武力だけは自信があります 作:GSP
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カビ臭い船底へと続く鉄階段を下りる足音が、薄暗い空間にひどく重く響く。
一段降りるたびに濃くなる湿気に、俺は重いため息を吐き捨てた。
事の発端は、数十分前の清隆からの電話だった。
着信に出るなり、あいつは前置きも文脈も完全に無視した問いを投げてきた。
『お前、一之瀬のことが好きか』
『……んぁ?』
突然のことに一瞬面食らったが、別に隠すようなことでもない。俺は短く息を吐き、正直に答えた。
『好きだよ。それがどうした』
『参考までに聞いておきたいんだが、どこが好きなんだ』
『どこって……可愛いし、性格が好きだ。なんていうか、フィーリングが合うんだよ。まあ、一之瀬が俺をどう思っているかは知らないけどな』
電話越しの清隆は少し意外そうな、それでいて何か貴重な観測データでも得たような、ひどく平坦な声で告げた。
『即答か。……お前が一之瀬を本命にするのは何も問題ない』
じゃあなんの確認だったんだよ……。
『だが、それとは別に、お前には動いてもらいたい案件がある』
『案件?』
『軽井沢恵についてだ』
『……軽井沢? どういう意味だ?』
『あいつの本質は、他者に依存しなければ生きられない寄生虫だ』
『寄生虫……?』
『小・中学校の九年間、あいつは日常的に凄惨ないじめに遭っていたらしい』
『……へぇ。そうなのか。あの強気なギャル様がね』
どこからの情報なのかは気になったが今聞く場面ではないのであえてスルーする。
『その地獄を繰り返さないための生存戦略が、強者への寄生だ。入学直後、あいつはクラスで最も影響力のある平田を盾として選んだ。あいつらは本当の恋人同士じゃない。強い人間の影に隠れ、自分を偽悪的に見せることでしか生きられない生き物なんだよ』
『……なるほどな。平田の奴は底抜けに優しいから、事情を知って自らその「宿り木」を買って出てるってわけか』
『そういうことだ』
『……ん? 待てよ』
俺の脳裏に、入学して間もない頃の些細な記憶が蘇った。
『そういや入学してわりと早めに、あいつ俺にも声かけてきたことあったな。適当にあしらって全然相手にしなかったけど……』
『ああ。平田より先に、お前というわかりやすい強固な武力を宿主にしようと狙っていたんだろうな』
『お前……俺が前にあいつをあしらったことまで織り込み済みで、今回俺を指名したのか?』
俺が呆れ半分で尋ねると、清隆は悪びれる様子もなく淡々と答えた。
『ちがう、頼りになる『友達』だからだ。それに、一度自分を拒絶した相手が、一番絶望している時に圧倒的な力で救い出してくれる。……寄生虫が新たな宿主に依存するには、これ以上ない完璧なシチュエーションだと思わないか?』
……俺の友達、こわーい。
こいつは他人の地獄のような過去を推測で暴き出した上で、俺と軽井沢の過去の些細な接点すらも利用し、一番効率的に依存させるための劇薬として計算に組み込んでいる。
『だが、今の宿主である平田には、平和主義すぎるという致命的な弱点がある。今回の真鍋たちのような直接的な暴力や脅迫に対して、平田では対処しきれない。……つまり、今の軽井沢は宿主に守りきれず、精神が完全に摩耗し、限界を迎える寸前の状態だ』
『……なるほど。平田じゃ守り切れない。だから直接的な暴力から守れる俺が、新しい盾になれってことか』
『その通りだ』
『絶望しているこのタイミングで、お前が新しい盾として救い出せば、軽井沢は古い宿主を捨て、お前に完全に依存するようになる』
『……そこまで上手くいくものなのか?』
『人は極限まで追い詰められた時、自分を救ってくれた相手を過大評価する傾向がある。軽井沢も例外じゃない、依存先が変われば、生殺与奪を握った上で裏からコントロールできる』
一拍置いて、清隆は淡々と続けた。
