佐倉愛里が見ていた世界   作:EXTERMINATION

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最終話 佐倉愛里が見ていた世界

1月。

高度育成高等学校には、冬休み前特有の静かな空気が流れていた。

 

窓の外では、冷たい風がグラウンドを吹き抜けている。

吐く息は白い。

夕方になると、校舎の廊下は急に冷え込んだ。

 

けれど、第三準備室だけは、どこか少し暖かかった。

 

グラビアアイドル部を立ち上げてから、一年。

 

最初は、ただ勢いだけだった。

 

でも今は違う。

 

机。

照明。

壁いっぱいの写真。

積み重なった活動記録。

放課後の笑い声。

 

その全部が、この部屋へちゃんと残っている。

 

冬の夕陽が窓から差し込む。

 

少し赤い光。

静かな空気。

 

そして――

 

もうすぐ終わる高校生活。

 

その時間を噛み締めるみたいに、長谷部波瑠加はゆっくり部室を見回していた。

 

騒がしくないわけではない。

 

一之瀬帆波と松下千秋は窓際で何か話している。

三宅明人はカメラデータを整理している。

幸村輝彦はノートへ活動記録を書いていた。

櫛田桔梗は机へ頬杖をつきながら携帯を見ている。

星之宮知恵は、いつものようにソファでだらけていた。

 

でも、どこか空気が落ち着いていた。

気付けば、この部屋はちゃんと部室になっていた。

 

長谷部は小さく笑う。

 

「……なんか、ここ寒いのに落ち着くんだよね」

 

その言葉に、一之瀬が柔らかく笑った。

 

「分かるかも」

 

松下も頷く。

 

「もう完全に居場所よね」

 

その時だった。

 

「じゃあ今日はさ」

 

三宅が急に顔を上げる。

 

嫌な予感。

長谷部が目を細める。

 

「何」

 

三宅は普通に言った。

 

「最初の写真、見返さないか?」

 

部室が少し静かになる。

長谷部は思わず壁を見る。

そこには、活動初期の写真が貼られていた。

 

窓際で固まっている自分。

ぎこちない集合写真。

茶道部で足が痺れて死にそうな顔。

 

桜の下。

夕焼けの帰り道。

プール。

 

そして。

 

少しずつ増えていった、今の自分たち。

 

長谷部は小さく息を吐く。

 

「……なんか恥ずかしいんだけど」

「いいからいいから」

 

星之宮が手を叩く。

 

「青春は振り返る時が一番楽しいの!」

「ほしみーの青春論ふわっとしてるよね」

 

だが誰も反対しなかった。

 

三宅がカメラデータを開く。

最初の頃の写真。

 

そこには、今とは全然違う長谷部波瑠加がいた。

 

肩が固い。

 

視線が逃げている。

 

笑えていない。

 

長谷部は思わず顔を覆う。

 

「うわぁぁぁ……」

 

部室に笑いが広がる。

 

一之瀬が苦笑した。

 

「最初、本当に緊張してたよね」

「してたっていうか、もう逃げたかったし……」

 

長谷部が呻く。

櫛田が小さく笑う。

 

「窓際で固まってたもんね」

「キョーちゃんも似たようなもんだったでしょ」

 

櫛田が少し止まる。

 

その呼び方。

今では、もう自然に出るようになっていた。

長谷部自身、それに少し驚いている。

完全に元通りになったわけじゃない。

 

でも前みたいに、名前を呼ぶのが怖くなくなっていた。

櫛田は少し照れたように笑う。

 

「まあ……ちょっとはね」

 

その空気を見ながら、一之瀬が嬉しそうに目を細めていた。

 

三宅が写真を次々切り替えていく。

 

バスケ部一日体験。

体育館で汗だくになって床へ座り込んでいる長谷部。

隣では櫛田も完全に疲弊していた。

 

須藤健だけが元気だった。

 

『止まんな!!』

 

そんな声まで思い出せそうだった。

長谷部が思わず呻く。

 

「うわぁ……これ地獄だった……」

 

三宅が吹き出す。

 

「波瑠加、最後ほぼ死んでたからな」

「だって須藤くんが鬼だったんだもん……」

 

