市役所別館二階は、俺が四年見てきた中で、いちばん騒がしかった。
澱対策課の島には防災課と県の連絡員が入り乱れ、ホワイトボードには市内全域の観測値が殴り書きされている。背景値〇・〇二だったはずの澱濃度は、夕方の時点で市平均〇・一八。七年前の「双月の夜」の直前に記録された値と、ほぼ同じ曲線を描いていた。
異変は、数値だけじゃなかった。市内のあちこちで、遺りらしきものの目撃が相次いでいた。橋の上を行き来する白い人影。閉店した玩具屋の前に座り込む、大きな縫いぐるみのような何か。そして、庁舎裏の澱だまり——守衛さんが聞いたあの歌は、調べてみれば、十年前に取り壊された音楽教室の方角から流れてくる、子どもたちの合唱だった。
街じゅうの「想い」が、月に呼ばれて、起き出している。
「説明するよ。一回しか言わないから、メモして」
会議室の上座で、真壁係長が言った。湯呑みはなかった。代わりに、年季の入った一冊の青いファイルが机に置かれていた。
「県の観測班によると、第二の月の位相——明るさと色の周期が、七年前の九月四日の直前と完全に一致した。再現するなら、次の『接近』は三日後。九月四日、二十二時十七分。七年前と、同じ日の同じ時刻だ」
会議室がざわついた。当然だ。あの夜の再来となれば、市がやるべきことは避難計画と除澱体制の総点検で、徹夜どころの話ではない。県の連絡員はすでにタブレットで本庁と繋ぎ、防災課は防災無線の文面を協議し始めている。
でも係長は、ざわめきが収まるのを待って、声を一段落とした。
「ここからは、公式の話じゃない。七年間、県も国も公表しなかった話だ。——七年前のあの夜、全国で二千百三十六人が消えた」
しん、と空気が固まった。連絡員のタブレットを叩く指が、止まった。
「公式統計では『混乱に伴う行方不明者の一時的増加』。大半は後日発見されたことになってる。でも実際には、発見された彼らの多くは——『続き』だった」
係長の視線が、一瞬だけ俺と白瀬に向いた。会議室の隅、パイプ椅子に座る如月汐里は、膝の上で拳を握って、まっすぐに係長を見ていた。彼女をこの場に入れることに反対した県の連絡員を、係長は「当事者を抜きに行政が決めるのはやめよう。七年前にそれで失敗した」の一言で黙らせていた。
「澱は、印象や想いを写し取って『形』を作る。あの月は、その逆もやる。——強い想いを抱えた人間そのものを、引き上げて、持っていく。残された場所には澱が流れ込んで、その人の『続き』を作る。家族が気づかないくらい、よく出来た続きをね」
「待ってください」連絡員が遮った。「その情報、開示レベルいくつですか。なぜ市の係長がそこまで」
「七年前、私は防災課で行方不明者名簿を作ってた。この市で消えたのは十一人。名簿を作ったのは私で、握り潰したのは県だ。レベルもへったくれもないよ」
係長は青いファイルを開き、一枚の名簿のコピーを机の中央に滑らせた。コピー用紙は四つ折りの癖がついて、折り目は布みたいに柔らかくなっていた。七年間、何百回も開かれ、畳まれてきた紙の柔らかさだった。
十一人分の名前。年齢。最終目撃場所。そのうちの一行に、誰かが引いた古い蛍光ペンの線。
——真壁奏多。当時十七歳。最終目撃場所、市立図書館前。
「……係長」
「息子だよ。受験生でね、夜の図書館通いが日課だった。あの夜から、うちに帰ってきたのは『続き』だった。三ヶ月して、ある朝、塩の柱みたいに崩れて消えた」
係長は、淡々と言った。淡々と言えるようになるまでの七年間を、想像させる言い方だった。
「続きが保つ長さは、周りの澱をどれだけ取り込めるかで決まるらしい。息子の続きは三ヶ月だった。汐里さんが半年も保っているのは、本人も知らないうちに、人一倍うまく澱を喰い続けてきたからだ。——ただね、接近が来れば話は別だ。降ってくる澱は、月に引かれて空へ還る。続きの形は、あの夜を越えられない。これは県の調整室も、非公式には認めてる」
