あの夏の日の怖さを覚えてますか?

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夜廻 おうまがときの、寂しい泥

夕焼けが、まるでじくじくと血を流すように、街をあかく染めていく時間。

おひさまが完全に沈んでしまうと、昼間のなじみ深い街はどこか遠くへ消えて、かわりに冷たい影が地面のあちこちから、ずるずるとせり出してくる。

こともは、ちいさな懐中電灯をぎゅっと握りしめて、夜になりかける街を歩いていた。

トコトコと、自分の足音だけがアスファルトに静かに響く。

アスファルトからは昼間の熱気がまだ、むっとした生温かさで立ち上り、首筋にまとわりついて離れない。

顔の左側、病院で貰った真っ白な眼帯の紐が、汗に濡れて頬の傷跡をかすめて、ちくちくと痒い。神様に持っていかれたあとの、中身のない暗がりに、夜の湿った風が染み込んでいくような気がした。

気がつくと、見たこともない大きな川のほとりにたどり着いていた。

そこには、夕闇のなかで黒くそびえ立つ、大きな古びた赤い水門。

その足元にある小さな公園の、ぽつんと置かれた木製のベンチに、こともは疲れ果てて腰を下ろした。

風が、ひゅう、と寂しく鳴った。

まとわりつくような夏の夜の湿気が、肌を刺すような冷気へとすりぬけていく。

じいじいと、耳の奥を掻きむしるように鳴き喚いていた蝉たちの声がいつの間にか途絶え、耳が痛くなるような静寂が、ゆっくりと降りてきた。

ピチャ……。

足元の、青臭い匂いのする夏草のなかからではなく、すぐ近くの川底から、どろりとした嫌な水音が這い上がってくる。

ドクン。

心臓がひっくり返るような音がした。

耳の奥で、自分の血の巡る音がうるさいくらいに鳴り響く。

残された右目の視界の端が、どろりとした赤黒い色に侵食されて、息がうまく吸えなくなる。

生臭い川の匂いに混じって、焦げたような、古い血の生暖かい匂いが、鼻腔の奥にへばりついて離れない。

水面を割って現れたのは、黒と赤のドロドロとした肉塊のような巨大な影だった。

それは、何本もの不気味な触手のような細い腕をずるずると蠢かせ、顔のどこが目とも口ともつかない異形を蠢かせている。

少女の知識では名前すらつけられない、夜の街そのものが膨れ上がったような不条理。

ただ、そこに存在するだけで、周囲の夏の空気が凍りつき、ちちりと肌が焼けるような拒絶の気配が満ちていく。

おぞましい一塊の影が、ベンチのちいさなこともを、じっと見下ろした。

つかまったら、おしまいだ。

頭のなかで、それだけが警報のように鳴り響く。

こともは怖くてたまらなくなり、両手でぎゅっと顔を覆って、ベンチの上で小さく丸まった。

白い眼帯の布ごしに、手のひらに自分の冷たい汗が伝わる。

カチ、カチ, と震える指が、無意味に懐中電灯のスイッチをいじり続ける。

カチ、カチ。闇のなかで、プラスチックの擦れる音だけが虚しく響く。

……けれど、いつまで経っても、冷たい手が伸びてきて身体を引き裂くような痛みは訪れない。

代わりに聞こえてきたのは、ぬちゃ、ぬちゃ、という、湿った泥が擦れるような、場違いに重い音だった。

恐る恐る右手の指のすきまから前を見ると、その巨躯は、ただ静かにベンチの前に佇んでいた。

何本もあるおぞましい触手のうちの一本が、地面に落ちている何かを、不器用にまさぐっている。

じっと見つめているうちに、こともは息をのんだ。

その怪異の、何本もある触手のような腕が、まるで酷い寒さに震えているかのように、かすかに、けれどずっと小刻みに揺れている。

それは、夜の暗闇のなかで、お姉ちゃんを呼んでも誰も答えてくれなかったときの、自分自身の身体の震えと同じだった。

どろどろとした悪意の奥から、言葉にならない、ただひたすらに冷たい、寂しさの塊のようなものが、じわりと伝ってくる。

こともは震える手で、ポケットをごそごそと探った。

出てきたのは、いつか道端で拾った、夕日にきらきら光るあかい小石。

立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。一歩進むたびに、地面を踏む靴の音が重く響く。

それでも、こともはベンチの真ん中に、その小石をそっと置いた。

「……これ、あげるね」

怪異の身体のあちこちが、ぎらりと赤さを増した。

ぐるりと何本もの触手が動き、威嚇するように空気を引き裂く。

こともはひっと息を詰め、思わず身すくめて右目を瞑った。

頭上を、ごう、と冷たい風が通り過ぎ、夏の草木がざわめく。

長い沈黙のあと。

おそるおそる目を開けると、異形の細い腕がゆっくりと下降し、ちいさな小石をそっと吸い上げるように拾うところだった。

それは、自分の宝物を壊さないように確かめるような、妙に丁寧な手つきだった。

怪異は、拾い上げた小石をじっと包み込んだあと、その巨体を震わせ、嬉そうに、あるいは哀しそうに、くぐもった奇妙な音を鳴らした。

遠くで、カラスがカァと鳴いて、街の街灯がひとつ、ぽつんと灯る。

赤い水門のベンチのうえ。

ふたつの静かな孤独が、寄り添うようにして、本当の夜を待っていた。

――だが、静寂は突如として破られた。

カサ、と背後の草むらが大きく揺れた。

怪異の幾十もの不気味な部位がいっせいに波打ち、飢えの混じった咆哮が、夜の帳を震わせる。

寂しさを共有したはずの存在が、一瞬で逃れられぬ死の災厄へと変貌し、無数の触手のような腕を振り上げてこともへ襲いかかった。

「ひっ……!」

本能的な恐怖がこともの身体を突き動かす。

汗ばんだ小さな手でポケットの奥をさぐり、握りしめたのは、家から持ってきた小さな紙包み。

こともは振り返りざま、包みをちぎって中身を思い切りぶち撒いた。

夜闇に白く弾けたのは、お清めの塩だった。

パラパラと塩の粒が怪異のドロドロとした身体に触れた瞬間、ジジジ、と肉が焼けるような不気味な音が響き、動きが一瞬だけ止まる。

その隙を逃さず、こともは涙と汗を流しながら、赤い水門の公園から全力で走り出した。

眼帯に隠された左側の死角から、ずるりと触手が伸びてくる気配がして、心臓が跳ね上がる。

背後からは、塩に焼かれながらも追ってくる地響きのような足音が、どこまでも追いかけてくる。

どこへ逃げればいいのか分からず、ただ暗闇の中をがむしゃらに駆け抜けていた、その時だった。

ワン、ワン!

遠くの闇の向こう、夜の重い空気の先から、聞き覚えのある、ちいさな犬の鳴き声が響いた。

それはずっと探していた、愛犬のポロの声にとてもよく似ていた。

「ポロ……?」

こともは涙で濡れた右目をそちらへ向け、声のする方角へと、迷わず足の向きを変えた。

背後から迫る恐ろしい地鳴りを振り切るように、懐中電灯の細い光を震わせながら、犬の鳴き声が響く、あのじめじめとした夜の奥底へと、こともは全力で走り去っていった。


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