幸村も静かに頷く。

 

「翌日の筋肉痛も酷かったな」

「ゆきむー階段降りる時めちゃくちゃ変な歩き方してたよね」

「……否定はしない」

 

部室に笑い声が広がる。

 

だが長谷部はその写真を見ながら少しだけ思う。

 

あの日初めて、自分の身体を見られるものじゃなく、動くものとして考えられた。

その感覚は、今でもちゃんと残っている。

 

次の写真。

 

茶道部。

畳。

正座。

そして苦い顔。

 

長谷部が机へ突っ伏す。

 

「やめてこれぇぇぇ……!!」

 

写真の中の長谷部は、完全に顔をしかめながら抹茶を飲んでいた。

隣では櫛田も微妙な顔。

その一方で、一之瀬と松下は普通に飲んでいる。

ひよりだけが、穏やかに笑っていた。

 

一之瀬が思い出したように笑う。

 

「長谷部さん、苦っ……って本当に顔に出てたよね」

「だって苦かったんだって!」

 

松下が肩を揺らす。

 

「でも後から、意外と落ち着くかもって言ってたじゃない」

 

長谷部は少し止まる。

 

確かにあの静かな時間は、不思議と嫌じゃなかった。

 

見られることを考えなくていい空間。

 

呼吸。

静けさ。

整えられた所作。

 

今思えば、あの時間も自分を変えた一つだった。

 

次の写真は天沢一夏と七瀬翼。

 

プールサイド。

部室。

桜並木。

 

どこでも騒いでいる。

特に、天沢が水を掛けながら笑っている写真で、部室にまた笑いが広がった。

 

「天沢さん、自由すぎるんだよね……」

 

長谷部が苦笑する。

一之瀬も笑っていた。

 

「でも、いると空気明るくなるよね」

「分かる」

 

櫛田も小さく頷く。

七瀬がその後ろで困っている写真まで映る。

 

『天沢さん、走らないでください……!』

 

そんな声が聞こえてきそうだった。

長谷部は、その写真を見ながら少しだけ目を細める。

 

最初の頃の自分なら。

あんな風に騒ぐ空気へ入れなかった。

 

でも今は違う。

 

笑いながら、ちゃんとその輪の中へいる。

その変化が、写真には確かに残っていた。

 

そして次の写真が映った瞬間。

 

長谷部が思わず頭を抱える。

 

「うわっ、出た……」

 

堀北鈴音。

伊吹澪。

ケヤキモール前。

完全に揉めている瞬間だった。

 

『2人ともスレンダーでいいなぁって』

 

あの発言直後。

堀北が少し赤くなっている。

伊吹は本気でセクハラしていた。

長谷部自身は完全に慌てている。

 

松下が吹き出す。

 

「この時の波瑠加、ほんと分かりやすかった」

「いやだって本当に羨ましかったんだって……!」

 

すると櫛田が少し笑う。

 

「でもこの辺からだったよね」

 

長谷部が顔を向ける。

櫛田は写真を見ながら言った。

 

「長谷部さん、自分の身体のこと、前より素直に話せるようになったの」

 

部室が少し静かになる。

長谷部は、その写真を見る。

 

確かに。

 

昔なら絶対言えなかった。

 

比較することも。

 

羨ましいと思うことも。

 

自分の身体の話をすることも。

 

全部避けていた。

 

でも今は違う。

 

怖さはまだある。

 

でも、ちゃんと向き合えるようになってきた。

 

三宅が静かに次の写真へ切り替える。

 

桜。

夕焼け。

プール。

部室。

 

その全部が、少しずつ流れていく。

 

長谷部は、その写真たちを見つめながら思う。

 

この部活は――

 

ただグラビアを学ぶ場所じゃなかった。

 

自分を少しずつ受け入れていく場所だった。

 

そして誰かと一緒に笑えるようになる場所だった。

 

その時三宅が一枚の写真を表示する。

 

夕焼けの帰り道。

春の風。

並んで歩く6人。

 

長谷部は、その写真を見た瞬間、少しだけ息を止めた。

 

今でも覚えている。

あの日の風。

夕陽。

柔らかい空気。

 