会議室の隅で、汐里が小さく息を呑むのが分かった。猶予なんて、最初からなかったのだ。三日後の夜が、どのみち彼女の期限だった。
「だから県に報告しなかった。報告すれば、汐里さんは『要消去の特異案件』だ。私はもう、続きが消されるところも、勝手に崩れるところも見たくない。——本体を、連れ戻す。三日後の接近は、七年に一度の、たぶん唯一の機会だ」
*
会議が散会した後、別館の屋上で、白瀬が缶コーヒーを呷っていた。夕空には、もう隠れもしない第二の月。
「あんた、聞かないんだ」白瀬が言った。「あたしがなんで祓い師やってるのか」
「聞いていいなら、聞きます」
「師匠が連れて行かれた。七年前。あたしは十三で、弟子入りして二年目だった。師匠の『続き』は三週間で崩れて、あたしはそれを、庭で見てた」
白瀬は缶を握り潰した。
「月が想いの強い人間を持っていくなら、祓い師なんて格好の獲物だよ。他人の想いを毎日浴びる仕事だからね。だから最初期の認定組は、半分が遺族で、半分が次に選ばれたくない臆病者。あたしは両方」
「……訊いていいですか。接近の夜に、白瀬さんが外に出て、大丈夫なんですか。格好の獲物なんでしょう」
「平気。あたしは『視ないでいる』稽古を、嫌ってほど仕込まれてるから。視える人間が生き延びるための、最初の稽古。……仕込んだ人は、もういないけどね」
白瀬は空き缶を足元に置いて、話を進めた。それ以上は踏み込むなという置き方だった。
「三日後の段取りの話。接近の夜は、月とこっちの境界が薄くなる。七年前は『薄くなったから持っていかれた』。なら逆に、こっちから道を作って引けばいい。問題は道標だ。向こうにいる本物の汐里に届く、強い『呼び声』が要る」
白瀬は、俺を見た。
「いるじゃん、一匹。二年死んでてもまだ『かえして』って吠えてる、馬鹿みたいに一途なのが」
ハチ。死んだ飼い犬の形を借りた声。あれは汐里の想いじゃない。汐里を想う側の声だ。
「ただし」白瀬の声が硬くなった。「分かってると思うけど、成功しても、続きの汐里は救えない。本物が戻れば『座』はなくなる。接近の夜に崩れるか、その場で解けるかの違いでしかない」
屋上のドアが、軋んだ音を立てて開いた。
汐里が立っていた。聞いていたのだろう。でもその顔に、絶望はなかった。何かを数え終えた人の、静かな顔だった。
「あの、わたし、ずっと考えてたんですけど」
彼女は俺たちの前まで歩いてきて、深く、頭を下げた。
「わたしを、道標に使ってください」
「……何を言って」
「ハチの声だけじゃ、足りないかもしれないでしょう。わたしは『汐里の続き』です。本物と同じ記憶の写しを持ってて、本物と同じ場所が、たぶん同じだけ大事です。境界が薄くなる夜に、わたしが公園からまっすぐ呼べば——同じ形の声は、共鳴する。違いますか、白瀬さん」
白瀬は、長いこと黙っていた。理屈としては成立してしまうのだと、その沈黙が認めていた。
「……あんた、自分が何を差し出すことになるか、分かってる?」
「分かってます。どうせ、あの夜は越えられないんですよね、わたし」
汐里は顔を上げて、笑った。中学三年生の、年相応の、不器用な笑い方だった。
「この三日、ずっと考えてたんです。最後の三日を、知らないふりして普通に過ごすか、それとも。……普通に過ごすのは、もう半年やりました。全部、借り物の普通でした。だったら最後に一回くらい、自分の声で『おかえり』って言いたいです。——わたしの『ただいま』は、ずっと借り物だったから」
夕暮れの屋上に、風が抜けた。
第二の月が、応えるように、ひとつ瞬いた気がした。