男女比1:10の世界で、俺は「私だけ」を作ることにした 作:晴口 丸
昼間の喧騒と熱気が嘘のように引いた夜。 風はどこまでも心地よく、見上げる夜空には、昨日の嵐が嘘だったかのようにこぼれ落ちそうなほどの銀河が輝いていた。
自室から抜け出して、だれもいないテラスで遠くの海を眺めていると、背後から声をかけられた。
「いい夜ですね」
「ああ、空にこぼれたミルクを掬い取れそうだ」
「ふふ、なんですの、それ」
振り向いて麗華の姿をとらえる。透き通るような純白のサマードレスと、月明かりに照らされた金髪がキラキラと光って、幻想的なまでに魅力を引き出している。
「せっかくの綺麗な星と海……もう少し、近くで見てみませんか?」
「麗華と一緒なら」
「あら、光栄ですわ」
完璧なホストとしての優雅な微笑みを絶やしてはいなかったが、その瞳の奥には、今にも弾けそうなほどの強い緊張と焦燥の光が宿っていた。月をバックに微笑み返し、少し儚い雰囲気を意識しながら麗華に手を差し出すと、彼女は恭しくその手を取った。
浜辺へと続く小道を、二人で並んで歩く。 ざざん、と寄せては返す白い波が、彼女のドレスの裾をかすかに濡らした。
「ふふ、静かな夜ですわね。まるで、この島には私と湊の二人しかいないみたい」
麗華はいつも通りの、少し気取った優雅な口調で微笑む。
主として、そして完璧な令嬢として、場をコントロールしている風を装っている。だが――俺と繋いでいる彼女の指先は、隠しきれない微かな冷たさと硬直を孕んでいた。
「麗華。手を繋ぐのに、そんなに力が入っていたら疲れてしまうよ」
「っ……! あ、あら、失礼。海風が少し冷たいものですから、無意識に力が入ってしまいましたの」
すぐに取り繕って笑ってみせるが、その視線はどこか泳いでいる。 彼女は自分から俺の隣に並び、胸を張って、冷泉院の令嬢としての『余裕』を演じ続けようとしていた。だが、胸の奥で渦巻く感情の容量は、もう限界を迎えている。
「今日のチェスは、とても白熱していましたわね。クラリスさんたら、普段はおとなしいのに……あんなに情熱的に湊に攻め立てるなんて、少し驚いてしまいましたわ」
「ああ、彼女の攻めは凄かったね」
「……ええ。本当に」
軽く受け流した俺の言葉に、麗華の足が、ぴたりと止まった。 彼女は俺の手を握り返したまま、波打ち際でじっと俯く。月光が、彼女の美しく切り揃えられた前髪に陰影を作っていた。
「……梓もです」
「ん?」
「梓も……私には何も言わず、今朝からずっと何かを隠していて……湊と二人だけの秘密を作って、あんな顔をして……」
強がろうとする声が、次第に細く、硬くなっていく。 麗華はぎゅっと唇を噛み締め、必死に「完璧な自分」を保とうと背筋を伸ばそうとした。だが、持ち前のプライドが高ければ高いほど、溢れ出しそうな惨めさと嫉妬の熱を隠しきれない。
「私は……冷泉院の人間として、この旅行のホストとして、皆さんに満足していただく義務がありますわ。だから、誰が誰にどんな感情を抱こうと、寛大に受け止めるべきなのですけれど……」
そこまで言って、彼女はハッと息を呑み、慌てて言葉を呑み込んだ。
『本当は寛大になんてなれない』と言いかけた自分に気づき、顔を背ける。
「……申し訳ありません。変なことを言いましたわ。忘れてくださ……」
「麗華」
俺は彼女の手を優しく引き寄せる。 逃げようとする彼女の身体が、一気に俺の胸元へと引き寄せられた。
「っ……あ……」
「無理に『完璧なお嬢様』でいようとしなくていいんだよ。ここには、麗華と……「麗華の湊」しかいないんだから」
至近距離で見つめ返すと、麗華の瞳が一瞬で揺れた。 強がりという名の薄い氷が、パキリと音を立てて砕け散る。
「……ズルいです、湊」
麗華はついに降参したように、俺の胸に額を預けてきた。 その声はもう、気取った令嬢のものではなく、嫉妬と独占欲で胸を痛める、等身大の少女の揺れる声だった。
「そんな風に優しくされたら……私がどれだけ見苦しく嫉妬しているか、格好悪い本音を言いたくなってしまいますでしょう……? 梓にも、クラリスさんにも……誰にも湊を渡したくないって……私だけを見てほしいって……引き止めずにはいられなくなってしまうではありませんか……っ」
「不安? 俺が誰かのものになってしまうのが、怖い?」
「もちろんです。願わくば、このまま誰もいない世界で、ともに朽ち果てたく思いますわ」
俺のジャケットをキュッと掴む、小さな手。
余裕を演じきれず、けれど最後までプライドを捨てきれずに意地を張り、それでも漏れ出てしまった彼女の「本当の叫び」。
その言葉を聞き、俺は電撃を受けたかのような歓喜の衝撃を受けた。
(これだ……!)
