鷹嶺ルイとデビデビ・るびるば様が添い寝するだけの話。

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もちもちたるもの

「……はぁ。だめだ、完全に文字が滑っている」

 

鷹嶺ルイは手元にある矩形の画面をソファへ投げ出すと、そのまま仰向けに天井を睨みつけた。

脳髄の裏側では、未だ整理のつかぬ大型企画の進行台本やら、他人の手による動画の絵コンテやら、明日の配信スケジュールとやらが、互いに押し合いへし合いして酷い渋滞を起こしている。「次、ルイ姉の番だよ」と声がかかれば、いつだって脊髄に針を刺されたように背筋を伸ばし、虚構のレンズに向かって微笑むことはできる。しかし、衆人の目を離れたスタジオの、この底なしに沈むソファに一度肉体を預けてしまうと、毛穴という毛穴から染み出してきた重い疲労が、容赦なく四肢を金縛りにかけた。もはや思考することを脳が拒絶している。ルイはただ、静かに瞼を閉じるよりほかに仕方がなかった。

 

時間を失った暗闇の中で、どのくらいが経過したか。カサ、と乾いた音が、部屋の微暗い隅から鼓膜を叩いた。

 

ルイはすぐには動かない。動けないのではない。音の主を脳内で識別するだけの、ごく僅かな秒単位の猶予を必要としたのである。

 

「……ぽこべぇ? ツッコミを待っているのなら、少し後にしてもらえると有り難いのだけれど」

 

重い皮膚をめくるようにして、数秒の遅れを伴ってどうにか眼を開く。だが、網膜の端に引っかかったのは、いつも見慣れたあの茶色い獣の輪郭ではなかった。

 

「人間! 吾輩を見てもてなさないとは不敬であるぞ。おい、美味い酒と、お菓子をよこすのる!」

 

短い両手を腰のあたりにぎゅっと当て、ぽんぽこりんに膨らんだ下腹をこれでもかと前に突き出してふんぞり返っている。玩具のような寸法であった。それなのに、生意気に張った胸元の上には、小さなツノと、何かしら禍々しい悪魔の翼がパタパタとせわしなく動いている。動画の平面的な画面の中で幾度となく目にした、あのデビデビ・るびるばという異界の悪魔が、何故か現実にそこに立って、催促するようにその奇妙な五体を左右にゆさゆさと揺らしているのだ。

 

一瞬の静寂。ルイの思考が停止し、そして次の瞬間、間のない濁流が彼女の口から決壊した。

 

「え、待って、何これ。本物……? え、無理、かわいい……っ」

 

ルイは両手を顔の横で硬く握り締めると、頭を縦に激しくぶんぶんと振り動かした。彼女の頭脳の中に飼われている冷静なプロデューサー人格が、「他社のライバーがなぜ我が社に」「そもそもこの部屋の鍵はどうなっているのか」と一瞬だけ警報の鐘を鳴らした。しかし、そんな社会人としての堅苦しい理性は、目の前にある圧倒的な愛くるしさを前にして、瞬く間に灰燼に帰してしまった。今はもう、大人としての義務も看板もすべて放り出して、この不可思議な生き物の温もりに救われたいという欲望の虜になっていた。

 

「お酒? ごめんね、今は手元にないんだぁ。それにしても、どうしてこんなところに迷い込んじゃったのかな。よしよし、怖くないよ。ルイ姉のところにおいで?」

 

ルイは両手を大きく広げると、上体をゆっくりと、あたかも壊れやすい硝子細工に触れるかのような歩度で折り曲げて、悪魔の小さな目線に自分の焦点を合わせた。

 

「なぁ! 話をきけ! 吾輩は恐ろしい悪魔……わわっ!? 何をするのる!」

 

間は、そこまでであった。ルイの肉体は、その時だけすべての疲労を忘れたかのように恐ろしく俊敏に動いた。床へ膝を突いたかと思うと、吸い寄せられるようにして、その小さな丸い胴体を両腕の中へとすくい上げたのである。

 

「あ、すごい。もちもちしてる。ねえ本当にどうしよう、これ」

 

「うぎゃーっ! もちもち言うな! 吾輩は硬くて恐ろしい悪魔の肉体……っ、わ、わわ、放すのる!」

 

腕の中で、悪魔が短い手足を平泳ぎのように、左右へ交互にジタバタと動かして必死の抵抗を試みる。ルイはその掌に伝わる弾力に、いっそだらしがないほど目尻を下げ、デビデビ様を胸元にきゅっと抱き抱えたまま、ソファの奥へと深く座り直した。腕の中にすっぽりと収まる、この絶妙な容積。布の塊のような柔らかさと、確かにそこにある生き物の体温が、皮膚を通じてダイレクトに胸の奥へと染み通ってくる。

 

「は、離すのる! 人間, 不敬であるぞ! 吾輩の恐ろしい魔力で今すぐ消し炭にして……」

 

「……おねがい。ちょっとだけ、このままでいさせて?」

 

ルイは悪魔の顔を覗き込むようにして、少しだけ顎を引いた。その声が、すっと一段低く沈む。深夜の密やかな配信で見せるような、吐息を孕んだ、弱音の滲むトーンであった。その響きの底にある本物の衰弱を、悪魔特有の嗅覚で察知したのか、デビデビ様はあれほどバタつかせていた手足をピタリと止め、丸い首をすくめた。気まずそうに、その大きな瞳だけをきょろきょろとあちこちへ泳がせている。

 

「……チッ。人間のくせに、だらしない奴め」

 

