またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです―― 作:ブンチョウ
呼び名は、村の中だけで止まらなかった。
白手袋の人。
黒い方々。
名乗らない主。
薬を置く影。
井戸を直した者たち。
最初は、井戸端の小声だった。
次に、薪を拾いに出た者の独り言になった。
それから、隣村へ嫁いだ娘へ渡す干し肉の包みに混じった。
行商人が聞いた。
親戚が聞いた。
領主館の下級吏員が、酒場で口を閉じようとして、逆に口を閉じすぎた。
噂は、正確には伝わらなかった。
むしろ、正確でないから広がった。
あの村には黒い兵がいる。
税を取りに行った者が戻らない。
盗賊も戻らない。
だが、村人は生きている。
薬がある。
食べ物もある。
礼は受け取らない。
名前も名乗らない。
守られている。
誰がそう言い始めたのかは、分からない。
ただ、その言葉だけが、村の外へ歩き出した。
*
その少女が村の入口に現れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
年は十四か、十五か。
背は低くない。
だが、歩き方が小さかった。
荷物は布袋一つ。
武器は持っていない。
服は破れていない。
血はついていない。
それが、かえって何を置いてきたのか分からなくしていた。
だから最初、村人たちは、行商人の娘か、親戚の使いかと思った。
だが、少女は村の入口で止まった時、後ろを振り返らなかった。
振り返る場所が、もう残っていない者の立ち方だった。
「誰だ」
鍛冶屋ベルトが声をかけた。
少女は答えなかった。
布袋を両手で抱え、村の中を見ている。
井戸。
物資箱。
薬壺の置かれた小屋。
村人たち。
その視線は、助けを求めているというより、何が残っているかを数えているようだった。
「どこの者だ」
ベルトがもう一度聞いた。
少女は唇を動かした。
声はすぐには出なかった。
「……ここなら」
それだけ言って、息を飲む。
「ここなら、連れて行かれないと聞きました」
村人たちは黙った。
誰も、すぐには意味を尋ねなかった。
尋ねれば、答えが返ってくる。
答えが返ってくれば、それを聞いた者になる。
ハーゲンがゆっくりと歩み出た。
「誰に聞いた」
「道で」
「道で、誰に」
少女は首を横に振った。
「知らない人です」
「どこから来た」
少女は答えなかった。
ハーゲンは、その沈黙を責めなかった。
責めるには、少女の目が乾きすぎていた。
泣いていない。
泣く体力を、道に置いてきた顔だった。
「ここは救いの村ではない」
ハーゲンは言った。
少女は頷いた。
まるで、それくらいは知っているというように。
「それでも」
「それでも?」
「ここなら、まだ名前を聞かれるだけで済むと聞きました」
その場にいた何人かが、息を止めた。
名前。
それは、この村でも重くなり始めていた。
名前は、人を呼ぶためのものだった。
だが、徴税吏は名前で薬を取り上げようとした。
書記は名前で世帯を記録した。
ナザリックは名前を識別名欄に入れた。
少女は、それをどこまで知っているのか。
おそらく、知らない。
ただ、名前を聞かれるだけで済む場所が、外よりましだと思って来た。
それだけだった。
「村長」
ベルトが低く言った。
「入れるだけならできる。追い出すよりはな」
「入れた後に来るものを、お前が止められるのか」
ハーゲンは返した。
ベルトは黙った。
村人たちも黙る。
その少女一人を入れることはできる。
水を飲ませることもできる。
何か食べさせることもできる。
だが、その背後に何がついてくるのかは分からない。
領主館か。
兵か。
別の逃亡者か。
病か。
飢えか。
それとも、黒い方々か。
マルナはミラの肩を抱いていた。
ミラは少女を見ている。
少女も、ミラを見た。
年は違う。
立っている場所も違う。
だが、二人とも大人たちの決定を待つしかなかった。
「名は」
ハーゲンが言った。
少女の肩が、わずかに動いた。
「名を言え。言わなければ、ここに置けん」