きっと彼女はそれを望まない、それを本気で選択肢に入れない。でも構わない。俺は間違っていなかった。
『一ノ瀬湊をだれにも渡したくない。その為なら二人で死んでもいい』
一瞬でも、確かに彼女はそれを望んだのだ。
俺は興奮が抑えきれないままに彼女を覆いつぶすように彼女を抱きしめた。それはきっと彼女にとって初めて経験する狂気的な執着を伴う抱擁。
未知の感覚に内心戸惑う彼女に俺は耳元でささやいた。
「なら教えてあげる……麗華。俺は麗華の所有物であると同時に、冷泉院麗華の、主人だ」
「しゅ、主人……湊、さま」
「そう。ご主人様の命令をちゃんと聞いてくれるなら、麗華。俺はこれからも君のものだよ……」
「あっ……っ……」
耳元で囁かれた、鼓膜を直接揺らすような低く甘い声。
そして、全身を押し潰さんばかりの強固な腕の力。 それは、これまで冷泉院の令嬢として誰からも敬われ、蝶よ花よと崇められてきた彼女が、人生で一度も味わったことのない「完璧な被支配」の感覚だった。
あまりの熱量と、一ノ瀬湊という男の底知れない狂気的な執着に、麗華の思考は真っ白に塗られていく。
胸の奥で渦巻いていた嫉妬も、惨めさも、プライドすらも、彼に与えられた強烈な刺激と「君のものだよ」という甘い毒によって、すべてドロドロに溶かされていく感覚。
(ああ……私、どうにかなってしまいそう……っ)
未知の恐怖と、それを遥かに上回る背徳的な悦び。 彼女の指先が、無意識のうちに湊のジャケットを破らんばかりの力で強く握りしめられる。
湊に支配され、自分のすべてを委ねることでしか得られない、極上の安心感と恍惚。
「……はい、湊様……。私の……ご主人様……」
うっとりと熱を孕んだ瞳で、麗華は湊を見上げ、その唇から吐息交じりの降伏を漏らした。
もう、完璧なお嬢様の仮面などどこにもない。 波打ち際で月光に照らされているのは、主人の支配を求めてすがる、一人の忠実で狂おしい愛の奴隷だった。
「……私のすべてを、貴方に捧げますわ。だから……絶対に、私を置いてどこかへ行ったりしないで……」
「約束するよ、麗華。君が俺の忠実な従者でいる限り、俺は君だけのものだ」
湊は満足げに微笑み、彼女の震える唇に、そっと指先を滑らせた。 波の音が、二人の怪しくも美しい「契約」を静かに祝福するように響き渡る。
梓の抱えた「手帳の秘密」。
クラリスが覚醒させた「破滅的な信仰」。
そして、麗華が自ら首輪を嵌めた「主従の契り」。
台風一過のこの島で、少女たちの運命は、一ノ瀬湊という存在によって完全に書き換えられてしまったのだった――。
俺は静かに笑みを深めると、彼女の華奢な背中に腕を回し、優しく抱き寄せ、唇を重ねた――。
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