またソロ攻略ですか? ――アインズ様の作戦だけが失敗するようです――   作:ブンチョウ

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第10話 保護欄

 呼び名は、村の中だけで止まらなかった。

 

 白手袋の人。

 

 黒い方々。

 

 名乗らない主。

 

 薬を置く影。

 

 井戸を直した者たち。

 

 最初は、井戸端の小声だった。

 

 次に、薪を拾いに出た者の独り言になった。

 

 それから、隣村へ嫁いだ娘へ渡す干し肉の包みに混じった。

 

 行商人が聞いた。

 

 親戚が聞いた。

 

 領主館の下級吏員が、酒場で口を閉じようとして、逆に口を閉じすぎた。

 

 噂は、正確には伝わらなかった。

 

 むしろ、正確でないから広がった。

 

 あの村には黒い兵がいる。

 

 税を取りに行った者が戻らない。

 

 盗賊も戻らない。

 

 だが、村人は生きている。

 

 薬がある。

 

 食べ物もある。

 

 礼は受け取らない。

 

 名前も名乗らない。

 

 守られている。

 

 誰がそう言い始めたのかは、分からない。

 

 ただ、その言葉だけが、村の外へ歩き出した。

 

     *

 

 その少女が村の入口に現れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 

 年は十四か、十五か。

 

 背は低くない。

 

 だが、歩き方が小さかった。

 

 荷物は布袋一つ。

 

 武器は持っていない。

 

 服は破れていない。

 

 血はついていない。

 

 それが、かえって何を置いてきたのか分からなくしていた。

 

 だから最初、村人たちは、行商人の娘か、親戚の使いかと思った。

 

 だが、少女は村の入口で止まった時、後ろを振り返らなかった。

 

 振り返る場所が、もう残っていない者の立ち方だった。

 

「誰だ」

 

 鍛冶屋ベルトが声をかけた。

 

 少女は答えなかった。

 

 布袋を両手で抱え、村の中を見ている。

 

 井戸。

 

 物資箱。

 

 薬壺の置かれた小屋。

 

 村人たち。

 

 その視線は、助けを求めているというより、何が残っているかを数えているようだった。

 

「どこの者だ」

 

 ベルトがもう一度聞いた。

 

 少女は唇を動かした。

 

 声はすぐには出なかった。

 

「……ここなら」

 

 それだけ言って、息を飲む。

 

「ここなら、連れて行かれないと聞きました」

 

 村人たちは黙った。

 

 誰も、すぐには意味を尋ねなかった。

 

 尋ねれば、答えが返ってくる。

 

 答えが返ってくれば、それを聞いた者になる。

 

 ハーゲンがゆっくりと歩み出た。

 

「誰に聞いた」

 

「道で」

 

「道で、誰に」

 

 少女は首を横に振った。

 

「知らない人です」

 

「どこから来た」

 

 少女は答えなかった。

 

 ハーゲンは、その沈黙を責めなかった。

 

 責めるには、少女の目が乾きすぎていた。

 

 泣いていない。

 

 泣く体力を、道に置いてきた顔だった。

 

「ここは救いの村ではない」

 

 ハーゲンは言った。

 

 少女は頷いた。

 

 まるで、それくらいは知っているというように。

 

「それでも」

 

「それでも?」

 

「ここなら、まだ名前を聞かれるだけで済むと聞きました」

 

 その場にいた何人かが、息を止めた。

 

 名前。

 

 それは、この村でも重くなり始めていた。

 

 名前は、人を呼ぶためのものだった。

 

 だが、徴税吏は名前で薬を取り上げようとした。

 

 書記は名前で世帯を記録した。

 

 ナザリックは名前を識別名欄に入れた。

 

 少女は、それをどこまで知っているのか。

 

 おそらく、知らない。

 

 ただ、名前を聞かれるだけで済む場所が、外よりましだと思って来た。

 

 それだけだった。

 

「村長」

 

 ベルトが低く言った。

 

「入れるだけならできる。追い出すよりはな」

 

「入れた後に来るものを、お前が止められるのか」

 

 ハーゲンは返した。

 

 ベルトは黙った。

 

 村人たちも黙る。

 

 その少女一人を入れることはできる。

 

 水を飲ませることもできる。

 

 何か食べさせることもできる。

 

 だが、その背後に何がついてくるのかは分からない。

 

 領主館か。

 

 兵か。

 

 別の逃亡者か。

 

 病か。

 

 飢えか。

 

 それとも、黒い方々か。

 

 マルナはミラの肩を抱いていた。

 

 ミラは少女を見ている。

 

 少女も、ミラを見た。

 

 年は違う。

 

 立っている場所も違う。

 

 だが、二人とも大人たちの決定を待つしかなかった。

 

「名は」

 

 ハーゲンが言った。

 

 少女の肩が、わずかに動いた。

 

「名を言え。言わなければ、ここに置けん」

 

 少女は布袋を抱え直した。

 

 名前を言えば、どこかへ繋がる。

 

 家へ。

 