少女は布袋を抱え直した。
名前を言えば、どこかへ繋がる。
家へ。
親へ。
村へ。
徴税台帳へ。
連れて行った者たちへ。
戻れない道へ。
彼女はそれを知っている。
知っているから、言えなかった。
ハーゲンは待った。
ベルトも待った。
マルナは口を開きかけて、閉じた。
ミラだけが、小さく言った。
「言わないと、薬ももらえないよ」
その言葉に、少女は一度だけ目を閉じた。
薬。
その単語だけは、逃げ道ではなかった。
「……リーネ」
少女は言った。
「リーネ、です」
ハーゲンは頷いた。
頷いたが、それは受け入れではなかった。
まだ、何も決まっていない。
*
ナザリックの監視網は、外部個体の接近を捉えていた。
報告書は、すぐに作成された。
外部個体一名、対象村落へ接近。
推定年齢、十四から十六。
性別、女性。
武装、確認されず。
所持品、布袋一つ。
対象村落内俗称を認識。
発言内容。
ここなら、連れて行かれないと聞きました。
ここなら、まだ名前を聞かれるだけで済むと聞きました。
俗称拡散、確認。
外部流入兆候、初回。
アインズは、その報告を読んでいた。
守られている。
報告書には、その語も添えられている。
外部における対象村落安全性認識。
俗称伝播による誤認の可能性。
アインズは、その行をしばらく見た。
守られている。
不適切な語である。
対象村落は、保護対象ではない。
観測対象であり、支援行動の効果測定地点であり、敵性干渉条件を探るための保存区域である。
守っているのではない。
維持している。
そう処理すべきだった。
「デミウルゴス」
「はい、アインズ様」
「どう見る」
デミウルゴスは一礼した。
「俗称が外部個体の行動を誘導した初例と考えられます。対象村落に対し、安全地帯、あるいはそれに類する認識が発生しつつあるのでしょう」
「危険か」
「危険でもあり、有用でもあります」
デミウルゴスは、当然のように答えた。
「受け入れても、拒絶しても、観測価値はございます」
作戦室に、わずかな沈黙が落ちた。
デミウルゴスの声には、悪意がなかった。
だからこそ、冷たかった。
「受け入れれば、依存形成の初期反応が取れます。拒絶すれば、村人がどこで同情を切り捨てるかが分かります。いずれにせよ、有用です」
人間一人の運命が、二つの観測案に分かれていた。
どちらも、有用。
それがデミウルゴスの評価だった。
アルベドが静かに眉を寄せる。
「外部個体の流入は、対象村落の価値を損ねる恐れがあります。加えて、アインズ様の名も知らぬ者が、庇護だけを求めて近づくなど、不遜です」
庇護。
その語が出た瞬間、アインズはわずかに意識を向けた。
アルベドは、意図してその語を選んだのではないだろう。
だが、出た。
庇護。
保護。
守られている。
不適切な語ばかりが、報告書の外側で増えていく。
「セバス」
アインズは言った。
壁際に控えていた白髪の執事が、一歩前に出る。
「はい」
「どう見る」
セバスは報告書に目を通していた。
そして、静かに答える。
「武装はなく、敵意も薄いと思われます。ただし、対象村落に入れれば、以後の外部流入を招く可能性はございます」
「そうだな」
「また、追跡者の有無も未確認です。受け入れた場合、領主館、あるいは近隣勢力の干渉を招く恐れがあります」
「それもある」
セバスはそこで一度、言葉を切った。
言うべきか迷ったのではない。
言葉を選んだのだ。
「……追い返した場合、夜までに次の村へ辿り着ける歩幅ではありません」
作戦室は静かだった。
それは意見ではない。
提案でもない。
助けるべきだという訴えでもない。
ただの事実だった。
アインズは、報告書を見た。
外部個体一名。
推定年齢、十四から十六。
武装なし。
所持品、布袋一つ。
歩行速度、低下。
追い返した場合、夜までに次の村へ辿り着けない。
それは、保護すべき理由ではない。
観測対象として失うのは惜しい。
外部流入の初例として有用である。
俗称拡散の影響を測定できる。
対象村落住民の反応も取得できる。
理由はある。
十分にある。