『だから大和――――クラスの女子を裏でまとめるために軽井沢を上手く管理しろ。繋ぎ止める最も手っ取り早い方法は、疑似的な恋愛感情を植え付け、異性としてお前に完全に依存させてしまうことだ。Bクラスのリーダーと、Dクラスの女子の要。その両方を手駒として抱え込むことができれば、今後の盤面が格段に楽になる』
俺は思わず顔を引きつらせた。
一之瀬への好意を確認した直後に叩きつけられた、突然のエグい無茶ぶりだった。
『……待て、清隆。俺はまだ一之瀬と付き合ってもいないし、シンプルに好きなんだよ、わかるだろ? クラス間の問題に利用する気はない。というか本命がいながら別の女を惚れさせて抱え込めって、お前まーたイカれたこと言ってるぞ……』
『大和なら二人同時に囲い込むことも可能だと判断して、最適なルートを提案してみただけだ。まあいい、とりあえず話を進めよう』
『お前なぁ。そういう裏工作みたいなのは、お前が自分でやればいいだろ。なんで俺なんだよ』
呆れ半分で聞き返すと、清隆は淡々と答えた。
『俺が動けば当然目立つ。それだけは避けたい』
俺は電話越しに、こめかみを押さえた。
相変わらずの徹底した隠蔽体質だ。
だが、ただ裏から手駒を操るだけなら、他にもやりようはいくらでもあるはずだ。
あえて俺を指名したのには、間違いなく別の理由がある。
『今回の件は、小手先の策でその場を凌ぐだけでは意味がない。今後、誰もあいつに手出しできなくなるような絶対的な「抑止力」が必要になる。クラス内でその立ち位置と武力を持っているのは、お前だけだ』
『聞けば聞くほど清隆がやればいいと思ってしまうけどなぁ』
『頼めるか……?』
俺は数秒黙り込んだ。
『……軽井沢が気の毒になってきたな』
『下手な芝居はやめろ大和。お前は興味がない相手には、表向きは人当たりがよくても内心どうでもいいと思っているだろう』
図星だった。
俺の第一優先は健全で刺激的な高校生活であり、関わりのないクラスメイトがどうなろうと知ったことではない。
だが――――
『……それでも、今から助けるなら軽井沢とは他人じゃいられなくなるだろ。情が、嫌でも湧く。お前、それもわかっていて俺に言ってきたんだろ?』
電話越しの沈黙が、何よりの肯定だった。
『……お前なぁ。お前の手駒作りのために、なんで俺がそこまで泥仕事やらなきゃいけないんだよ』
『お前がDクラスの矢面に立てば、絡んでくる奴らが増える。その中には強い奴がいるかもしれないだろ? 俺なら、お前が上手く思いっきり戦えるように状況を整えられる』
それは確かに魅力的な提案だ。
だがそれは相手が本当に強ければ、の話であってだな……。
ただの喧嘩自慢が何人束になってこようが少しも楽しくはない。
俺の基準がバグっているのは自覚しているが、それでも物足りないものは物足りない。
そんな俺の不満を見透かしたように、清隆は最大の切り札を切ってきた。
『……その代わり、頻繁には絶対に無理だが、俺がスパーリングの相手をしてやる』
その一言で思わず思考が停止した。
『マジ?』
『マジだ』
『ガチでやれるのか?』
『ガチなはずないだろ。スパーリング程度の強度なら良いぞ。何度も言うが頻繁には無理だからな?』
『お前とガチスパーがやれるならもうなんでもいい』
『おい、大和、ガチじゃない話を聞――――』
『やる。軽井沢を助ければいいんだな?』
『…………助かるよ大和』
◆
そんな回想をトレースし終えると同時に、俺は最下層の重い鉄扉を静かに押し開けた。
空間に出ると、そこには予想通りの胸糞悪い光景が広がっていた。
真鍋たちCクラスの生徒数人が、床にへたり込んだ軽井沢を取り囲み、陰湿な罵声を浴びせながら、容赦のない平手打ちを叩き込んでいる。
軽井沢は腕で頭を庇い、小さく身体を丸めたまま震えていた。
乱れた呼吸の合間に嗚咽が漏れ、抵抗する気力すら残っていないように見える。
その瞳からはすでに反抗の色は消え失せ、ただ暴力が終わることだけを願っているようだった。
「……ストップだ」
空気を震わせるように、俺はあえてドスの効いた低い声を響かせながら暗がりから姿を現した。
