『Fate/Zero -Anomaly Log---彼岸に落ちる二重螺旋』 作:りー037
リビングに漂っていた甘辛い醤油と和牛の脂の匂いも、換気扇の低い駆動音とともに少しずつ薄れ始めていた。
玉藻の前が腕によりをかけて作り上げた「すき焼き」は、間違いなく絶品と呼べる代物だった。特売で手に入れたというネギは熱を通されて甘くとろけ、絶妙な火加減で煮込まれた霜降りの牛肉は、口に入れた瞬間に溶けて消えるほどの柔らかさを誇っている。
陽の空っぽな精神構造の中に、「食」に対する強烈な執着や感動といったものは存在しない。しかし、肉体というフォーマットを維持するために必要な栄養素として、そして何より、自分を心配し、自分のために台所に立ってくれた神霊の心意気として、それは十分に五感を満たしてくれるものだった。
満腹感を覚えながら、陽は白く湯気の立ち込める浴室の鏡の前に立つ。
シャワーの温かい水流が、頭上から首筋、そして背中へと伝い落ちていく。タイルを叩く不規則な水音が、外界のノイズを遮断し、彼を深い内省の底へと沈み込ませていく。
曇った鏡面を手のひらで無造作に拭う。
そこに映し出されたのは、水滴に濡れた黒髪と、どこまでも平坦で感情の色を持たない、極めて凡庸な少年の顔。
(……今日は、色々なことがあった)
陽は、シャワーの湯を浴びながら、この数時間で起きた出来事をゆっくりと脳内で反芻した。
暗示にかけられ、路地裏へと誘い込まれたこと。
聖杯戦争の枠を奪おうとする、三人の魔術師たちからの明確な殺意。
それに対する、自らの力の行使。
自らの起源と、異常な体質。それらが眼と共鳴することで引き起こされた、魔術のセオリーを根底から粉砕するデタラメな事象の数々。
陽は、自分の右手のひらをじっと見つめた。
人を殺したという感触は、一切ない。肉を斬り裂いた生々しい感覚も、命を奪ったことに対する手の震えもない。ただ、空間の境界線をなぞり、結果を現実にダウンロードしただけ。
それだけで、人はあまりにも呆気なく、壊れたおもちゃのように機能を停止した。
そして何より、陽の思考を深く支配しているのは、その『後』の出来事だった。
彼の倫理観が弾き出した模造の罪悪感。
それを解消するために、彼は世界の裏側のさらに奥――『彼岸』へと渡ろうとする魔術師たちの魂の霧散を観測し、それをナイフという楔で現世側に縫い留めた。
結果として起きたのは、肉体の逆行。死という絶対の因果の取り消し。世界そのものが、陽の引き起こした矛盾を解消するために辻褄合わせを行ったのだ。
さらに自分を、深く知った。
自らの力が及ぶ範囲、その拡張の果て。実戦という極限状態での検証結果は、陽という存在が、もはや完全な「人間」の枠組みから半歩はみ出し始めていることを明確に示している。
(……一体、自分はどこへ向かうのだろうか)
シャワーの栓を捻り、湯を止める。
静寂が戻った浴室で、陽は天井を見上げた。
着地点は、どこにあるのか。自分がこのまま人間から逸脱し、ただ境界線を観測し続けるだけの無機質なシステムへと変質してしまったとして、その先に何が待っているのか。
それはまだ、陽自身にも分からない。
恐怖はなく。焦燥もなく。
ただ、あの虚数の底、生と死が混ざり合う境界線に触れた瞬間の、あの圧倒的な『深淵』の手触りだけが、網膜の裏側にこびりついて離れない。
もっと深く知りたい。もっと遠くを観測したい。
今はただ、この心地のいい没入感に、静かに身をやつしていたかった。
*
脱衣所で髪をタオルで拭き、ゆったりとした部屋着に着替えてリビングに戻った時。
「――マスター!!」
キッチンの後片付けをしていたはずの玉藻の前が、少し慌てたような、しかしどこか研ぎ澄まされた緊迫感を纏って、陽の元へと駆け寄ってきた。
