数日後、俺は業務として、もう一度井頭へ行った。
名目は「目撃情報三件の裏取り聞き取り」。嘘ではない。受付票の処理として正規の手順だ。ただし今回は事務所の敷地には近づかず、集落の側だけを回る。それが俺なりの、白瀬への線引きだった。勝手に「いちばん中のとこ」までは、もう視ない。でも、外から知れることは、知っておく。迎えに行く側をやるにしても、地図も持たずに行くのは、ただの無謀だ。
井頭の集落は、住民の平均年齢が七十を超えていそうな、静かな場所だった。聞き取りの段取りは、拍子抜けするほど簡単についた。一軒目で畑帰りのお爺さんを捕まえたら、「そんなら集会所においで、今日は茶の日だから」と言われ、気づけば俺は、湯呑みと漬物と煎餅に包囲されていた。
遺りの目撃証言が三件——という話だったが、集会所で分かったのは、集落の年寄りたちは誰も、あの遺りを怖がっていないということだった。三件の通報は、いずれも空き家の査定に来た市外の不動産業者からだった。三回来て、三回とも視えてしまったらしい。
「ありゃあ、みことちゃんだもの」
最初にそう言ったのは、畑帰りのそのお爺さんだった。
「十重(とえ)さんとこの、みことちゃん。道着で庭にいるのを、わしらは七年、見とるよ。怖いもんかね。手ぇ振ると、お辞儀するんだから。素振りの邪魔せんように、わしらは垣根の外から見るだけだがね」
白瀬十重。師匠の名前を、俺はそこで初めて知った。
集会所の年寄りたちは、湯呑みが二周する間に、訊いてもいないことまで話してくれた。曰く、白瀬の家は、月が来るずっと前からこの集落の「拝み屋」だった。曰く、十重さんは厳しいが面倒見のいい人で、田んぼの水争いから子どもの夜泣き、新車のお祓いまで、何でも持ち込まれていた。曰く、月が来て国が「祓い師」の資格制度なんぞを作ったとき、十重さんは申請書を見て「百年遅い」と笑っていた。
「拝み屋ってのはね、お役所が言う祓い師より、ずっと範囲が広いんよ」と、元郵便局長だというお爺さんが言った。「生きとる人の揉め事も、死んだ人の心残りも、得体の知れんもんも、ぜんぶ窓口は十重さんだった。月が来る前から、この辺にはね、月が来てから言う『遺り』みたいなもんが、ぽつぽつ、おったんだわ。十重さんはそれを昔から見送っとった。……あんたらの言葉ができる前から、あった仕事なんよ」
澱以前にも、何かはあった。手帳を持つ手が、少し汗ばんだ。これは市の記録のどこにもない話だった。
「みことちゃんはね、よそから来た子だよ」
一番年嵩のお婆さんが、煎餅を割りながら言った。
「十重さんの遠縁とか言うとったが、まあ、要するに、親に手放された子だね。十二かそこらで、ボストンバッグひとつで来た。最初の半年は、誰とも口きかんかった。目だけが、こう、大人を測るような目をしとってね」
「……それが、弟子に?」
「十重さんが言うには、『この子は視えすぎる』と。視えすぎる子は、視えん親の家じゃあ、嘘つき扱いされて潰れるんだと。だから引き取って、名前ごと面倒みた。『白瀬みこと』いう名前はね、十重さんがつけ直したんよ。前の名前は、本人が捨てたがったから」
俺は手帳を取る手を、途中で止めた。これは報告書に書く話じゃない。書く話じゃないが——忘れていい話でもなかった。
置いていかれた側、という係長の言葉が、輪郭を持って胸に落ちてきた。白瀬みことという名前そのものが、一度置いていかれた子が、もう一度もらった居場所の名前だったのだ。そしてその名前をくれた人も、七年前の夜に、いなくなった。
「あの子が初めて笑ったのはね、秋祭りよ」と、別のお婆さんが嬉しそうに割り込んだ。「十重さんが射的で景品ぜんぶ落としてね。『拝み屋は目がいいんだ』って澄ました顔して。みことちゃん、堪えきれんで噴き出して。……ああ、この子、笑えるんだ、ってわしらみんな思ったわ」