そして。

 

「愛里にも見せたいな」

 

そう思った瞬間。

 

長谷部は、画面を見つめながら小さく笑う。

 

「……これ好きかも」

 

三宅が頷いた。

 

「俺もこれかなり好きだ」

 

松下も静かに言う。

 

「この頃から、長谷部さんかなり変わった気する」

 

長谷部は少しだけ黙る。

 

変わった。

 

その言葉を、今では前ほど否定したくなかった。

 

その時だった。

 

コンコン。

突然、部室の扉がノックされる。

 

全員が振り向く。

 

「はいはーい」

 

星之宮が返事をする。

扉が開く。

 

そこに立っていた人物を見た瞬間。

長谷部は少しだけ目を見開いた。

 

綾小路清隆だった。

 

部室の空気が少し止まる。

綾小路は部屋を見回す。

 

壁の写真。

机。

 

長谷部たち。

それから、小さく言った。

 

「……思ったよりちゃんと部活してるな」

「何その感想」

 

長谷部が思わず返す。

 

だがそのやり取りが、以前よりずっと自然だった。

 

綾小路は壁の写真を見る。

そして夕焼けの帰り道の写真で、少しだけ視線を止めた。

 

長谷部は、その横顔を見てふと思う。

 

もし愛里がまだいたら。

 

この場所に、綾小路も普通にいたのだろうか。

 

そんなもしを考えてしまう。

 

その時。

 

「きよぽんも見る?」

 

長谷部が自然に言った。

綾小路が少しだけ目を動かす。

部室も少し静かになる。

 

だが長谷部自身、もうその呼び方を無理に隠さなくなっていた。

 

綾小路は小さく頷く。

 

「見る」

 

三宅が写真を切り替える。

 

最初の頃。

桜。

プール。

夕焼け。

部室。

 

全部が流れていく。

 

綾小路は静かに見ていた。

 

その時一枚の写真で、少しだけ止まる。

 

長谷部と櫛田。

 

ぎこちなく笑っている写真。

 

キョーちゃんが戻る前。

 

少しだけ距離が残っていた頃。

 

綾小路が静かに言う。

 

「ちゃんと戻れたんだな」

 

長谷部は少しだけ目を瞬かせる。

櫛田も静かだった。

 

長谷部は小さく笑う。

 

「……まあ、ちょっとずつだけどね」

 

その言葉が、部室へ静かに落ちる。

 

ちょっとずつ。

 

この作品そのものみたいな言葉だった。

 

誰も急に変わっていない。

 

長谷部も。

 

櫛田も。

 

綾小路との関係も。

 

全部、少しずつ変わってきた。

 

だからこそ、今がある。

 

その時だった。

 

星之宮が急に立ち上がる。

 

「じゃあ最後に撮りましょう!」

 

全員が振り向く。

 

「最後?まだ卒業まで2ヶ月あるじゃん」

 

長谷部が聞き返す。

星之宮は笑った。

 

「じゃあ、今のグラビアアイドル部!」

 

その言葉に。

部室の空気が少し柔らかくなる。

 

三宅がカメラを持つ。

幸村がタイマーをセットする。

一之瀬が笑う。

松下が椅子を寄せる。

櫛田が長谷部の隣へ来る。

綾小路は少しだけ後ろへ立った。

 

長谷部は、その空気をゆっくり見回す。

 

最初は佐倉愛里の世界を知りたかっただけだった。

 

でも今は違う。

 

この場所そのものが、大切になっている。

 

「じゃ、撮るぞー」

 

三宅が言う。

 

タイマーの音。

 

夕焼け。

冬の風。

 

そして――笑い声。

 

長谷部は、自然に笑っていた。

 

カシャ。

シャッター音。

 

その一枚には――

 

少しだけ大人になった高校生たちの、かけがえのない放課後が映っていた。

 

 

そして卒業式の日。

高度育成高等学校の空は、驚くほど綺麗に晴れていた。

 

三月の終わり。

少しだけ冷たい風。

でも、その空気の中には確かに春の匂いが混じっている。

 

校舎の前には、多くの生徒たちが集まっていた。

 