彼女の琥珀色の瞳は鋭く見開かれ、ピンと立った狐の耳が、見えない電波を受信するように細かく震えている。
「どうしたの? キャスター。何かあった?」
「はい。街中に広げておいた式神の一体が、特大の魔力反応を感知しました。それも、通常の魔術師の戦闘などとは比較にならない、極大の……!」
彼女の言葉に、陽はタオルを持った手を止めた。
極大の魔力反応。それはすなわち、この冬木市において人外の領域にある者たちが、ついに激突を開始したという合図に他ならない。
「なるほど。ついに始まったのか」
聖杯戦争の真の幕開け。英霊という、過去の歴史に名を刻んだ伝説の存在同士の殺し合い。
「視覚を共有したところ、間違いなく英霊同士がやり合っているようです」
「その式神の視界って、俺も見える?」
「はい、問題ありません。少しパスを繋ぎますね」
玉藻の前はそう言うと、陽の額にそっと白く細い指先を触れた。
彼女の指先から、微弱な呪いが陽の疑似魔術回路へと流れ込んでくる。次の瞬間、陽の視界の隅に、まるでテレビのワイプ画面のように、別の場所の光景がノイズ混じりに浮かび上がった。
コンテナが規則正しく積み上げられた、無機質で広大なアスファルトの空間。
そこに、二つの人影が対峙していた。
一人は、銀色の甲冑を纏い、不可視の剣を構えた小柄な騎士。
もう一人は、二本の長槍を携え、不敵な笑みを浮かべる長身の男。
(……あの時、カフェで鉢合わせたサーヴァントだ)
陽は、式神の視界越しに、セイバーとランサーの姿を確認した。
視界の解像度はそれほど高くない。しかし、画面越しであっても、彼らが放っている魔力の密度と、空間そのものを圧迫するような凄まじい威圧感は、十分に伝わってきた。
「凄まじいな。これが、英霊同士の戦いか」
「はい。かなりの技量の戦士たちです。その武器と出で立ちからして、おそらくセイバーとランサーのクラスでしょう」
玉藻の前も、式神からの情報を分析しながら感心したように頷く。
画面の中では、互いの戦士としての技量と誇りを確かめ合うかのように、剣と槍が火花を散らして激突し始めている。
見えない剣が空気を切り裂く轟音。それを紙一重で躱し、長槍が必殺の軌道を描いて突き出される。
その圧倒的な速度と破壊力は、通常の人間であれば目で追うことすら不可能な領域だ。式神の視界の端に映る銀髪の女性も、その常軌を逸した死闘を前に、冷や汗を流しながら祈るように両手を握りしめているのが見て取れる。
「ちなみに、ここはどこだ? コンテナのような物が密集しているが、郊外か?」
「未遠川の河口付近にある、大規模な倉庫街ですね。ここからだと、少し距離がありますが……夜間で人目がないため、彼らはあそこを決戦の場に選んだのでしょう」
聖杯戦争の幕を開ける、華麗にして凄惨な戦闘。
二人は、リビングの真ん中で立ち尽くしたまま、しばらくの間、式神越しにその激闘を静かに眺めていた。
「とりあえず、ここからであれば安全に彼らの戦力や宝具の情報は収集できます。このままこの安全地帯で敵を観察しつつ、今後の立ち回りを決めるのが最善かと……マスター?」
彼女がそう言い終わるよりも早く。
陽は、手に持っていたタオルをソファに放り投げ、ハンガーにかかっていたトレンチコートを掴み取っていた。
「よし、行こう」
「…………え、はい?」
彼女は、コートの袖に腕を通し、外出の準備を整えようとしている陽の姿を、信じられないものを見るような目で見つめる。
「ちょっと、マスター!? 『行こう』って、どこにですか!?」
「どこって、あの倉庫街だよ。もっと近くで見たい。」
「いやいやいやいや! おかしいです! 絶対におかしいです! なんでここで安全に状況を把握できるのに、わざわざサーヴァント同士が殺し合いをしているど真ん中の危険地帯に赴こうとするんですかっ!?」