しばらく、集会所は思い出話で温かくなった。朝稽古の声。回覧板を届けに来る道着の子。「視えるもんは、視た者の責任だよ」が口癖だった師匠と、それを口真似する弟子。
だから、その後の話との落差が、余計に効いた。
「七年前の夏のことも、訊いていいですか」
集会所が、少しだけ静かになった。年寄りたちは顔を見合わせ、それから、年嵩のお婆さんが、ゆっくりと口を開いた。
「……その夏はね、十重さん、様子がおかしかったよ。蔵から古い道具を出して、虫干しして。道場に籠もって。祭りにも出てこんで。軒先に白い紙を下げて回ってね」
「白い紙?」
「集落じゅうの家にだよ。『お守りだから、下げときなさい』と。それから、こうも言って回った。『当分、夜に月をまっすぐ見上げなさんな』と」
手帳の上で、ペンが止まった。
——つきを、みあげないで。
遺りの言葉と、同じだった。師匠は、消える前の夏から、集落じゅうに同じことを言って回っていたのだ。
「わしらは半分笑って聞いとったがね」と元郵便局長が言った。「九月のあの夜からこっち、誰も笑わんよ。見なされ、この集落の年寄りは、今でも誰も夜空を見上げん。癖になっとる。……おかげかどうか、この集落からは、あの夜、誰も消えんかった。十重さんひとりを除いてね」
「八月の盆過ぎにね」と、お婆さんが湯呑みの中を覗き込むように目を伏せた。「うちの縁側で、十重さん、ぽつんと言うたんよ。『月見の支度をせにゃならん』と。わしが『お月見にゃ早かろう』と笑うたら、笑わんでね。『先代も、こうやったんかねえ』と」
「……先代も?」
「十重さんのお祖母さんだわ。わしらが子どもの時分の、先々代の拝み屋さん。——変な話だがね。あの人も、晩年に一度、長いこと『お籠もり』をして、それから、ふいっとおらんようになった。山で行方知れず、いうことになっとるが」
集会所の窓から、午後の薄い月が見えた。誰も、それを見上げなかった。
月が空に「見えた」のは、七年前が初めてのはずだ。でも白瀬の家は、それより前から、何かの支度を、代々——
手帳を閉じて、深く礼を言って、俺は集会所を出た。訊くべきことが増えすぎて、訊いていい相手が一人しかいないことだけが、はっきりした。
*
夕方、市役所に戻ると、駐輪場の脇に、見覚えのある自転車が停まっていた。
白瀬は、植え込みの縁石に座って、待っていた。非番のはずの日に、私服で、膝にコンビニの袋を載せて。
「……井頭、行ったんでしょ。集会所の婆ちゃんから電話来た。『役所のいい男が十重さんのこと訊きに来たよ』って」
「いい男かは別として、行きました。敷地には入ってません」
「知ってる。婆ちゃんたち、そういうとこは見てるから」
白瀬は袋から肉まんを一つ出して、俺に放った。ドアノブに掛けたあの夜のやつ——ではなく、今日買ったらしい、まだ温かいやつだった。
「先に言っとくけど、コンビ解消の話は取り下げた。係長に却下されたからじゃない。あたしが、取り下げた」
彼女は自分の分の肉まんを半分に割って、立ちのぼる湯気を、しばらく見つめた。
「あんたが余所の婆ちゃんたちから、師匠のこととか、あたしのこととか、切れ切れに聞いて回るの——想像したら、なんか、すごくやだった。間違って伝わるのもやだし、正しく伝わるのは、もっとやだ。それなら」
白瀬みことは、顔を上げた。七年分の何かを、一度だけ深く呑み込んでから、言った。
「あたしが話す。最初から、ちゃんと。……長くなるけど、いい?」
「肉まで奢ってもらったので」と俺は包みを掲げた。「閉庁までなら、いくらでも」
「閉庁までで終わる話だったら、七年も黙ってないっての」
白瀬は鼻で笑って、縁石から立ち上がった。夕方の風が、駐輪場の銀杏を鳴らした。彼女はちらりと西の空を見て——月のない方角だけを確かめるように見て——歩き出した。
「川沿い、歩きながらでいい? 座って話すと、たぶん、途中でやめたくなるから」