 親へ。

 

 村へ。

 

 徴税台帳へ。

 

 連れて行った者たちへ。

 

 戻れない道へ。

 

 彼女はそれを知っている。

 

 知っているから、言えなかった。

 

 ハーゲンは待った。

 

 ベルトも待った。

 

 マルナは口を開きかけて、閉じた。

 

 ミラだけが、小さく言った。

 

「言わないと、薬ももらえないよ」

 

 その言葉に、少女は一度だけ目を閉じた。

 

 薬。

 

 その単語だけは、逃げ道ではなかった。

 

「……リーネ」

 

 少女は言った。

 

「リーネ、です」

 

 ハーゲンは頷いた。

 

 頷いたが、それは受け入れではなかった。

 

 まだ、何も決まっていない。

 

     *

 

 ナザリックの監視網は、外部個体の接近を捉えていた。

 

 報告書は、すぐに作成された。

 

 外部個体一名、対象村落へ接近。

 

 推定年齢、十四から十六。

 

 性別、女性。

 

 武装、確認されず。

 

 所持品、布袋一つ。

 

 対象村落内俗称を認識。

 

 発言内容。

 

 ここなら、連れて行かれないと聞きました。

 

 ここなら、まだ名前を聞かれるだけで済むと聞きました。

 

 俗称拡散、確認。

 

 外部流入兆候、初回。

 

 アインズは、その報告を読んでいた。

 

 守られている。

 

 報告書には、その語も添えられている。

 

 外部における対象村落安全性認識。

 

 俗称伝播による誤認の可能性。

 

 アインズは、その行をしばらく見た。

 

 守られている。

 

 不適切な語である。

 

 対象村落は、保護対象ではない。

 

 観測対象であり、支援行動の効果測定地点であり、敵性干渉条件を探るための保存区域である。

 

 守っているのではない。

 

 維持している。

 

 そう処理すべきだった。

 

「デミウルゴス」

 

「はい、アインズ様」

 

「どう見る」

 

 デミウルゴスは一礼した。

 

「俗称が外部個体の行動を誘導した初例と考えられます。対象村落に対し、安全地帯、あるいはそれに類する認識が発生しつつあるのでしょう」

 

「危険か」

 

「危険でもあり、有用でもあります」

 

 デミウルゴスは、当然のように答えた。

 

「受け入れても、拒絶しても、観測価値はございます」

 

 作戦室に、わずかな沈黙が落ちた。

 

 デミウルゴスの声には、悪意がなかった。

 

 だからこそ、冷たかった。

 

「受け入れれば、依存形成の初期反応が取れます。拒絶すれば、村人がどこで同情を切り捨てるかが分かります。いずれにせよ、有用です」

 

 人間一人の運命が、二つの観測案に分かれていた。

 

 どちらも、有用。

 

 それがデミウルゴスの評価だった。

 

 アルベドが静かに眉を寄せる。

 

「外部個体の流入は、対象村落の価値を損ねる恐れがあります。加えて、アインズ様の名も知らぬ者が、庇護だけを求めて近づくなど、不遜です」

 

 庇護。

 

 その語が出た瞬間、アインズはわずかに意識を向けた。

 

 アルベドは、意図してその語を選んだのではないだろう。

 

 だが、出た。

 

 庇護。

 

 保護。

 

 守られている。

 

 不適切な語ばかりが、報告書の外側で増えていく。

 

「セバス」

 

 アインズは言った。

 

 壁際に控えていた白髪の執事が、一歩前に出る。

 

「はい」

 

「どう見る」

 

 セバスは報告書に目を通していた。

 

 そして、静かに答える。

 

「武装はなく、敵意も薄いと思われます。ただし、対象村落に入れれば、以後の外部流入を招く可能性はございます」

 

「そうだな」

 

「また、追跡者の有無も未確認です。受け入れた場合、領主館、あるいは近隣勢力の干渉を招く恐れがあります」

 

「それもある」

 

 セバスはそこで一度、言葉を切った。

 

 言うべきか迷ったのではない。

 

 言葉を選んだのだ。

 

「……追い返した場合、夜までに次の村へ辿り着ける歩幅ではありません」

 

 作戦室は静かだった。

 

 それは意見ではない。

 

 提案でもない。

 

 助けるべきだという訴えでもない。

 

 ただの事実だった。

 

 アインズは、報告書を見た。

 

 外部個体一名。

 

 推定年齢、十四から十六。

 

 武装なし。

 

 所持品、布袋一つ。

 

 歩行速度、低下。

 

 追い返した場合、夜までに次の村へ辿り着けない。

 

 それは、保護すべき理由ではない。

 

 観測対象として失うのは惜しい。

 

 外部流入の初例として有用である。

 

 俗称拡散の影響を測定できる。

 

 対象村落住民の反応も取得できる。

 

 理由はある。

 

 十分にある。

 

「保護ではない」

 

 アインズは言った。

 

 自分に対してでもあった。

 

「外部個体流入時の反応観測だ」

 