彼女は、陽の進路を塞ぐように慌てて回り込み、バンバンと手を振り回しながら問い詰めた。
当然の反応だ。魔術師が、神話の英雄たちの戦場に丸腰で近づくなど、飛んで火に入る夏の虫以下の自殺行為である。
「んー。なんとなく、そうしたいから」
しかし、陽から返ってきたのは、あまりにもふんわりとした、全く論理的ではない答え。
自暴自棄になっているわけではない。何らかの遠大な策があるわけでもない。
ただ、彼の深淵の底が、式神越しの劣化した映像情報では満足できず、生の神秘現象を至近距離で観測したいと、強烈に欲求しているのだ。
「なんとなくで英霊の戦場に突っ込む人間がどこにいますか! ダメです、絶対にダメです! 今日はもうあれだけ危険な目に遭ったばかりじゃないですか!」
玉藻の前は、必死に言葉を並べて説得を試みる。
このマスターには今日一日で何度も驚かされてきたが、やはり精神構造が根本的におかしい。いや、かなりおかしい。危険に対するストッパーが完全に壊れている。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃありません! 死に急ぐような真似は……!」
「俺が見たいんだ」
陽のトーンは、どこまでも平坦で、穏やか。
だが、その漆黒の瞳の奥にある「一度決めたら絶対に曲げない」という静かな頑固さに、玉藻の前は言葉を詰まらせた。
この人は、何を言っても流されてしまう。自分が物理的に縛り付けない限り、一人ででもあの危険地帯に向かってしまうだろう。
「……はぁぁ」
彼女は、まるで全身の骨を抜かれたようにへなへなと肩を落とし、深いため息を吐いた。
このマスターはもうダメだ。早くなんとかしないと。しっかりと手綱を握らなければ、いつか本当に取り返しのつかない場所へ消えていってしまう。
そう思いつつも、彼女は陽を見捨てることなど絶対にできなかった。
「……仕方ないですね。私がついていなければ、本当にどこで野垂れ死ぬか分かったものじゃありませんし」
「ありがとう、キャスター」
「分かりましたよ。行けばいいんでしょう、行けば」
玉藻の前は、ふてくされたように唇を尖らせ、陽の腕にぴとっと身を寄せた。
「……こんな風に文句を言いながらも命がけで寄り添ってくれるいい女、世界中探しても私くらいしかいないんですからね! しっかり感謝してくださいよ!」
「ああ。本当に助かるよ」
陽は、文句を言いながらも外出の準備を始める彼女の背中に、ほんの少しの偽りない感謝の言葉を投げかけた。
コートのポケットにある、冷たいサバイバルナイフの感触を確かめる。
これから始まる、未知なる戦闘の観測。陽の空っぽの胸の奥で、微かな高揚感が静かに脈打っていた。
*
夜の冬木市は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
街灯のオレンジ色の光が、人気のないアスファルトを等間隔に照らしている。未遠川の方角から吹いてくる潮風は冷たく、秋の深まりを感じさせる。
目的地の倉庫街へ向かう道中、陽と玉藻の前は、しっかりと手を繋いで並んで歩く。
陽の体温は少し低く、玉藻の前の手は柔らかく温かい。その温度差が、二人の存在の『ズレ』を象徴しているかのようだった。
「マスター」
繋いだ手を小さく上下に揺らしながら、玉藻の前が探るような視線を向けてくる。
「向かうのはよろしいんですけど。……もしかして、あの二人の戦闘に、物理的に介入するつもりですか?」
彼女の声には、微かな怯えが混じっている。
普通の人間であれば、絶対に「ない」と言い切れる。しかし、目の前にいるこの常識外れの少年は、自分の好奇心を満たすためであれば、平気で英霊の間に割って入り、斬撃を放ちかねない。そんな底知れぬ凄みを、彼女は肌で感じ取っていた。
