双月の街で、おはようございます   作:かみ工船

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第五話 おかえりと、おはよう

 決行までの三日間は、課の七年史でいちばん忙しい三日間になった。

 

 表向き、市は「高濃度澱の局地的発生に伴う夜間外出自粛要請」を発令した。半分は本当で、半分は方便だ。防災無線が一日三回流れ、回覧板が回り、当夜は市内全域で屋内待機。白瀬は三丁目児童公園に通い詰め、公園の四隅に白木の杭を打った。一本打つごとに半日かかる、根を詰めた仕事だった。

 

「結界じゃないよ、これは」設営中、白瀬は言っていた。「閉じるためじゃなくて、開けた場所を支えるための柱。ドアを開けっ放しにしておく、つっかえ棒みたいなもん」

 

 そして係長は、一人で如月家を訪ねた。

 

 何をどう話したのか、係長は詳しく言わなかった。ただ、帰ってきた係長は「お母さんには、全部話した」とだけ言った。全部。半年前に娘が月に連れて行かれたこと。今、家にいる娘が「続き」であること。三日後に、それを懸けて本物を連れ戻すこと。

 

「……信じたんですか、お母さん」

 

「最初は座ったまま動かなかったよ。一時間くらいね。それから、一つだけ訊かれた。『今うちにいる子は、偽物なんですか』って。私は『続き、です』としか言えなかった。そしたらお母さん、しばらく泣いて、最後にこう言った。——『どちらも、娘です』」

 

 係長は眼鏡を拭きながら、窓の外を見た。

 

「あの家は大丈夫だ。どっちの汐里さんも、ちゃんと愛されてる」

 

 *

 

 九月四日、二十一時三十分。三丁目児童公園。

 

 規制線の内側には、除澱車が二台、計測班が三人、そして四本の白木の杭。滑り台の前には、ハチがいた。今夜のハチは輪郭がほとんどぶれず、四本足の柴犬の姿で、じっと空を見上げていた。その隣に、汐里。学校指定のセーラー服ではなく、私服だった。本物が三月に着ていた服と同じものを、彼女は記憶の写しから選んできた。

 

「服まで合わせなくても」と俺が言うと、彼女は少し笑った。

 

「目印は多いほうがいいでしょ。それに——向こうのわたしが、鏡を見るみたいで安心するかなって」

 

 それから彼女は、ジャケットの胸元を、外から軽く押さえた。そこに何が入っているのか、訊かなくても分かった。家を出る前、お母さんと話したのだという。何を話したかは、誰にも言わなかった。ただ、ここへ来てからの彼女の背筋は、ずっと、まっすぐだった。

 

 二十二時〇〇分。係長が無線で各班に告げた。

 

『これより先に起きることは、すべて私の指示によるものだ。記録は正確に。判断は私が取る。——白瀬ちゃん、頼むよ』

 

 その無線に、市内の定点観測班からの報告がかぶさった。どの地点からも、同じ内容。橋の白い人影が、玩具屋の縫いぐるみが、庁舎裏の見えない合唱団が——街じゅうの遺りたちが、いっせいに空を見上げて、声を上げ始めている、と。

 

 歌だ、と思った。七年間、誰にも届かなかった「かえして」が、今夜だけは、街じゅうで月に向かって歌っている。

 

 二十二時十七分。

 

 それは、音もなく始まった。

 

 第二の月が、満ちた。明るくなったのではない。近くなった。距離の感覚が狂う。空に貼り付いていたものが、急に「天井」になったような圧迫感。そして、雪が降り始めた。白くはない、青い燐光の粉。計測器の針が振り切れる。澱だ。澱が、雪のように降っている。

 

「来たよ」白瀬が長い払い棒を地に突き、低く言った。彼女は今夜、一度も空を見ていない。視線は水平より上に上げず、月の位置は気配だけで測っている。「境界が緩んでる。——見な。前だけね」

 

 公園の風景が、二重になっていた。

 

 今の公園の上に、もう一枚、薄い絵が重なっている。同じ公園。でも季節が違う。重なった絵の中では桜がまだ蕾で、空気が冷たくて——三月の、夜の公園だった。

 

 そしてその絵の中、ブランコに、セーラー服の少女が一人で座っていた。

 

 うつむいて、誰かを待つように、靴の先で地面をなぞっている。三月の夜、死んだ飼い犬を想って公園に通っていた少女。月が引き上げたのは、彼女の体だけじゃない。彼女がいちばん強く想っていた「あの夜」ごと、すくい上げて、閉じ込めたのだ。

 

「呼んで」白瀬が短く言った。「届くのは術じゃない。声だ」

 

 最初に動いたのは、ハチだった。

 

「——ワン!」

 

 頭の内側じゃない。空気が震えた。本物の、犬の声だった。二年前に死んだ犬が、二年ぶりに、声を出して吠えた。

 

 重なった絵の中の少女が、顔を上げた。

 

「ワン! ワンワン!」

 