悪態をつきつつも、悪魔はもう暴れようとはせず、ルイの腕の中に大人しくその小さな質量を預けた。ルイは丸い頭のてっぺんに自分の顎をちょこんと乗せ、その愛おしさを確かめるように腕の力を一層強める。張り詰めていた脳の神経が、じわじわと解けていく快感があった。深く息を吸い込むと、上質な蜜のような甘い匂いの奥から、ほんのりと麦の酒に似た、渋くて大人の香りが鼻腔をくすぐった。

 

(あ、やっぱり本当にお酒を飲む悪魔様なんだ……たまらないなぁ、これ……)

 

「……吾輩はクッションではないのる。ふんす」

 

腕の中で、短い尻尾がルイの脇腹あたりをぺちぺちと遠慮がちに叩く。その冷ややかな感触さえ愛おしい。

 

「うん、知ってるよ。偉大なる、デビデビ様だもんね」

「ふん、分かればよろしい」

 

デビデビ様もルイのホールド感が実は心地よくなってきたのか、翼の羽ばたきをトントンと緩やかにさせた後、ルイの胸元に完全に頭を乗せて体重を預けてきた。

 

静寂に包まれたスタジオで、二人の呼吸が静かに重なる。時が止まったかのような緩やかな時の流れ。耳を澄ませば、ルイの腕の中から、微かに衣類が擦れるような、小さく、しかしひどく無防備な鼻息が、長い余韻を持って聞こえてきた。

 

「……すぅ……ぷしゅー……んむ、にゃ……っ、……おかわり、……ハイボール、こいめ、のるぅ……すぅ……」

 

舌足らずな、けれどどこか嬉しそうな寝言が、ルイの胸元へぽつりと溢れ落ちる。その余りに無警戒な悪魔の有様に、ルイの胸の奥は、形を失うほどに融解してしまった。トクトクと規則正しく刻まれる小さな心音が、ルイの心に深く刺さっていた日々のトゲを、一つずつ優しく抜いていくようだった。

 

どのくらい時間が流れたか。遠くの廊下から、「ルイ姉ー? どこー? 次リハだよー」と自分を呼ぶ若い声が微かに聞こえてきた。それは、冷酷な現実の世界へ引き戻される合図であった。寝言の主も、その声に小さく耳をピクリと震わせる。

 

「あ……いけない。寝ちゃってた。そろそろ、戻らなきゃ」

 

ルイが名残惜しそうに腕の力を緩めると、デビデビ様はトントンとソファのクッションの上に着地し、その勢いのまま、先ほどの寝言など無かったかのようにフンスと鼻を鳴らして短い胸を張った。

 

「ありがとう、デビデビ様。おかげですっごく元気が出ちゃった」

 

「ふんっ! 吾輩の広大なる慈悲に感謝するのる! ……じゃあな、人間」

 

デビデビ様がパチンと短い指を鳴らすと、彼の背後に空間の歪んだ裂け目が現れた。去り際、悪魔は振り返り、首を少し傾げてニヤリと鋭い牙を見せて笑う。

 

「また疲れたら、吾輩を呼び出すがいいのる。ただし、次は、お菓子を山ほど! それと美味いハイボールも用意しておくのるぞ!」

 

体を小さく左右に揺らしながらお酒を催促するその現金な動きに、ルイは思わず吹き出した。

 

「ふふ、約束ね。次はとびきり甘いケーキと、最高のお酒、用意して待ってるから」

 

ルイがひらひらと手を振ると、悪魔は満足そうに鼻を鳴らし、バタバタと翼を大きく動かして裂け目へと消えていった。

 

「よしっ!」

 

頬を両手でパンッと強く叩き、ルイはスタジオを飛び出した。腕に残った確かな温もりと、わずかに漂うウイスキーの香りが、すっかり軽くなった体を後押ししてくれる。これで今日の夜の配信も、全力で頑張れるはずだ。

 

「お待たせー! ごめんね、ちょっと迷子の悪魔のお相手をしてて……」

 

談話室に駆け込んだルイを迎えたのは、いつもの賑やかな歓迎の声ではなかった。集まっていたメンバーと、マネージャーが、全員一様に引きつった顔でルイを見つめている。部屋の空気が、まるで氷を詰め込んだように重い。

 

「あの、鷹嶺さん……」

 

マネージャーが無言のまま、手元にあるタブレットの画面をすっと突きつけてきた。間を置かぬ現実の提示であった。

「……え?」

画面に映し出されていたのは、数分前のスタジオの防犯カメラ映像であった。そこには、無人の寒々しいスタジオで、ルイが突然何もない空間に向かって、両手を顔の横でジタバタさせながら「かわいい……っ」と身悶えし、虚空をぎゅっと愛おしそうに抱きしめながら、幸せそうな恍惚の表情で眠りこけている、怪異とも言うべき映像が、一切の情緒なく淡々と流れていた。悪魔の姿も、空間の裂け目も、文明の利器には一切映っていなかったのだ。

 

みるみるうちに顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。画面の中の自分は、今見ても完全に「狂人」の挙動をしていた。理性が、音を立てて崩壊していく。

 

マネージャーが、腫れ物に触るような手つきで、ルイの肩をそっと叩いた。

「鷹嶺さん……最近、本当に忙しかったもんね。今日の配信、とりあえず休みにしよ? 病院の予約、今からルイ姉の代わりに取れるよ?」

 

「ち、違うの! みんな信じて! 本当にいたの! そこにもちもちの、ハイボール飲む悪魔がいたのぉーーっ!」

 

必死に首を前後に振って叫べば叫ぶほど、メンバーたちの視線には、深い哀れみの色が混ざっていく。ルイの恥ずかしさと絶望が入り混じった悲痛な叫び声は、事務所の廊下に、どこまでも虚しく響き渡るのだった。


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