双月の街で、おはようございます   作:かみ工船

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第六話 白瀬みことは現場に来ない

 九月も末になると、街は驚くほどあっさり日常に戻った。

 

 「第二の双月の夜」は、公式には「観測史上最大の澱性異常気象」として処理された。市民の大半は青い雪を窓越しに眺めただけで、翌朝にはいつも通り出勤した。七年も経てば、人は空に月が増えても弁当を作る。世界の終わりが行政案件になる街では、世界の終わり未遂は、回覧板の一段落で済む。

 

 澱対策課には、変化が二つあった。

 

 一つは、課の冷蔵庫に時々、唐揚げ入りのタッパーが届くようになったこと。如月家からだ。汐里が母親直伝で揚げる練習をしているらしく、回を追うごとに確実にうまくなっている。「『おいしい』の練習台にしてください」という付箋の字は、毎回少しだけ滲んだ跡があって、俺たちは何も言わずに完食して、タッパーを洗って返す。最初の回だけ、係長が「うん、おいしい」と声に出して言った。誰もいない給湯室で、タッパーに向かって言った。俺は見なかったことにした。

 

 もう一つは、白瀬みことの嘱託契約が「随時」から「週三日」に変わったことだ。

 

「遺り案件、増えてるからね」と係長は言った。実際、第二の夜以降、市内の遺りの目撃件数は以前の三倍で推移していた。あの夜、街じゅうで起き出した「想い」たちは、月が遠ざかった後も、全部が眠りに戻ったわけではなかったらしい。

 

 つまり俺は週三日、白瀬と組んで現場を回ることになった。

 

 たとえば先週は、河川敷だった。釣り人の形をした遺りが、毎朝五時に同じ場所に座る、という通報。現場で視た白瀬は、十分ほど黙ってそれを眺めてから言った。

 

「釣り堀の元店主だね、たぶん。閉めた店の常連さんの中の『あの親父、元気かな』が、集まって形になってる。害はない。竿の先しか見てないから」

 

「除澱、します?」

 

「しない。こういうのはね、佐倉、祓うんじゃなくて見送るの。想いってのは賞味期限があって、ちゃんと座らせとけば、いつか勝手に薄くなる。無理に剥がすと、千切れた先が変なとこに残る」

 

 見送る、という言い方を、白瀬はよく使った。彼女の仕事は、俺が思っていた「怪異退治」とはだいぶ違っていた。どちらかといえば、引き取り手のない忘れ物を、期限まで預かる窓口に近かった。

 

「白瀬さんって、遺りを消したこと、あるんですか」

 

「あるよ。人を齧るやつとか、道路に飛び出すやつとか。……でも、好きでやったことは一回もない」

 

 軽自動車の助手席で、白瀬は遠慮なく足を組む。二歳しか違わないのに、現場での彼女は俺の十年先輩みたいに振る舞うし、実際、視る力と経験は十年先輩のそれだった。コンビ業務は、思ったより悪くなかった。彼女は口は悪いが現場の説明は的確で、俺の書く報告書を「役所の文章のくせに読める」と褒めるくらいの愛想はあった。

 

「佐倉。コンビニ寄って。塩買い足すから」

 

「経費で落ちる塩なら庁舎の備品倉庫にありますけど」

 

「あれ業務用の安い塩じゃん。仕上げの清めはちゃんとした塩がいいの。あと肉まん」

 

「肉まんは清めに使わないですよね?」

 

「あたしの燃料」

 

 そういう日々が、三週間ほど続いた。だから、その受付票が回ってきた日の彼女の反応は、余計に異様だった。

 

 *

 

「次の案件ね。山際の旧井頭(いがしら)地区。空き家の庭で『子どもの遺りらしきもの』の目撃が三件。近隣の澱濃度も先週から上がり続けてる、と」

 

 係長が読み上げる住所を、白瀬は給湯室の入口で聞いていた。湯呑みを持ったまま、固まっていた。

 

「白瀬ちゃん?」

 

「……井頭の、どこ」

 

「えーと、井頭三の七。旧白瀬祓事務所——」

 

 がしゃん、と音がした。白瀬の手から落ちた湯呑みが、床で割れていた。彼女は破片を拾いもせず、低い声で言った。

 

「あたしは行かない」

 

「白瀬ちゃん」

 

「行かない。他の祓い師を回して。県の名簿に三人いるでしょ」

 

「二人は接近対応の残務で県に出向中。一人は腰を痛めて休業中だよ」

 

「だったら放置でいい。子どもの遺りなんて害はない。濃度が基準値を超えたら、機械で除澱すればいい」

 