「まあ、そうだね。それもいいとは思うけど……あくまで状況次第かな。別に、こちらから進んで戦闘がしたいわけじゃないから」
陽は、ポケットの中でナイフの柄をもてあそびながら、淡々と答えた。
その言葉に、玉藻の前は「ふぅ」と小さく息を吐いて安堵する。少なくとも、到着した瞬間に強制介入をバリバリ仕掛けるような、無差別なテロリスト的思考ではないことが分かっただけでもマシだろう。
「キャスター」
歩みを進めながら、陽はふと思い出したように首を傾げた。
「そういえば、一つ聞きたいことがあってさ」
「なんですか?」
「サーヴァントには、『宝具』っていう、必殺の奥義のようなものがあるんだよね」
唐突な質問に、玉藻の前は少しだけ目を瞬かせた後、こくりと頷いた。
「はい。宝具とは、その英霊が過去の生涯で築き上げた伝説や逸話、彼らの存在そのものの結晶とも言える概念武装です。現代の魔術師が扱ういかなる神秘と比較しても、桁違いの威力と法則を持っています。いわば、霊的な『戦略兵器』と言っても過言ではないでしょう」
「そうか」
陽は、空を見上げながらひとりごつ。
式神越しでは、世界の裏側の位相までを完全に読み取れなかったため分からなかったが。あそこで激しく打ち合っているセイバーの見えない剣や、ランサーの紅と黄の二本の槍。
「あそこで戦闘している二人のサーヴァントが持つあの武器。あれらも、宝具なのか?」
「断定はできませんが、十中八九そうでしょう。式神の劣化した知覚越しでも、圧倒的な格の神秘を肌で感じます。特に、あのセイバーの『見えない剣』は、風の魔術か何かで刀身を隠しているようですが……凄まじい密度の魔力を帯びた、強力なものです」
「なるほど」
陽は、静かに頷き、話題を切り替えるようにキャスターの顔を見た。
「そういえば。キャスターもサーヴァントなら、当然宝具を持ってるんだよね?」
「――ええっ、もちろんですとも!」
その問いに、玉藻の前はパッと顔を輝かせ、ピンと狐耳を立てて元気よく答えた。
陽は内心で、「まあ、そうだろうな」と思いつつ、同時に少しだけ自己嫌悪に近い反省を覚える。
本来であれば、召喚した初日に、真っ先に把握しておくべき絶対的な前提情報だ。マスターとして、自陣営の最大戦力を確認しないなど、あり得ない怠慢である。
召喚してからの数日間。陽は、自分のことで手一杯だった。
自らの体質の検証。現代社会における生活基盤の維持。そして、自分の起源の赴くままに世界の境界線を観測すること。
聖杯戦争に勝ち抜きたいという野望も薄く、自分の身を守りたいという執着も薄い。そんな空っぽな状態だったからこそ、戦力の確認という最も重要なプロセスをすっぽりと抜け落としていたのだ。
(……視野が狭くなっているな。良くない、良くない)
陽は、心の中で軽く首を振った。
だからこそ、彼はこの移動時間を有意義に使い、自らのサーヴァントの能力を正確に把握しようと思ったのだ。
「キャスターの宝具って、どんなの?」
本来真っ先にするべき質問を、今更になって行う。我ながらおかしなマスターだなと、陽は微かに苦笑いしながら尋ねた。
しかし、玉藻の前は陽が自分に強い関心を向けてくれたことが嬉しかったのか、繋いだ手をギュッと握り返し、得意げに胸を張ってその詳細を語り始めた。
「フフン、よくぞ聞いてくれました! 私の宝具は『水天日光天照八野鎮石』。私自身の象徴である鏡、『玉藻鎮石』という神宝を一時的に解放したものです」
「神宝か」
「はい。出雲にて祀られていた、武日照命が天より持ち帰ったという伝説の神宝であり、出雲大神の神体そのものです。これを解放することで、呪詛によって常世の理を一時的に遮断し、呪術行使のコストを完全に無くす特級の結界を張り巡らせます」
彼女の説明は、淀みなく続く。