写真を撮る者。

泣いている者。

笑っている者。

別れを惜しむ声。

 

「また連絡するね!」

「絶対集まろうな!」

 

そんな言葉が、あちこちから聞こえてくる。

 

長谷部波瑠加は、その光景を少し離れた場所から見ていた。

 

卒業証書の入った筒。

少し軽くなった鞄。

 

そして、制服姿の最後の日。

 

長谷部は、小さく息を吐く。

 

不思議だった。

 

最初は、この学校が嫌いだったわけじゃない。

 

でも、好きでもなかった。

 

ただ生き残る場所。

 

退学しないための場所。

 

それくらいだった。

 

けれど今は違う。

 

ここには、ちゃんと思い出が残っている。

 

その時。

 

「長谷部さん!」

 

一之瀬帆波が駆け寄ってくる。

その後ろには松下千秋。

少し遅れて櫛田桔梗もいた。

 

みんな卒業式仕様で、いつもより少しだけ大人びて見える。

長谷部は思わず笑った。

 

「なんか、みんなちゃんとしてるね」

「卒業式だからね?」

 

松下が苦笑する。

一之瀬は少しだけ目を細めた。

 

「終わっちゃうね」

 

その一言に、長谷部の胸が少しだけ締め付けられる。

 

終わる。

 

本当に。

 

この学校で過ごした時間が。

 

グラビアアイドル部の放課後が。

 

全部。

 

その時だった。

 

「おーい!」

 

三宅明人が手を振りながら走ってくる。

幸村輝彦もその後ろにいた。

 

「みやっち走るなって」

 

長谷部が笑う。

三宅は息を整えながら言った。

 

「いや、最後だからさ」

 

その言葉が、妙に胸へ残る。

 

最後。

 

何度も聞いた言葉。

 

でも、今だけは本当に最後だった。

 

その時だった。

 

「みんな揃ってるじゃない」

 

星之宮知恵がゆっくり歩いてくる。

今日は教師らしくスーツ姿だった。

 

でも、どこか少しだけ寂しそうだった。

 

長谷部は笑う。

 

「ほしみー、泣いてない?」

「泣いてないわよ!」

 

だが、少し声が怪しい。

部室の空気を思い出して、長谷部は少しだけ胸が温かくなる。

 

その時。

 

「……写真、撮るか?」

 

三宅が小さく言った。

全員が少しだけ止まる。

 

それから。

 

自然に頷いた。

 

校舎前。

春の風。

卒業式の喧騒。

 

その中で、みんな並ぶ。

 

一之瀬。

松下。

櫛田。

幸村。

三宅。

星之宮。

 

そして長谷部。

 

長谷部は、その空気をゆっくり感じていた。

 

最初は、愛里の世界を知りたかっただけだった。

 

でも今は違う。

 

この場所で、自分も変わった。

 

身体を少し好きになれた。

 

見られることを怖いだけじゃなくなった。

 

誰かと並んで笑えるようになった。

 

その全部が、ここにある。

 

カシャ。

シャッター音。

 

最後の卒業写真。

 

その一枚には――

 

少しだけ大人になった高校生たちが映っていた。

 

 

その後。

校舎を出る前。

 

長谷部は一人、第三準備室へ向かった。

 

もう鍵は開いていない。

 

静かな廊下。

 

夕方前の光。

 

長谷部は、扉の前へ立つ。

 

ここで、たくさん笑った。

 

たくさん悩んだ。

 

たくさん写真を撮った。

 

愛里がいなくなったあと、空っぽだった自分を、少しずつ埋めてくれた場所だった。

 

長谷部は小さく笑う。

 

「……ありがと」

 

誰へ向けたのか、自分でも分からなかった。

 

でも、その言葉は自然に出た。

 

その時だった。

 

「波瑠加」

 

後ろから声。

振り向く。

 

綾小路清隆だった。

 

長谷部は少しだけ目を瞬かせる。

 

でも、次の瞬間。

 

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

 

いま綾小路は、長谷部じゃなく、波瑠加と呼んだ。

 

その呼び方。

 

昔、綾小路グループだった頃。

 

