんやりしてて」
「そっか。じゃあ最後にひとつだけ」俺は、賭けのつもりで訊いた。「『ハチ』って名前に、心当たりある?」
効果は、劇的だった。
汐里は目を見開き、唇が小さく動いた。はち。はちは——
「ハチは、うちの犬です。先々年、死んじゃった。柴犬の。……え、なんで」
なんで泣いてるんだろ、わたし。
彼女は自分の頬に触れ、濡れた指先を、心底不思議そうに見つめていた。悲しい、という顔ではなかった。体の方が先に泣いて、心が追いつかない、という顔だった。
*
児童公園まで、汐里は黙ってついてきた。来る義理なんてないのに、足が勝手に向かう、という歩き方だった。
道すがら、彼女は一度だけ口を開いた。「あの、わたし、何かの検査に引っかかったんですか」。俺が答えに詰まると、隣の白瀬が「検査じゃない。落とし物の確認」と言った。「あんた宛ての落とし物が、公園に届いてる。半年前から」。汐里はそれ以上、訊かなかった。訊いたら何かが終わると、分かっている横顔だった。
滑り台の影から、八本足の犬が出てきた。汐里を見ると、犬の輪郭のぶれが止まり、足は四本になった。茶色がかった毛並みの、ごく普通の柴犬の姿。
「……ハチ」
汐里がしゃがんで手を伸ばす。犬は——一瞬、確かに、尻尾を振った。耳が立って、腰が浮いて、飛びつく寸前の、あの体勢になった。
そして、止まった。鼻先を寄せ、手のひらの匂いを嗅ぐ仕草をして、すっと、一歩退いた。
『ちがう』
頭の内側に、あの声が響いた。汐里にも聞こえたのだろう、伸ばした手が空中で止まる。
『におい、ちがう。きみは、しおりの、つづき。しおりじゃ、ない』
「つづき……?」
『ほんものの、しおりを、かえして。つきが、つれていった。さんがつの、よる。ぼくは、まにあわなかった』
汐里は、しゃがんだまま動かなくなった。泣いてはいなかった。ただ、自分の両手をじっと見ていた。さっき涙を拭った、その手を。
「……あのね、変なこと言いますけど」
やがて彼女は、掠れた声で言った。
「わたし、ずっと変だったんです。三月より前の記憶が、全部、写真を見てるみたいで。二年生の修学旅行も、ハチのお葬式も、あったことは知ってるのに、そこに自分がいた感じだけ、ないんです。家でご飯食べてても、『ただいま』って言っても、自分の声じゃないみたいで。……でも、誰に言えばいいか分かんなくて。お医者さんに言ったら、心の病気にされるだけだし、友達に言ったら、引かれるだけだし」
半年。この子は半年、それを一人で抱えて、毎朝学校に行って、笑って、自分の声じゃない「ただいま」を言い続けてきたのだ。
俺は何か言おうとして、言葉が出なかった。慰めも、説明も、この場では全部嘘になる気がした。代わりに白瀬が、汐里の前にしゃがんだ。車の中で俺に釘を刺した、あの目の高さの合わせ方だった。彼女は静かに、でもはっきりと言った。
「あんたのせいじゃない。あんたは、置いていかれた側だ。——本物も、あんたも、両方ね」
そのときだった。
ポケットの計測器と、車載の警報機が、同時に鳴った。見ると、画面一面に市内の観測点の警告が並んでいる。四丁目、駅前、河川敷、市役所周辺——全域で、澱濃度が急上昇していた。一地点の異常なら機器の故障を疑う。全地点同時なら、原因は地上にはない。
ハチが、低く唸った。威嚇ではなかった。怯えだった。尻尾を巻いて、汐里と空の間に割り込むように、体の位置を変えた。二年死んでいる犬が、もう一度何かから飼い主を守ろうとする位置だった。
汐里が、ふらりと立ち上がって、空を見た。
「……月が、呼んでる」
その声は、彼女の声であって、彼女の声ではなかった。澱で出来たものたちが共有する、潮の満ち干きみたいな何かが、口を借りて喋った声だった。九月の青空に、第二の月が——もう「透けて」などいなかった。昼の空に、くっきりと、青白く満ちていた。
無線から、真壁係長の声が割り込んだ。いつもの飄々とした調子が、消えていた。
『佐倉くん、聞こえるか。白瀬ちゃんと、すぐ戻れ。たった今、県から通達が来た』
一拍の沈黙。
『——「第二の双月の夜」が、来る』