報告書のカーソルが、同じ場所で三十分、点滅していた。
【特記事項】の欄。書くべきことは決まっている。旧白瀬祓事務所の道場内壁面に、双月の夜の三ヶ月前の日付で「九月四日 二十二時十七分 月が来る」との記載を確認——たった一行だ。一行で済む。
俺は実際に三回、その一行を打った。三回とも、消した。
打つたびに、その先が見えてしまうからだ。「双月の夜を事前に知っていた人物」の存在は、七年間どの公的記録にもない。国も県も、あの夜を「予測不能の天体現象」として処理してきた。その前提を崩す物証が出れば、即、国家級の調査案件になる。事務所は封鎖、遺品は押収。故人は「事前関係者」——下手をすれば「関与者」として洗い直され、生前の交友関係、金の流れ、思想信条まで調べられる。そして関係者への聴取は、唯一の弟子に、まっすぐ向かう。七年前に十三歳だった、今は市の嘱託の、あの祓い師に。
白瀬十重という人を、俺は知らない。でも、あの庭で七年間素振りを続けている遺りを視た後で、その人を「関与者」と書く一行を、俺は打てなかった。
かといって、握り潰すのも違う。これは白瀬みことの人生の話だ。役所の若造が、本人に黙って、書くか書かないかを決めていい話じゃない。
結局その日、報告書は保存だけして、提出しなかった。係長は会議。白瀬は非番。窓の外の月は、薄かった。
*
白瀬のアパートは、市役所から自転車で十五分の、川沿いの古い二階建てだった。住所は嘱託職員の緊急連絡網で知っていた。使うのは初めてだった。
二〇三号室。表札はない。ドアの横に植木鉢がひとつあって、中の何かはずっと前に枯れていた。枯れたまま、捨てられてもいなかった。階段下には、見慣れた自転車。荷台に括られた、釣り竿ケースみたいな細長い筒。商売道具と一緒に暮らしている生活が、ドアを開けてもらう前から、輪郭だけ見えた。
チャイムを押すと、ドアは開いた。部屋着のジャージ姿の白瀬は、俺の顔を見て、それから俺が提げているコンビニ袋——肉まん二個——を見て、露骨に眉をひそめた。
「……何。買収?」
「報告です。非番の日にすみません。でも、係長より先に、白瀬さんに言うべきだと思ったので」
ドアの前で、俺は昨日の井頭で視たものを、順番に全部話した。草の生えない円のこと。道着の少女が、誰もいない庭で素振りを続けていたこと。それが一瞬だけ結んだ、長い払い棒の女の人の像のこと。『にげて、みこと。つきを、みあげないで』という声のこと。
そして最後に、道場の壁の、楷書の一行のこと。
白瀬は、最後まで黙って聞いていた。聞き終わっても、しばらく黙っていた。川の方から、夜の水の音がしていた。
「……見るだけって、言われてたよね」
最初に出てきたのは、静かな声だった。静かなまま、刃物だった。
「敷地の外から計測だけ。手は出さない。なのにあんたは道場の中まで覗いて、師匠の——」声が、一度途切れた。「人の家の、いちばん中のとこまで、勝手に視た」
「道場の戸は、遺りが開けたんです。俺に見せようとしたんだと思う」
「都合のいい解釈しないでよ!」
初めて聞く、白瀬の怒鳴り声だった。廊下の電灯に、羽虫が一匹ぶつかって落ちた。
「遺りが何を考えてるかなんて、誰にも分かんない。あたしにだって分かんないの、七年やってても! それをあんたは一回視ただけで、『見せようとした』『あんた宛ての言葉だ』って、物語にする。やめてよ、そういうの。人の七年を、勝手にいい話にしないで」
「物語にしてるつもりは——」
「あるよ。あんたは汐里ちゃんの件が上手くいったから、ああいうのをもう一回やれると思ってる。声を聞いて、迎えに行って、おかえりって言って、朝が来る。……でもね、あれは上手くいった方なの。あたしは上手くいかなかった方を、先に見てるの」
白瀬の声は、途中から怒りの形を保てなくなっていた。