 デミウルゴスが深く頭を下げる。

 

「御意」

 

「対象村落内部への完全受け入れは認めない。村外縁の空き小屋を使用させる。食糧支給は最低限。村人との接触は制限する。追跡者の有無を確認。感染、呪詛、追跡魔法の有無も調べろ」

 

「直ちに」

 

「名は」

 

 アインズは報告書を見る。

 

「リーネ、とのことです」

 

 セバスが答えた。

 

「外部個体E-01。識別名、リーネ。そう記録せよ」

 

「畏まりました」

 

 保護ではない。

 

 収容でもない。

 

 救助でもない。

 

 一時滞在。

 

 観測。

 

 外部流入時の反応確認。

 

 そう処理できる。

 

 そう処理する。

 

     *

 

 村では、まだ結論が出ていなかった。

 

 リーネは村の入口に立ったまま、布袋を抱えていた。

 

 座れと言われていないから、座らない。

 

 逃げろと言われていないから、逃げない。

 

 それだけの姿勢だった。

 

 ハーゲンは、村人たちを見た。

 

「中へ入れるわけにはいかん」

 

 リーネの表情は変わらなかった。

 

 最初から期待していなかった顔だった。

 

 だが、ハーゲンは続けた。

 

「外れの空き小屋なら、今夜だけ使え」

 

 その時、リーネの指が布袋に食い込んだ。

 

 礼を言うべきかどうか迷っている。

 

 迷えるほどの時間が、まだ彼女に残っていた。

 

「水は井戸から汲め。食べ物は少しだけ分ける。村の中を勝手に歩くな。誰かに聞かれても、ここへ来た理由を喋るな」

 

 命令は冷たかった。

 

 だが、追い返す言葉ではなかった。

 

「……はい」

 

 リーネは答えた。

 

 その声は、感謝よりも先に、疲労でできていた。

 

「村長」

 

 ベルトが小さく言う。

 

「今夜だけで済むと思うか」

 

「思っていない」

 

 ハーゲンは答えた。

 

 リーネに聞こえないように、低く。

 

「だが、今追い返せば、今夜で終わる」

 

 誰の何が終わるのかは、言わなかった。

 

 言わなくても分かった。

 

 マルナが古い椀を持ってきた。

 

 中には、水が入っている。

 

 リーネはそれを受け取る前に、一度ハーゲンを見た。

 

 許可を待っている。

 

 水を飲むことにさえ、許可が必要な場所から来た目だった。

 

 ハーゲンは頷いた。

 

 リーネは椀を受け取った。

 

 一口だけ飲む。

 

 残りを見て、また一口飲む。

 

 全部を飲み干していいのか、まだ分からないのだ。

 

 ミラが、そっと近づいた。

 

「リーネ」

 

 呼ばれた少女は、びくりと肩を揺らした。

 

 自分の名が、ここでもう使われたことに驚いたのだ。

 

 ミラは、薬壺のある小屋を指した。

 

「薬、いる?」

 

 リーネは答えなかった。

 

 しばらくして、首を横に振る。

 

「私じゃない」

 

 それだけ言って、リーネは村の外へ続く道を見なかった。

 

 マルナの手が止まった。

 

「誰の薬だ」

 

 リーネは布袋を抱え直した。

 

 答えない。

 

 ハーゲンも、それ以上聞かなかった。

 

 聞けば、もう一人分の名前が来る。

 

 村は、まだ一人分の名前さえ受け取れていなかった。

 

     *

 

 その夜、リーネは村外れの空き小屋に入った。

 

 空き小屋と呼ぶには、壁の隙間が多い。

 

 床も傾いている。

 

 それでも、道よりはましだった。

 

 リーネは布袋を枕にして、戸口の近くに座った。

 

 奥へは行かない。

 

 逃げ道を背にしない。

 

 眠らないつもりの座り方だった。

 

 だが、しばらくすると、頭が壁にもたれた。

 

 眠ったのではない。

 

 意識が、少しずつ落ちていっただけだった。

 

 外では、村人が遠巻きに小屋を見ている。

 

 誰も近づきすぎない。

 

 誰も追い出さない。

 

 それだけだった。

 

 村人たちは、少女を助けたとは思っていない。

 

 ただ、追い返さなかった。

 

 その違いを、誰も口にしなかった。

 

     *

 

 ナザリックの記録には、外部個体一名、対象村落外縁に一時滞在、と記された。

 

 外部個体E-01。

 

 識別名、リーネ。

 

 推定年齢、十四から十六。

 

 武装、なし。

 

 敵意、確認されず。

 

 所持品、布袋一つ。

 

 追跡可能性、調査中。

 

 村内接触、制限。

 

 食糧支給、最低限。

 

 水の使用、許可。

 

 滞在場所、村外縁空き小屋。

 

 受け入れではない。

 

 救助ではない。

 

 庇護ではない。

 

 外部個体流入時の反応観測である。

 

 保護という語は、記録されなかった。

 

 ただし、削除もされなかった。

 

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