「な……、えっ? し、獅童くん……?」
「どうして、誰も来ないはずじゃ……」
薄暗い船底の閉鎖空間。
陰湿な暴力を振るっていた現場を第三者に見られたというパニックと俺という異物に対する本能的な警戒。
愉悦で歪んでいた真鍋たちの顔から、サッと血の気が引いていくのがわかった。
「どうでもいい。寄ってたかってダサいことしてないでほら、さっさと帰った帰った」
「え……?」
「二度は言わないからなー」
俺が鋭い一瞥をくれると、真鍋たちは隠れて行っていた行為を咎められなかった安堵と、この場に居続けることへの恐怖に急き立てられるように、我先にと走り去っていった。
静まり返った船底。
床にへたり込み、涙と恐怖でボロボロになっている軽井沢が、信じられないものを見るような目で俺を見上げていた。
「……どう、して」
「奇遇だな。俺もどうしてこうなったか考えてたところだ。まぁ、立てよ」
俺は短く告げ、床に座り込む彼女に向けて右手を差し出した。
軽井沢は戸惑いながらも、震える小さな手を伸ばし、俺の手を握る。
彼女の手を引いて軽く立ち上がらせた直後、ふと、違和感を覚えた。
真鍋たちに暴力を振るわれていたのだろう。
彼女の制服のブラウスは乱れ、裾がはだけてしまっている。
そして、その乱れた服の隙間。
彼女の白い脇腹のあたりに、痛々しい傷跡が覗いていた。
「あ……!」
俺の視線に気づいたのだろう。
軽井沢がハッとして自身の脇腹を押さえ、バッと俺から距離を取った。
その顔には、隠していた最大のトラウマを見られたという絶望と、傷に対して俺から嫌悪されることへの怯えのようなものが浮かんでいた。
だが、俺は特に表情を変えることもなく、淡々と告げた。
「服、乱れてるから直したほうが良いぞ」
「……見た……?」
「ああ、見た。……だが、別に隠す必要はねぇよ。お前が昔からいじめに遭ってたことは知ってる」
「……え?」
軽井沢の息が止まった。
瞳孔が大きく開き、顔から一気に血の気が引いていく。
「……なんで」
震えた声は、ほとんど掠れていた。
傷跡を隠すように制服を掻き合わせ、軽井沢は一歩、また一歩と後ずさる。
「なんで……それを知ってるの……?」
声は震え、今にも泣き崩れそうだった。
あの反応を見る限り、この過去は誰にも知られたくなかった秘密だったのだろう。
最大の秘密を暴かれた恐怖で、軽井沢の足がガクガクと震え、今にもその場に崩れ落ちそうになる。
だが、俺がその傷跡を見ても嫌悪も憐れみも浮かべず、ごく当たり前のように接していることに気づくと、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
彼女はボロボロと涙を溢しながら、堰を切ったように自らの口で語り始めた。
「……そう、だよ。私は小中の九年間ずっといじめられてたの。だから、高校では絶対に標的にならないように……誰か強い人に守ってもらわないと、自分を守らないと……」
震える手で自身の傷跡を隠しながら、軽井沢はすがるような目で俺を見上げた。
「入学してすぐ、獅童君にも声かけたの……覚えてる? 外見は怖いけど、自己紹介の時、感じよかったし良い人なんだろうなって思って。だから、私を守ってくれる人になってほしかった。でも、全然相手にしてもらえなかった。だから、平田くんに頼った……」
なるほど。清隆の推測通り、あいつの寄生先の第一候補は、元々は俺だったというわけか。
事情はどうあれ、一度は俺が突っぱねたことで、こいつはあんな連中に追い詰められることになった。
「これからは俺が助ける。誰かが手を出してきたら、俺が全部ぶっ飛ばしてやる。……生きていれば、誰だって色々事情がある。他人の事情を無闇に言いふらすような趣味は俺にはない」
「……」
軽井沢は呆然と俺を見つめていた。
「……どうして? 前は相手にしてくれなかったのに……私の過去を知ってて、どうしてそこまで……」
警戒と戸惑いが入り混じった声。
タダで救いの手を差し伸べられることなどないと、彼女の生存本能が警鐘を鳴らしているのだろう。