 害はない、なんて言葉を、白瀬が現場も視ずに口にしたのを、俺は初めて聞いた。見送るのが仕事だと言った人が、視もせずに「機械で除澱」と言った。それがどれだけ彼女らしくない言葉か、三週間のコンビ業務は、俺に分からせてしまっていた。

 

 係長はしばらく黙って彼女を見てから、いつもの飄々とした調子で言った。

 

「分かった。じゃあ佐倉くん、明日、計測だけ行っといで。見るだけね。手は出さない」

 

「……はい」

 

 白瀬は何も言わずに給湯室を出て行った。割れた湯呑みを片付けながら、俺は受付票の住所をもう一度見た。

 

 旧白瀬祓事務所。

 

 七年前、彼女が「庭で見てた」と言った、あの庭のある場所だ。

 

 *

 

 翌日。井頭地区は、市街地から車で二十分の山裾にあった。

 

 川沿いの道を遡るにつれて、家はまばらになり、田は休耕田になり、電柱のスピーカーから正午のチャイムだけが律儀に流れた。半分が空き家になった古い集落の外れに、その平屋はあった。「白瀬祓事務所」の看板は外されて、跡だけが日焼けの差で残っている。母屋の隣に、道場らしき建物。庭は広く、手入れされないまま七年分の草が伸びて——その真ん中に、ぽっかりと、草の生えない円形の地面があった。

 

 直径は三メートルほど。土が露出しているのではない。短い下草だけが、刈り込んだように、円の中だけ生え揃っている。誰かが、毎日そこに座っているみたいに。

 

 計測器を向ける。庭の澱濃度、〇・二四。基準値超え。そして円の中心は——〇・四〇。

 

 俺は規定通り、敷地の外から声を出した。

 

「市の澱対策課です。当該区域の澱濃度を計測しています。形あるものがいれば、応答してください」

 

 返事の代わりに、道場の引き戸が、内側から、すう、と開いた。

 

 出てきたのは、子どもだった。

 

 十二、三歳の少女。色の抜けた髪を無造作に括って、動きやすそうな道着姿。裸足のまま縁側から庭に降りて、円の手前で立ち止まり、俺を見た。それから——俺が何も言えずにいると、少女は俺から目を離し、円の中心に立って、素振りを始めた。

 

 手には何も持っていない。でも、長い棒を扱う型だと分かった。振り上げて、止めて、払う。一連の動きを、几帳面に、何度も。誰かに見てもらうための稽古を、誰もいない庭で続けている、その繰り返しの果てに草が生えなくなったのだと、円の意味がようやく分かった。

 

 その顔に、俺は見覚えがあった。当たり前だ。週三日、隣で肉まんを食ってる顔の、七年前の姿なのだから。

 

「……白瀬、みこと?」

 

 十三歳の白瀬みことの形をした遺りは、素振りを止めた。

 

 遺りは、本人じゃない。誰かの強い想いが、その姿を借りているだけだ。ハチの形を借りた「かえして」が、汐里自身の声じゃなかったように。

 

 なら、これは——誰の想いが、弟子の姿を借りて、七年間この庭で稽古を続けているんだ。

 

 少女の形をしたそれは、ゆっくりと首を横に振った。それから、頭の内側に、あの種類の声が響いた。

 

『にげて』

 

「……え?」

 

『にげて、みこと。つきを、みないで。ぜったいに、みあげないで』

 

 それは俺に言っているんじゃなかった。俺を透かして、ここにいない誰かに——七年間、ずっと同じ言葉を、誰もいない庭に向かって言い続けてきたのだと、分かる言い方だった。

 

 遺りの輪郭が、ぶれた。一瞬、道着の少女の姿が解けて、別の像を結ぶ。背の高い、白髪交じりの女の人。長い払い棒を杖のように突いて、笑っているのか泣いているのか分からない顔で、こちらを見て——また、少女の姿に戻った。

 

 俺は息を止めて、手帳に書き付けた。震える字になった。

 

 遺りの主、おそらく白瀬の師匠。形は「十三歳の白瀬みこと」。すなわち、師匠が最後に遺した想いの形は——弟子そのもの。

 

 計測を切り上げようとして、ふと、開いたままの道場の中が目に入った。

 

 板張りの床。埃。壁際に、祭壇の跡。畳まれたままの座布団が一枚。そしてその奥の壁に、墨で直接書かれた文字があった。七年分の埃を被って、でも、はっきり読めた。

 

 几帳面な楷書で、こうあった。

 

 ——九月四日 二十二時十七分 月が来る。

 

 書かれた日付は、その三ヶ月前だった。

 

 白瀬の師匠は、双月の夜を、知っていた。

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