双月の街で、おはようございます   作:かみ工船

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第九話 川の音だけ、していた

 夕方の川沿いは、犬の散歩と部活帰りの自転車がまばらに通るだけで、話をするにはちょうどよかった。白瀬は土手の上の道を、川を左に見て歩いた。西の空——月が昇る方角に、背を向ける格好だった。

 

「最初に言っとくけど、同情とか相槌とか、要らないから。あんたはただ歩いて、ただ聞いて。質問は最後にまとめて。役所の聞き取りと同じ要領でやって」

 

「了解です」

 

「……うん。じゃあ、始める」

 

 白瀬は前を向いたまま、淡々と話し始めた。淡々と話せる形に、何年もかけて削り出してきた話し方だった。

 

「あたしは生まれつき、視えた。澱とか遺りとか、そういう言葉ができるずっと前から、他の人に見えてないものが見えてた。最初は、みんなも見えてると思ってた。違うって分かったのは、幼稚園。『お庭のおばあちゃんにご挨拶した』って言ったら、母親の顔色が変わった。うちの庭に、おばあちゃんなんて、いなかったから」

 

 川面で、鯉が一度跳ねた。

 

「それからは、まあ、定番の流れ。病院に連れて行かれて、何ともないって言われて、『嘘をつくな』になって、『気味の悪いことを言うな』になって。あたしは見えないふりを覚えた。けっこう上手くやってたと思う。でも、十二の春に、しくじった。……近所の踏切でね、視えたの。立ってる人が。次の日、そこで本当に人が死んだ。あたしが前の日に『あそこに人が立ってる』って言っちゃってたもんだから——近所で、あたしが何かしたみたいな話になった」

 

「……それは」

 

「相槌、要らないって言った」

 

「すみません」

 

「親はあたしを庇わなかった。庇う代わりに、遠縁の拝み屋に『そういうのに詳しい人がいるから』って、夏休みの間だけって言って、預けた。井頭の、白瀬十重のところに。……夏休みが終わっても、迎えは来なかった。二学期の転校手続きの書類が、郵便で届いただけ」

 

 白瀬の声は、揺れなかった。揺れない練習を、たぶん何百回もしてきた声だった。

 

「師匠は、最初の半年、何も訊かなかった。視えるものについても、親についても。ただ毎朝五時に叩き起こして、廊下の拭き掃除と、庭の素振りをやらせた。視えるとか視えないとか関係ない、ただの掃除と、ただの棒振り。……あれ、あとから分かったんだけど、たぶんわざとなんだよね。視える子は、視えるものに振り回されて、体と今日を置き去りにする。だから先に、体と今日を返してくれたの」

 

「名前の話も、訊いていいですか」

 

「集会所で聞いたんでしょ、どうせ」白瀬は少し笑った。「冬にね、師匠が役所の書類を書きながら、こともなげに言ったの。『お前、名前はどうする。前のを使うか、新しくするか』って。あたしが黙ってたら、『白瀬みこと』って書いて見せて、『嫌なら変えろ。嫌じゃないなら、今日からお前のだ』って。……それだけ。儀式も何もなし。でもあたしは、その書類を見た夜、布団の中で、自分の新しい名前を口の中で百回くらい言った」

 

 土手の道が、橋の下をくぐる。日陰の涼しさの中で、白瀬の歩調が、わずかに落ちた。ここから先が、本題なのだと分かった。

 

「七年前の夏。師匠の様子が変わった。蔵から古い道具を出して、虫干しして、道場に籠もるようになった。あたしが『何の支度?』って訊いたら、一度だけ答えた。『月見の支度だ』って。意味を訊いたら、『お前はまだ視るな』って、それきり。……稽古だけは、いつもより厳しくなった。特に、目の稽古。視えても視ないでいる稽古。あたしは正直、ちょっと嬉しかったんだよね。師匠が、あたしを次の代として鍛えてるんだと思ったから」

 

 白瀬は、一度、深く息をした。

 

「九月四日。夕方から、師匠は道場に籠もった。あたしには『今夜は何があっても母屋から出るな。雨戸を閉めて、空を見るな』って。あたしは言いつけを守った——二十二時までは。でも、二十二時を過ぎた頃、庭の方から、聞いたことのない音がしたの。鈴みたいな、水みたいな、すごく綺麗で、すごく嫌な音。それで、あたしは」