「結界内においては、私への無限の魔力供給が行われ、ありとあらゆる呪術を息をするようにノーモーションで連発できるようになります。いわば、私という神霊を一時的に完全な状態へと押し上げる、神域の陣地作成ですね!」
「……それは、とんでもないな」
魔力コストゼロでの無限供給。それは、魔術戦において圧倒的なアドバンテージを意味する。
「ええ! すごいでしょ? ……まぁ、普段は消費が激しいので、割と頑丈なスーパー鈍器として物理攻撃に活用しているんですが」
「鈍器なんだ」
「てへっ☆」
ハハハッと悪びれずに笑い、舌を出しておどける彼女を見て、陽は呆れるどころか、その奥底に眠る圧倒的な神秘の深さを改めて実感した。
普段のふんわりとした良妻気取りの態度からは想像もつかないが、やはり彼女も、人智を凌駕した圧倒的な超越存在なのだ。
「頼りになるね。本当に」
「えへへ、もっと褒めてくれてもいいんですよ? 旦那様のために、この身を粉にして尽くしますから!」
陽は軽く笑い、玉藻の前の温かい手に引かれるようにして、夜の街をさらに奥へと進んでいった。
*
潮の香りが、一段と濃くなる。
巨大なクレーン群と、無数に積まれた鉄のコンテナが、要塞のようにそびえ立つ未遠川の倉庫街。その外縁部に、二人は到着した。
風に乗って、鋭い金属音と、空気が爆発するような重低音が、ズン、ズンと響いてくる。すぐ数百メートル先で、英霊たちの死闘が今まさに繰り広げられている証拠だった。
「じゃあ、もっと近くに行こうか」
「ダァーメーでーすっ!」
玉藻の前が、陽のコートの裾を両手でガシッと掴み、体重をかけて必死に引き止めた。
「マスター! いやいや、近づきすぎてはダメです! これ以上大胆に踏み込んでは、バレちゃいますよ!」
「そうかな。気配は消せると思うけど」
「過信は禁物です! 眺めるんだったら、せめて少し距離を取りましょう!……まったく、私自身がストッパーにならないと、本当にあの剣と槍の間に挟まりにいきかねないんですから!」
彼女は、陽をこれ以上進ませまいと、必死の形相で真っ当すぎる提案をしてきた。
彼の特異体質は強力だが、英霊の持つ『直感』や、極限の探知能力を甘く見てはいけない。
その真剣な訴えに、陽も足を止めた。
「確かに、そうだな。英霊の感覚は侮れないだろうし。……少し、慎重になった方がいいか」
「は、はいっ! そうです、慎重第一です!」
戦うつもりはないとは言っていたが、いつあの虚数の扉を開いて突撃するのかと、彼女の心臓は常にハラハラしっぱなしだ。
まさに、話の全く通じないバーサーカーと対話しているような疲労感を覚えつつも、彼女は陽の手を引き、より見晴らしの良い、そして安全な場所へと先導する。
「向こうの高いクレーンの足場から眺めましょう。マスターの異常な知覚と、私の式神の視界が組み合わされば、そこからでも十分に観測できるはずです」
「そうだね。では、移動しようか」
*
二人は、戦闘の中心地からそれなりの距離を保ちつつも、戦場全体を俯瞰できる高い足場へと身を潜めた。
「マスター。念には念を入れますよ」
玉藻の前は、陽の手を強く握りしめたまま、術式を静かに展開し始めた。
「私の呪術と、マスターの魔術を組み合わせて、完全な隠蔽を行います」
《可変存在解像度》。自らの存在座標を、現実世界から虚数空間へと沈み込ませる隠密技法。
しかし、あまり深く沈み込みすぎると、手を繋いでいる玉藻の前にまで虚数の引力が影響してしまう可能性を考慮し、陽はあえて微弱に、自分たちの輪郭を薄く設定した。
それだけでも、アサシンクラスの『気配遮断』スキルに匹敵する、圧倒的な隠密効果を発揮する。
さらにそこに、玉藻の前が編み上げた呪術の結界――光の屈折、音の遮断、魔力の隠蔽が幾重にも重なり合う。
二人の力が組み合わさることで、そこには「何人たりとも踏み入ることができない、絶対不可侵の観測所」が完成した。世界から完全に切り離された、透明な特等席。