放課後の教室。

ケヤキモール。

なんでもない会話。

 

その中で、当たり前みたいに呼ばれていた名前。

 

長谷部は、少しだけ唇を噛む。

 

それだけなのに。

 

忘れていた時間が、一気に胸へ押し寄せてきた。

 

愛里。

みやっち。

ゆきむー。

きよぽん。

 

放課後。

くだらない会話。

笑い声。

 

そして、突然の別れ。

退学。

壊れてしまった空気。

 

あの時、自分は全部失ったと思っていた。

 

愛里も。

居場所も。

放課後も。

全部。

 

長谷部は、小さく目を伏せる。

 

その瞬間。

 

ぽたり。

 

涙が落ちた。

 

長谷部自身、一番驚いていた。

 

「……あ」

 

慌てて目元を押さえる。

 

でも、止まらなかった。

 

愛里と過ごした時間。

 

写真を撮って笑っていた放課後。

 

伊達メガネで照れていた顔。

 

文化祭で一緒にメイド喫茶をやりたかったこと。

 

退学の日。

 

泣きながら追いかけた背中。

 

そして。

 

そのあと。

 

空っぽになった自分が、勢いだけで作ったグラビアアイドル部。

 

最初は怖かった。

 

撮られるのも。

見られるのも。

自分の身体も。

全部嫌だった。

 

でも。

 

みんなと笑った。

 

バスケ部で汗だくになって。

 

茶道部で苦い抹茶を飲んで。

 

天沢や七瀬たちと騒いで。

 

桜の下を歩いて。

 

夕焼けの帰り道で笑って。

 

プールではしゃいで。

 

少しずつ、自分を好きになれた。

 

その全部が、一気に胸へ溢れてくる。

 

悲しかった。

 

苦しかった。

 

でも。

 

楽しいことも、たくさんあった。

 

長谷部は涙を拭おうとする。

 

だが、その時だった。

 

綾小路が静かにハンカチを差し出した。

長谷部は少しだけ目を見開く。

綾小路は何も言わない。

ただ、静かに差し出している。

 

長谷部は少しだけ笑った。

 

「……きよぽんって、こういう時だけズルいよね」

 

声が少し震えていた。

綾小路は小さく目を細める。

 

「泣いてるやつを放置できないだろ」

 

長谷部は、受け取ったハンカチをぎゅっと握る。

 

白い布。

 

少しだけ柔らかい感触。

その温度が、妙に昔を思い出させた。

長谷部は涙を拭きながら、小さく笑う。

 

「……ほんと、色々あったね」

 

綾小路は静かに廊下の窓を見る。

 

夕陽が差し込んでいる。

静かな卒業式の校舎。

綾小路は、少しだけ間を置いて言った。

 

「でも、波瑠加はちゃんと前に進んだ」

 

長谷部は少しだけ止まる。

 

その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。

 

昔の自分なら。

 

きっと否定していた。

 

でも今は違う。

 

怖かった。

 

泣いた。

 

苦しかった。

 

それでも。

 

ちゃんと笑えるようになった。

 

誰かと並んで歩けるようになった。

 

愛里へ会いに行きたいって、前を向けるようになった。

 

長谷部は涙を拭きながら、小さく笑った。

 

「……うん」

 

窓の外。

 

春の夕焼けが、静かな廊下を赤く染めていた。

 

その光は、どこか少しだけ儚くて。

 

でも。

 

終わりじゃなく、続いていく時間みたいにも見えた。

 

もう昔みたいに胸は痛まなかった。

 

綾小路は静かに第三準備室の扉を見る。

 

「終わったな」

 

長谷部は小さく頷く。

 

「うん」

 

静かな沈黙。

 

でも、不思議と気まずくない。

 

長谷部は少しだけ笑った。

 

「……きよぽんさ」

 

綾小路が顔を向ける。

長谷部は少しだけ照れ臭そうに言った。

 

「ありがとね」

 

綾小路は少しだけ目を細める。

 

「何がだ」

「色々」

 

長谷部は小さく笑う。

 

それ以上は説明しなかった。

 

でも綾小路も、それ以上訊かなかった。

 

その沈黙が、妙に心地良かった。

 