 

「……雨戸を、開けた」

 

「開けた。庭に出た。師匠が庭の真ん中に立って、空を見上げてた。何を見てるんだろうって、あたしも——見上げた」

 

 白瀬の足が、止まった。川の音だけが、していた。

 

「月と、目が合った」

 

 その言い方の正確さが、怖かった。見た、ではなく、目が合った。

 

「青い月がね、こっちを視てた。視られた瞬間、足の裏が地面から浮いた。本当に、物理的に。体が軽くなって、上に——引かれた。怖いって感覚すらなかった。ただ『呼ばれてるから行かなきゃ』って、それだけになった。……そこで、師匠があたしに気づいた」

 

 白瀬は、自分の両肩を、抱くでもなく、確かめるように触れた。

 

「突き飛ばされた。地面に叩きつけられて、上から師匠の体で押さえ込まれて、耳元で言われた。『見るな。逃げろ。月を見上げるな』って。あたしの目を自分の袖で塞いだまま、師匠は——立ち上がって、あたしの代わりに、まっすぐ月を見上げたの。それが、あたしが覚えてる最後。気がついたら朝で、庭にはあたし一人で、空には月が二つあった」

 

 遺りの言葉と、一言一句、同じだった。にげて。つきを、みあげないで。あの遺りは、師匠の最後の言葉そのものを、七年間、庭で繰り返し続けていたのだ。

 

「その後のことは、まあ、早送りでいい。あたしは集落の婆ちゃんたちに代わる代わる飯を食わされて、児童相談所と役所の間をたらい回しにされて——そのときの市の担当の中に、防災課の真壁って人がいた。係長とは、その頃からの付き合い。……で、十五になった年に、国が祓い師の認定制度を作った。あたしは最年少で申請した。周りは全員反対したよ。なんでだと思う?」

 

「……月に、選ばれやすくなるから」

 

「それもある。でも、あたしが申請した理由はもっと単純。資格があれば、視えることが『嘘』じゃなくて『仕事』になるから。誰にも気味悪がられずに、堂々と視ていられる身分が欲しかった。……それと、もうひとつ」

 

 白瀬は、半歩先の地面を見たまま言った。

 

「いつか師匠を迎えに行くなら、素人のままじゃ話にならないと思った。……思っただけで、七年間、井頭にすら行けなかったんだけどね。笑えるでしょ」

 

「笑いません」

 

「相槌、要らないっての」

 

 でもその声は、さっきより少しだけ、柔らかかった。

 

「だからね、佐倉。あたしの中では、ずっと計算が合ってるの。あたしが言いつけを破らなければ、あたしが見上げなければ、月はあたしを視なかった。師匠が身代わりになることもなかった。師匠を連れて行かせたのは、あたし。……あの庭はね、それを毎日確認させられる場所なの。十三歳のあたしの形をした遺りが、毎日素振りをしてるんでしょ? 完璧じゃん。師匠が最後に視たのは、守らなきゃいけない出来損ないの弟子だったって、形が証明してる」

 

 言い切って、白瀬は歩き出そうとした。話は終わり、という背中だった。

 

 だから俺は、その背中に、ずっと喉に引っかかっていた一行を置いた。

 

「——壁の字は、それと矛盾します」

 

 白瀬の足が、止まった。

 

「『九月四日 二十二時十七分 月が来る』。三ヶ月前の日付で、几帳面な楷書で。白瀬さん、あれは身代わりの字じゃない。日時を知ってて、支度をして、集落じゅうに紙を配って、当日の夜に道場じゃなくて庭に立ってた人の字です。師匠は最初から——あの夜、月の前に立つつもりだった。あなたが見上げても、見上げなくても」

 

 川の音だけが、していた。

 

 白瀬は振り返らなかった。振り返らないまま、長い沈黙の後で、掠れた声が言った。

 

「……それを確かめたら、あたし、七年分の計算が、全部崩れるんだけど」

 

「崩しに行きましょう。俺も行きます」

 

 夕陽が落ちきって、足元の影が消えた。白瀬みことは、空を見上げない角度のまま、小さく、確かに、頷いた。

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