「……どうですか、マスター。何か問題はありませんか?」
「完璧だ」
陽は、繋いだ手の温もりを確かめながら、極彩色の虹色の瞳を静かに見開いた。
「大丈夫だよ。観測を開始する」
陽の眼が、暗闇の中で妖しく明滅する。
物理的な距離も、積み上げられたコンテナの遮蔽物も、彼にとってはもはや何の意味も持たない。
現実世界の裏側に重なる、深い暗黒の虚数空間。そこを経由して、陽の視界は、眼下で繰り広げられる狂気の祭典の全貌を、残酷なまでに丸裸にしていくのだった。
*
陽の瞳が極彩色の虹色に明滅し、虚属性との異常共鳴を引き起こす。
――《虚構の観測者(イマジナリー・オブザーバー)》。
現実世界の物理法則や遮蔽物を一切無視し、世界をその裏側の『虚数の位相』から透かし見る、極端な観測者としての視覚。
陽の眼には今、暗闇に沈む巨大な倉庫街の全容が、まるで精密なレントゲン写真、もしくは魔力の色で塗り分けられたサーモグラフィーのようにハッキリと映し出されていた。
(……まずは、周囲の観測を)
眼下の広場では、銀の騎士と双槍の男が火花を散らしている。だが、陽は彼らの死闘に意識を向ける前に、この空間全体に潜む「異物」の配置を把握することに努めた。
この異常な魔力衝突が起きている場に、彼ら二人しかいないはずがない。
視界のピントを広域に合わせる。
すると、厚い鉄のコンテナや、遠く離れた別のクレーンの陰に、いくつもの『熱源』が点在しているのが容易に見て取れた。
まず一つ。ランサーの後方、倉庫の屋上の暗がりに潜む、魔術回路を煌々と輝かせた金髪の男。
身なりが良く、どこか自信に満ちたオーラを放っている。ランサーと太い魔力のパスが繋がっていることから、彼がマスターで間違いないだろう。
次いで、広場を挟んで反対側。さらに遠方の高いクレーンの上。
そこに、銃器のようなものを構えた男女の姿がある。彼らの魔術回路の動きは微弱だが、その殺気と訓練された冷徹さは、魔術師というよりは暗殺者のそれに近い。
そして、最後。
戦場を見下ろす高い鉄塔の骨組みの間に、周囲の景色に完全に溶け込んでいる『黒い装束に仮面をつけたサーヴァント』の姿があった。
息を潜め、一切の魔力を断ち切って気配を殺している。だが、存在の裏側から丸裸にする陽の眼には、その不気味な骸骨の仮面がハッキリと見えていた。
「キャスター。……周囲に複数の人間と、サーヴァントが潜んでいる」
「えっ?」
「ランサーのマスターと思われる男。遠くから銃を構えている男女。それと……高い鉄塔に、黒い装束の仮面をつけたサーヴァント」
陽が、手元のスマートフォンの画面を読み上げるような淡々としたトーンで情報を伝達すると、玉藻の前は息を呑んだ。
「一瞬で、そこまで……っ! 凄まじい観測力です」
彼女は驚愕しながらも、即座に陽の情報を分析し始める。
「やはり、他の陣営たちも介入してきますか。目の前の英霊二人だけではなく、いつ背後から狙ってくるか分からないアサシンに最大限の警戒をしておかなければなりませんね」
「そうだね」
陽は同意しつつも、彼の注意を最も惹きつけていたのは、暗殺者の存在ではなかった。
改めて、広場に立つ美しい銀髪の女性――アイリスフィールと、セイバーを冷静に分析する。
(ん?……これは)
陽の眼には、サーヴァントとマスターを繋ぐ『魔力供給のパス』が可視化されている。
ランサーのパスは、明確に屋上の金髪の男へと繋がっていた。
しかし、セイバーとあの白髪のホムンクルスの間には、パスが繋がっていない。いや、真の魔力供給源は彼女ではないような。
セイバーのパスの太い根源は、別のどこかへと伸びているような気がする。
(白い彼女は、マスターじゃないのか。……いや、内部を深く見すぎるのは危険だな)