 

数日後。

東京駅。

 

新幹線ホーム。

春休みの人混み。

スーツケースを引く人。

 

旅行客。

発車ベル。

 

その喧騒の中に、長谷部たちはいた。

 

三宅明人。

幸村輝彦。

綾小路清隆。

 

そして――

 

長谷部波瑠加。

 

長谷部は、ホームから見える都会の景色をぼんやり眺める。

 

あの日。

 

卒業したら会いに行こう。

 

そう言った。

 

そして今。

 

本当にその日が来ていた。

 

「緊張してるか?」

 

三宅が笑う。

長谷部は少しだけ苦笑した。

 

「……ちょっと」

「今さら逃げるなよ」

「逃げないし」

 

その時、綾小路が静かに言った。

 

「愛里、驚くだろうな」

 

長谷部は少しだけ目を瞬かせる。

 

それから、ふっと笑った。

 

「うん。絶対びっくりする」

 

幸村が静かに言う。

 

「来るぞ」

 

新幹線がホームへ滑り込んでくる。

 

白い車体。

風。

大きな音。

 

長谷部は、その光景を見ながら小さく息を吐く。

 

昔の自分なら。

 

こんな風に前へ進めなかった。

 

愛里を見上げるだけだった。

 

置いていかれた気持ちだけで止まっていた。

 

でも今は違う。

 

怖い。

 

緊張する。

 

それでも。

 

ちゃんと会いたいと思っている。

 

三宅が笑った。

 

「じゃ、行くか」

 

長谷部は小さく頷く。

 

新幹線へ乗り込む。

 

窓際の席。

 

流れ始めるホーム。

 

遠ざかる東京駅。

 

長谷部は窓の外を見ながら、小さくスマホを開いた。

 

そこには――グラビアアイドル部、最後の集合写真。

 

夕焼けの部室。

 

笑っているみんな。

 

そして、少しだけ大人になった自分。

 

長谷部は、その写真を見つめながら静かに笑った。

 

「愛里……」

 

隣では、綾小路が静かに窓の外を見ていた。

 

あの頃とは違う。

 

でも。

 

失われたと思っていた時間は、ちゃんとここへ繋がっていた。

 

窓の外。

 

春の景色が流れていく。

 

新幹線は、佐倉愛里がいる街へ向かって走っていた。

 

……愛里。

 

私たち、ちゃんと笑えるようになったよ。

 

 




■あとがき
「佐倉愛里が見ていた世界」完結です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
長谷部はよう実で一番好きな女キャラなので、それだけで書く原動力になりました。
加えて、同じく好きな松下もメインキャラにして趣味全開のキャスティングです。
今思うとグラビアアイドル部の名に恥じない美女部員ばかりです(笑)
物語の構成としてはシリアスも含めつつ、ゆるい日常ものを意識しました。
とはいえ、もう少しコメディシーンなどあったらよかったかなと思います。
という反省も活かす形で、次回作はギャグコメディものです!
タイトルは「アイドル至上主義の教室へ」。

【挿絵表示】

途中までですが、第1話「アイドル特別試験」の試し読みをどうぞ。



高度育成高等学校の二年生たちにとって、
その日の朝はいつも通りに始まるはずだった。

教室にはまだ眠たげな顔をした生徒がちらほらと座り、
須藤は机に突っ伏し、池は朝からどうでもいい話で山内不在の空白を埋めようとし、
軽井沢は友人と雑談を交わしながらも、どこか面倒くさそうに携帯を眺めていた。