「七年前のことも、師匠のことも、何も知らないくせに。壁の字ひとつ見つけて、探偵にでもなったつもり?」
「知りません。何も知らない。……でも、ひとつだけ言わせてください」
俺も、引かなかった。引いたら、この話は二度とできない気がした。
「あの遺りは、七年間、誰もいない庭に向かって『にげて』って言い続けてた。受取人が一度も取りに来てない、七年前の言葉です。俺は汐里の事件で覚えました。ああいう声には期限があるって。白瀬さんが言ったんですよ——想いには賞味期限があって、いつか勝手に薄くなるって。あれが薄くなって消えたら、師匠が最後に白瀬さんに遺したものは、誰にも受け取られないまま、なくなる」
「——だから何!」
彼女は、ドアノブを掴んだ。その手が、微かに震えているのが見えた。
「あたしに井頭へ行けって? 行って、何。師匠の遺りに『はいはい逃げます』って返事して、すっきりしろって? ……報告書、好きに書けば。県が来るなら来ればいい。でも、あたしをあの庭に立たせようとするのだけは、やめて。二度と」
ドアが、閉まった。乱暴にではなく、最後だけ妙に静かに、閉まった。
俺はしばらくドアの前に立っていた。それから、肉まんの袋をドアノブに掛けて、帰った。我ながら、間抜けな置き土産だと思った。川沿いの道は暗くて、月は見上げなかった。
*
翌朝、出勤すると、係長が俺のデスクの横に湯呑みを持って立っていた。
「報告書、まだ上がってないね」
「……特記事項を、どう書くか迷ってます」
「ふうん」係長は湯呑みをすすった。「ちなみに昨日の夜、白瀬ちゃんから電話があってね。『佐倉が井頭の件で暴走してる。コンビを解消したい』って」
胃の底が、すっと冷えた。係長は俺の顔を見て、少し笑った。
「で、私は『考えとくよ』って答えた。考えた結果、却下。コンビ継続」
「……いいんですか。本人が嫌がってるのに」
「佐倉くん。七年前から白瀬ちゃんを知ってる者として、ひとつだけ教えとくとね」
係長は湯呑みを置いて、窓の外——薄く透ける昼の月の方を、見た。
「あの子はずっと、『置いていかれた側』をやってるんだ。親にも、師匠にも。置いていかれた側はね、自分から迎えに行くってことが、どうしてもできない。迎えに行った先で、また置いていかれるのが怖いから。手を伸ばさなければ、振り払われることもないからね。……これは理屈じゃなくて、息子の続きが崩れた朝から三年くらい、息子の部屋のドアを開けられなかった男の、実感込みの話だよ」
「……係長は、どうやって開けたんですか」
「女房がね、先に開けた。開けて、掃除して、『あんたも入りなさい』って。——つまりそういうこと。誰かが、迎えに行く側を、しつこくやるしかない。嫌がられてもね」
係長は飄々と自分の席へ戻りかけて、思い出したように付け加えた。
「あ、でも報告書の特記事項は、計測値だけでいいよ。壁の字は、まだ『未確認情報』だ。私は何も聞いてない。——七年前に名簿を握り潰された男がね、今度は握り潰す側に回るんだ。役所も捨てたもんじゃないだろ?」
俺は報告書を開き、特記事項に計測値と遺りの目視確認だけを書いて、提出した。
保存してあった、もう一つの下書きは、消さずに残した。隠すためじゃない。いつか白瀬が自分で「書いていい」と言える日が来たら、その日のうちに出せるように、だ。書くか書かないかを決める権利は、最初から彼女のものだった。俺にできるのは、決められる日まで、引き出しの中で預かっておくことだけだ。
遺りの仕事と、案外似ているのかもしれない。引き取り手のない言葉を、期限まで預かる窓口。
昼休み、自分の机で冷えた弁当を食いながら、俺は嘱託職員の出勤予定表を眺めた。白瀬の次の出勤日は、明後日だった。明後日、彼女がどんな顔で来るのか、まるで見当がつかなかった。