陽は、それ以上の解析を自制した。
玉藻の前の呪術と合わさった絶対不可侵を展開している以上、こちらの気配が悟られる可能性は極めて低い。だが、英霊という格の高い神秘の「内面」まで強引に覗き込めば、見られているという『視線』の感触だけで相手に異常を察知される危険性があった。
こちらの正確な位置までは分からないだろうが、無用な警戒を煽る必要はない。あえて表面をなぞるだけにとどめ、陽は慎重に慎重を重ねて視界を戦場の中心へと戻す。
「……圧倒的な、神秘だ」
裏側の視界に映るセイバーとランサーの激突は、式神の映像とは全く次元が違った。
キャスターである玉藻の前に匹敵するレベルの、圧倒的な神秘の濃度。
彼らが武器を交えるたびに、色のついた莫大な魔力がパチパチと明滅し、空間を削り取るように弾け狂っている。
セイバーの踏み込み一つでアスファルトがクレーターのように陥没し、ランサーの槍が空気を切り裂くたびに、真空の刃が周囲のコンテナをバターのように両断していく。
「ええ。凄まじい剣戟です」
玉藻の前も、陽と繋いだ手をきつく握りしめながら同意した。
現代を生きる者たち、たとえ一流の魔術師であったとしても、その目で捉え、見極めることすら不可能な神域の武。
だが、陽の極彩色に明滅する眼は、視覚を魔術で強化するまでもなく、その常軌を逸した超音速の動きのすべてを、コマ送りのように正確に目で追うことができている。
『――セイバー。その太刀筋、見切ったぞ!』
広場の下から、ランサーの野性的な声が響く。
彼はセイバーの『見えない剣』の刀身の長さを正確に測り切り、紅い槍の封印を解いて見せた。
「あのランサー、凄いな。不可視の武器を相手にして、一切の淀みがない」
陽が呟く傍らで、アイリスフィールが祈るように両手を組み合わせ、青ざめた顔で戦いを見守っているのが見える。冷や汗が彼女の白い頬を伝い落ちる。マスターの代理として振る舞いながらも、目の前で繰り広げられる死闘のプレッシャーは、彼女の精神を限界まで削り取っていた。
『その風の鞘、我が槍の前に何の意味も成さぬと知れ!』
ランサーの紅い槍が、セイバーの防御を掻い潜り、彼女の風王結界を紙切れのように切り裂いていく。
魔力によって編み上げられた防御を、完全に無効化する刃。
彼はセイバーの渾身の一撃を紙一重で躱すと同時に、足元に突き立てていた長い方の槍――『黄薔薇』を蹴り上げ、セイバーの無防備な左腕へと突き入れた。
『――シィッ!』
『くっ……!』
鮮血が舞う。
セイバーの左腕の銀の甲冑が砕け、肉が裂ける。
致命傷ではない。セイバーであれば、自らの魔力、あるいはアイリスフィールの治癒魔術によって即座に塞がる程度の傷のはずだ。
しかし、アイリスフィールが治癒魔術の詠唱を終えても、セイバーの腕から流れる血は止まる気配がなかった。
「……なるほど。そういうことか」
傷そのものが深いのではない。あのランサーが持つ『黄色の長槍』そのものが、異常な呪いの法則を纏っているのだ。
「あの黄色の槍、治癒を根底から阻害する呪いが付与されている」
「治癒不可の呪詛……! 厄介ですね」
左腕の腱を切られたセイバーは、両手で剣を振るうことができない。騎士にとって、それは致命的な戦力低下を意味していた。
盤面は、完全にランサーへと傾いた。勝利を確信したランサーが、セイバーへ止めを刺すべく槍を構え直す。
勝負が決する。誰もがそう思った、その時だった。
「……ん?」
陽の感覚が、上空からとてつもない速度でこちらへと突っ込んでくる、莫大な気配を捉えた。
「キャスター、警戒して。何かが来る」
「え……? 敵襲ですか!?」
「いや。方角は俺たちのいる場所じゃない。……セイバーたちの戦っている、中心地だ」
陽が視線を上空へ向けた次の瞬間。
――ゴロゴロゴロォォォォォンッ!!