堀北鈴音はいつものように背筋を伸ばし、
授業開始前の静かな時間を利用してノートを開いていたが、
その表情にはわずかな警戒があった。

この学校において、何も起きない朝ほど信用できないものはない。

そして、その直感は正しかった。

チャイムが鳴り、担任である茶柱佐枝が教室へ入ってくると、
彼女はいつものように気だるげな表情で教卓に立った。

「今日は通常授業の前に、学校側から新たな特別試験の説明がある」

その一言だけで、教室の空気は一瞬にして変わった。

須藤が顔を上げ、池が口を半開きにし、
軽井沢の指が携帯の画面上で止まる。

堀北は静かにペンを置いた。

「また特別試験かよ……」
「今度は何をやらされるんだ?」

ざわめきが広がる中、茶柱は教卓の端末を操作し、
黒板上部のモニターへ資料を映し出した。

そこに表示された文字を見た瞬間、教室全体が沈黙した。

『アイドル特別試験』

誰もが、一度は自分の目を疑った。

須藤は瞬きを繰り返した。
池は笑おうとして失敗した。
軽井沢は完全に固まった。
堀北は、ほんのわずかに眉をひそめた。

「……先生」

堀北が静かに手を挙げる。

「質問を許可する」
「これは何かの誤表示ですか?」
「違う」

茶柱は即答した。

「今回の特別試験の正式名称は、アイドル特別試験だ」

再び沈黙が落ちた。

その沈黙は、重いというより、全員が現実の処理に失敗している種類のものだった。

「試験内容は極めて単純だ。4クラスそれぞれが三名の女子生徒を選抜し、
二週間後に校内ホールでライブパフォーマンスを行う。
審査は生徒、教師、外部関係者による総合評価で行われ、
一位のクラスにはクラスポイント+200、二位には+150、
三位には+100、四位には+50が与えられる」

「いやいやいやいや!」

池が立ち上がった。

「なんですかそれ!アイドルってあのアイドルですか!?
歌って踊って笑顔振りまくやつですか!?」
「それ以外に何がある」

茶柱は冷たく返した。

「いや、ある意味で何も間違ってないけど、間違ってるだろ!」

須藤が頭を抱える。

「俺たち、何の学校に通ってんだよ……」
「高度育成高等学校だ」

茶柱は淡々と答えた。

「社会に出れば、学力や身体能力だけでは評価されない。
人を惹きつける力、場を支配する力、
短期間で未経験分野に適応する力もまた、実力の一つだ」

その説明は、妙にもっともらしかった。
もっともらしかったせいで、誰もすぐには反論できなかった。

堀北だけは冷静に言葉を返す。

「つまり、今回問われるのは人気や表現力、集団への訴求力ということですか」
「そう考えていい」
「……理解はしました」

堀北は静かに頷いた。

「ですが、私は出ません」

早かった。
あまりにも早い拒否だった。

茶柱が目を細める。

「まだ候補者すら発表していないが」
「この流れで嫌な予感しかしません」

堀北は断言した。

「私はクラスのためなら努力はします。
ですが、アイドルとして歌って踊るという行為が、このクラスの最善手とは思えません」
「鈴音、それは逃げてんのか?」

須藤が思わず口を挟む。

「黙りなさい。あなたに言われる筋合いはないわ」
「いや、でも鈴音がアイドルってちょっと面白――」

須藤は言い切る前に、堀北の視線で黙った。

茶柱は資料を一枚進める。

「学校側による事前適性評価の結果、
各クラスから候補者が数名選出されている。
最終決定はクラスに委ねられるが、
基本的にはこの候補者から三名を選ぶことが推奨される」

教室に緊張が走る。
画面が切り替わった。

そこに表示された名前は三つ。

堀北鈴音。
軽井沢恵。
櫛田桔梗。

空気が爆発した。

「おおおおお!」
「軽井沢は分かる!」
「櫛田も分かる!」
「堀北!?」
「堀北がアイドル!?」
「いや美人ではあるけど!」
「笑顔が想像できねぇ!」
「殺されるぞ!」

堀北のこめかみに、目に見えない青筋が浮かんだ気がした。
軽井沢は椅子から半分ずり落ちそうになっていた。

「ちょ、ちょっと待ってよ!なんであたしまで!?」
「軽井沢はまだ分かるだろ」

池が言う。

「分かるって何よ!」
「いや、なんかこう、見た目とか雰囲気とか」
「雑すぎ!」

櫛田は困ったように微笑んでいたが、その笑顔の奥に明らかな動揺があった。

「えっと……私も、急に言われても……」

堀北は静かに立ち上がった。

「先生。私は正式に辞退を申し出ます」
「理由は?」
「適性がないからです」
「学校側はあると判断している」
「判断が間違っています」
「ずいぶん強気だな」
「事実です」