「保護ではない」
アインズは言った。
自分に対してでもあった。
「外部個体流入時の反応観測だ」
デミウルゴスが深く頭を下げる。
「御意」
「対象村落内部への完全受け入れは認めない。村外縁の空き小屋を使用させる。食糧支給は最低限。村人との接触は制限する。追跡者の有無を確認。感染、呪詛、追跡魔法の有無も調べろ」
「直ちに」
「名は」
アインズは報告書を見る。
「リーネ、とのことです」
セバスが答えた。
「外部個体E-01。識別名、リーネ。そう記録せよ」
「畏まりました」
保護ではない。
収容でもない。
救助でもない。
一時滞在。
観測。
外部流入時の反応確認。
そう処理できる。
そう処理する。
*
村では、まだ結論が出ていなかった。
リーネは村の入口に立ったまま、布袋を抱えていた。
座れと言われていないから、座らない。
逃げろと言われていないから、逃げない。
それだけの姿勢だった。
ハーゲンは、村人たちを見た。
「中へ入れるわけにはいかん」
リーネの表情は変わらなかった。
最初から期待していなかった顔だった。
だが、ハーゲンは続けた。
「外れの空き小屋なら、今夜だけ使え」
その時、リーネの指が布袋に食い込んだ。
礼を言うべきかどうか迷っている。
迷えるほどの時間が、まだ彼女に残っていた。
「水は井戸から汲め。食べ物は少しだけ分ける。村の中を勝手に歩くな。誰かに聞かれても、ここへ来た理由を喋るな」
命令は冷たかった。
だが、追い返す言葉ではなかった。
「……はい」
リーネは答えた。
その声は、感謝よりも先に、疲労でできていた。
「村長」
ベルトが小さく言う。
「今夜だけで済むと思うか」
「思っていない」
ハーゲンは答えた。
リーネに聞こえないように、低く。
「だが、今追い返せば、今夜で終わる」
誰の何が終わるのかは、言わなかった。
言わなくても分かった。
マルナが古い椀を持ってきた。
中には、水が入っている。
リーネはそれを受け取る前に、一度ハーゲンを見た。
許可を待っている。
水を飲むことにさえ、許可が必要な場所から来た目だった。
ハーゲンは頷いた。
リーネは椀を受け取った。
一口だけ飲む。
残りを見て、また一口飲む。
全部を飲み干していいのか、まだ分からないのだ。
ミラが、そっと近づいた。
「リーネ」
呼ばれた少女は、びくりと肩を揺らした。
自分の名が、ここでもう使われたことに驚いたのだ。
ミラは、薬壺のある小屋を指した。
「薬、いる?」
リーネは答えなかった。
しばらくして、首を横に振る。
「私じゃない」
それだけ言って、リーネは村の外へ続く道を見なかった。
マルナの手が止まった。
「誰の薬だ」
リーネは布袋を抱え直した。
答えない。
ハーゲンも、それ以上聞かなかった。
聞けば、もう一人分の名前が来る。
村は、まだ一人分の名前さえ受け取れていなかった。
*
その夜、リーネは村外れの空き小屋に入った。
空き小屋と呼ぶには、壁の隙間が多い。
床も傾いている。
それでも、道よりはましだった。
リーネは布袋を枕にして、戸口の近くに座った。
奥へは行かない。
逃げ道を背にしない。
眠らないつもりの座り方だった。
だが、しばらくすると、頭が壁にもたれた。
眠ったのではない。
意識が、少しずつ落ちていっただけだった。
外では、村人が遠巻きに小屋を見ている。
誰も近づきすぎない。
誰も追い出さない。
それだけだった。
村人たちは、少女を助けたとは思っていない。
ただ、追い返さなかった。
その違いを、誰も口にしなかった。
*
ナザリックの記録には、外部個体一名、対象村落外縁に一時滞在、と記された。
外部個体E-01。
識別名、リーネ。
推定年齢、十四から十六。
武装、なし。
敵意、確認されず。
所持品、布袋一つ。
追跡可能性、調査中。
村内接触、制限。
食糧支給、最低限。
水の使用、許可。
滞在場所、村外縁空き小屋。
受け入れではない。
救助ではない。
庇護ではない。
外部個体流入時の反応観測である。
保護という語は、記録されなかった。
ただし、削除もされなかった。