雲一つない夜空に、突如として耳を劈くような雷鳴が轟いた。
それは自然の落雷などではない。紫電を纏い、空を駆け抜けてくる『何か』が放つ、圧倒的な神威の顕現。
「な、なんですかあれは……!」
玉藻の前が目を丸くする。
稲妻を撒き散らしながら、上空から猛スピードで降下してきたのは、二頭の屈強な神牛に引かれた古代の戦車(チャリオット)だった。
その巨大な戦車が、セイバーとランサーの間に割り込むようにして、凄まじい衝撃とともに広場のアスファルトへと着弾する。
ズガァァァァァァンッ!!
着弾の衝撃波で、周囲のコンテナがひしゃげ、アスファルトの破片が散弾のように飛び散る。
セイバーとランサーは、突如として乱入してきたその圧倒的な存在に、驚愕とともに距離を取り、武器を構え直した。アイリスフィールも、突然の雷鳴に目を白黒させている。
土煙が晴れた戦車の上。
そこには、筋骨隆々とした赤毛の巨漢が、豪放磊落な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。彼の放つ圧倒的な「生への渇望」と「王としての熱量」が、ピリピリとした死闘の空気を強引に塗り潰し、広場全体を支配していく。
『双方、剣を納めよ! 王の前であるぞ!』
巨漢の英霊は、よく通る巨大な声で、周囲に隠れ潜むすべての者たちへ向けて高らかに宣言した。
そして。
『我が名は征服王イスカンダル! 此度の聖杯戦争においては、ライダーのクラスを得て現界した!』
その言葉が響き渡った瞬間。
広場にいたセイバーやランサーだけでなく、遠くで観測していた切嗣も、屋上のケイネスも、そして隣にいる玉藻の前すらも、完全に思考が停止した。
「……は?」
「な……に?」
聖杯戦争において、自らの真名を明かすことは、自らの弱点や宝具を敵に教えてしまうに等しい、最大のタブーである。
それを、いきなり現れたかと思えば、何の躊躇いもなく堂々と叫び始めたのだ。
「何か、作戦でもあるのでしょうか……?」
玉藻の前が、混乱しつつも必死に思考を巡らせる。
「わざと真名を明かすことで相手を誘い込む罠か、あるいは、あの宣言そのものが偽りであり、真のクラスは別にあるという心理戦……? だとしたら」
「いや」
どこまでも冷静に深読みしようとする彼女の推測を、陽の平坦な声があっさりと遮る。
『なななな、何を考えてやがりますかァァァァッ!? この馬鹿はぁッッッ!!』
戦車の隅っこにへばりついていた、ひ弱そうな少年――ライダーのマスターと思われる男が、涙目でライダーの大きな背中をポカポカと叩きながら、この世の終わりのような絶叫を響かせた。
マスター自身が、自らのサーヴァントの行動に完全にパニックを起こしている。その光景は、もはや喜劇以外の何物でもない。
「……これ、サーヴァントの暴走だ」
陽は、自分の存在が世界からズレているという『現実感のなさ』を抱えたまま、目の前で繰り広げられる伝説の英雄たちのドタバタ劇を眺める。
高度な心理戦でも、罠でもない。
あの巨漢の王は、ただ自分の名乗りたいように名乗り、やりたいようにやっているだけだ。
その圧倒的すぎる「自我」の塊。生への熱量。
陽の空っぽの器に、それは到底理解できないほど眩しく、そして同時に、観測対象として極めて興味深い『バグ』のように映った。
混沌を極め始めた聖杯戦争の真の幕開け。
陽は、自らの本能の赴くまま、世界から切り離された絶対不可侵の領域で、その狂気と熱情の祭典をただ静かに、心地よさそうに見下ろし続けていた。
次回
【征服王の勧誘と、傲慢なる顕現、そして狂気を追跡する彼岸の瞳】