そのやり取りを、オレ――綾小路清隆は自席から眺めていた。

アイドル特別試験。

名前だけを聞けば冗談のような試験だが、配点は決して軽くない。

一位と四位の差は150ポイント。

今後のクラス争いを考えれば、笑って流せる数字ではなかった。
そして何より、この試験は単なる人気投票ではない。
短期間で未経験の課題に適応し、
個人の魅力を演出し、観客の心理を動かす必要がある。
学力や身体能力のように数値化しやすい能力ではなく、
もっと曖昧で、もっと厄介な能力が問われる。

だからこそ、面白い試験でもあった。

「綾小路くん」

堀北がオレを睨む。

「あなた、何か言いなさい」
「何をだ」
「この人選についてよ」

オレは画面に表示された三名を見た。

堀北、軽井沢、櫛田。

バランスは悪くない。
堀北は見た目と能力値が高いが、愛想が壊滅的。
軽井沢は人前での振る舞いや空気の読み方に優れる。
櫛田は対人用の笑顔と親しみやすさに関してはトップクラス。
組み合わせとしてはかなり強い。

問題は本人たちのやる気だけだ。

「適性だけで言えば、妥当だと思う」

オレがそう言うと、堀北の目がさらに細くなった。

「あなたまで何を言っているの?」
「歌とダンスは練習で補える。表情や立ち振る舞いも同じだ。
むしろ二週間という短期戦なら、最初から完成されている人間より、
成長幅を見せられる人間の方が有利になる可能性もある」
「つまり私にやれと?」
「クラスの利益を考えればな」
「あなたも出ればいいじゃない」
「男子は出場不可だ」
「残念ね」

まったく残念そうではなかった。
むしろ、オレを舞台へ引きずり出せないことを本気で惜しんでいるような目だった。

茶柱が説明を続ける。

「なお、衣装、楽曲、振付、演出については各クラスの自由とする。
プロデューサー役を置くことも認められる。
外部からの指導は禁止だが、校内の生徒および教員の協力は可とする」

その瞬間、何人かの視線がオレに向いた。

なぜか分からないが、嫌な予感がした。

「綾小路くんがプロデューサーやればいいんじゃない?」

軽井沢が半笑いで言った。

「ちょっと、勝手に決めないで」

堀北が即座に反応する。

「でもさ、こういうわけ分かんない試験って、綾小路くんが考えた方が勝てそうじゃん」

軽井沢の言葉に、何人かが頷いた。

「確かに」
「綾小路ならなんかやりそう」
「いつも何考えてるか分からんし」

評価されているのか、怪しまれているのか判断に困る。

「オレはアイドルに詳しくない」

そう言うと、軽井沢は肩をすくめた。

「そこは勉強すれば?」
「二週間しかないぞ」
「アンタなら二日で変な方向に極めそう」

否定しようと思ったが、完全には否定できなかった。

堀北は腕を組む。

「私はまだ了承していないわ」
「堀北」

オレは彼女を見る。

「何よ」

「この試験で四位でも50ポイントは入る。だが一位なら200だ。
上位との差を詰める機会としては悪くない」
「それは分かっているわ」
「なら、勝つために最も適した手を選ぶべきだ」
「だからといって私がアイドルになる理由にはならない」
「ある」
「ないわ」
「ある」
「ない」

教室全体が妙な空気になった。

オレと堀北のやり取りを、軽井沢が呆れた顔で見ている。
櫛田は苦笑している。
須藤はなぜか少し楽しそうだった。

オレは少し考えた。

堀北を納得させるには、合理的な説明だけでは足りない。
彼女は理屈で理解していても、感情で拒絶している。
ならば、少し別の角度から押す必要がある。

「堀北」
「何」
「アイドルは若さだけで決まるものではない」
「当然でしょうね」
「だが、一般的なイメージとしては年齢による印象差もある」
「……何が言いたいの?」
「まあ、年齢的にもギリギリだな」

次の瞬間だった。
堀北が無言で距離を詰めた。



最後まで書かれた完全版は明日のの午前0時に投稿予定です。
よろしくお願いします。
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