 ハチは尻尾を千切れるほど振って、跳ねて、吠え続けた。お前を待ってた、ずっと待ってた、と全身で叫んでいた。少女がブランコから立ち上がる。唇が「ハチ」と動くのが見えた。でも彼女は動けない。三月の夜の絵の中で、足が床に縫い付けられたように。

 

 だから、隣の汐里が息を吸った。

 

 彼女は叫ばなかった。代わりに、世界でいちばん普通の声で、言った。

 

「汐里ちゃん、もう帰ろう。——ハチはね、ずっとここにいたよ。あなたが謝りに来るのを、待ってたんじゃないの。一緒に帰るのを待ってたの」

 

 絵の中の少女の目が、見開かれた。自分と同じ顔が、自分の知らない服で、自分の言えなかったことを言っている。

 

「お母さんがね、三月からずっと、夕飯にあなたの好きな唐揚げばっかり作るの。わたし、半年ずっと、あなたの代わりに『おいしい』って言ってた。もう代わりは終わり。今度は自分で言って」

 

 汐里は手を伸ばした。二重写しの境界の向こうへ、まっすぐに。

 

「おかえりを言わせて。そのために、わたし、いるんだから」

 

 絵の中の少女が——走った。

 

 三月の夜を蹴破るように、ブランコから、こちらへ。境界が水面みたいに波打ち、白瀬が「支えろッ」と吼えて四本の杭が軋み、青い雪が渦を巻いた。伸ばされた手と、伸ばした手が、触れた。

 

 その瞬間を、俺はたぶん一生忘れない。

 

 二人の汐里は、抱き合う形で重なって、公園の砂の上に転がり落ちた。三月の絵が砕けて散る。月の圧迫感が、ふっと引く。降っていた青い雪が、上へ——空へ向かって、帰っていく。

 

 砂の上に、咳き込みながら起き上がったのは、一人だった。

 

 三月の服を着た、本物の如月汐里。その隣に、もう一人の姿はない。ただ、彼女の握りしめた右手から、青い燐光がこぼれて、ほどけていくところだった。光は地面に降りずに、ふわりと浮いて、滑り台の前のハチに寄り添った。

 

『……おかえり』

 

 最後にひとつ、頭の内側に、あの子の声がした。

 

『ね、言えた』

 

 ハチが、一度だけ、答えるように吠えた。それから柴犬の輪郭は青い光に解けて、こぼれた燐光と二つ並んで、ゆっくりと、月へ昇っていった。役目を終えた「かえして」と、役目を終えた「続き」が、連れ立って帰っていくみたいに。

 

 *

 

 規制線の外に、一晩じゅう、立っていた人がいた。

 

 如月汐里の母親だった。屋内待機の要請を、その人だけは聞かなかった。係長も、止めなかった。夜明け前、毛布にくるまった汐里が規制線の外に出ると、母親は何も言わずに娘を抱きしめて、それから、誰もいない公園に向かって、深く、長く、頭を下げた。

 

 聴き取りの中で、汐里は言った。月の向こうの記憶は、夢の輪郭みたいに曖昧らしい。ただ、と。

 

「ずっと三月の夜にいたはずなのに……ここに、半年ぶんの記憶があるんです。学校のことも、唐揚げのことも。わたしのじゃない『ただいま』が、いっぱい」

 

 彼女は自分の胸を押さえて、少し泣いた。

 

「この半年、わたしの席を守ってくれてた子のこと、わたし、覚えてます。ぜんぶ」

 

 消えたんじゃない、と俺は思った。あの子が生きた半年は、まるごと本物の中に残った。それを「消えた」と呼ぶのは、たぶん間違いだ。

 

 空が白み始める。第二の月は、また薄く、遠くなっていた。でも消えてはいない。あの向こうには、まだ二千人がいる。係長の息子も。白瀬の師匠も。

 

「あの」

 

 帰り支度の中、汐里がふいに顔を上げて、係長を見た。

 

「向こうで、よく分からないんですけど……声を、聞いた気がして。男の子の声。『親父に伝えて』って」

 

 係長の手が、止まった。

 

「『——まだ、ちゃんとそっちにいるから。名簿、捨てるなよ』って」

 

 長い、長い沈黙のあと、係長は眼鏡を外して、空を仰いだ。それから、いつもの飄々とした声で、でも少しだけ掠れた声で、言った。

 

「……だ、そうだよ。佐倉くん、白瀬ちゃん。うちの課、まだまだ忙しくなるねえ」

 

 朝陽が、公園の砂を照らした。双つの月の街に、七年目の九月五日が来る。

 

 帰り際、汐里は公園の入口で立ち止まり、振り返って、誰もいない滑り台に向かって頭を下げた。母親と、同じ角度のお辞儀だった。それから、晴れやかに言った。

 

「——おはようございます!」

 

 ただいまでも、さよならでもなく。

 

 この街では、それがいちばん正しい挨拶のような気がした。

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