俺は肩をすくめた。
あやふやな善意より、ある程度しっかりと契約内容を提示してやった方が、こいつも安心するだろう。
「勘違いしないでほしいけど、俺はただの用心棒だからな。俺には『雇い主』がいるんだよ」
「雇い主……?」
ちょうどその時、俺のズボンのポケットでスマホが短く震えた。
画面を開くと、送信元は当然、清隆。
添付されていたのは、ついさっき、この船底で撮影されたばかりの動画ファイルだった。
(清隆の野郎、やっぱり死角から撮影してやがったな)
俺は内心で息を吐きつつ、画面をそのまま軽井沢の目の前に突きつけた。
「あっ……!?」
画面に映っていたのは、真鍋たちに罵倒され、暴力を振るわれている軽井沢自身の姿だった。
過去のトラウマをえぐられるような映像に、軽井沢がビクッと肩を震わせる。
「これ、は……」
「……安心しろ、軽井沢を脅すためのものじゃない」
絶望で顔を青ざめさせる軽井沢に、俺は淡々と告げる。
「真鍋たちに対する完全な脅迫材料だ。これがある限り、あいつらはお前の過去を絶対に口外できないし、手も出せない」
「でも……」
「雇い主は、お前が今回の特別試験で『優待者』だってことも知ってる」
俺がその事実を口にした瞬間、軽井沢の肩が大きく跳ねた。
「とにかく、お前の安全は、俺とこの動画で完全に担保される」
「……私になにをさせたいの?」
「お前の立場を守る代わりに、雇い主はお前にクラスの女子をコントロールしてもらいたいらしい。Dクラスを上にあげたいんじゃないか? まぁ、そういうビジネスだ」
「なに、それ……」
俺の言葉を聞いて、軽井沢の瞳に微かな思案の色が浮かんだ。
「ただ、勝手に助けた俺が言うのもなんだが……これからはもう少し、周りに信頼されるように振る舞ったほうがいいんじゃないか?」
「それって、どういう……」
「もっと周りのことを気にしてみんなに信頼される人物になれば、結果的に味方も増えて軽井沢にとっても得しかないんじゃないかと思っただけだ」
俺なりの不器用な励ましとアドバイス。似合わないと思い苦笑する。
軽井沢は押し黙り、何かを考えるように伏し目がちになっていたが、やがて顔を上げると、憑き物が落ちたようなスッキリとした表情を見せた。
「……うん。わかった」
「契約成立でいいか?」
「選択しなんてないでしょ。でもね、獅童君には、助けてもらったしその恩返しくらいはしたいなって」
うん?
「ん? ……待て違う、俺は雇い主の命令で──」
「助けたんでしょ?」
俺の言葉を遮るように、彼女はおかしそうにクスクスと笑った。
「でも、それでもこの場所で私を助けてくれたのは、その雇い主じゃなくて獅童君じゃん。私にとってはそうなんだから、別にいいでしょ」
「……まぁ」
確かに、実際に行動を起こしたのは俺だ。そう言われてしまえば反論の余地はない。
俺が頭を掻きながら息をつくと、軽井沢は俺の目の前に、小さな右手を差し出してきた。
「じゃあ、お互い、改めて契約成立ってことで」
俺がその手を握り返すと、彼女は何かを確かめるように、少しだけ力強く俺の手を握り返してきた。
「……改めて思うけど。手、おっきいね。それにすごいゴツゴツしてる」
「なんだ? 軽井沢って手フェチかなんか? すごい握ってくるじゃん」
俺がわざとからかうように笑うと、軽井沢はハッとしたように顔を真っ赤にして俺の手を振り払った。
「ち、ちがうっ……!」
彼女は必死に取り繕うように睨みつけてきたが、そこに先ほどまでの怯えはない。
「少しは調子戻ったか?」
「あ……」
俺は階段の方へと歩き出した。
「じゃあ契約のほうよろしく。じゃあな」
そう言って薄暗い船底から続く階段を登りきり、重い鉄扉を開けて居住区画の明るい廊下へ出た直後だった。
ズボンのポケットに入れていた俺のスマートフォンが、再び短く震えた。
画面を開くと、清隆からたった一言だけメッセージが届いている。
『上出来だ』
その無機質な文字列を見て、俺は天井を仰いだ。
……やっぱりな。
清隆、一部始終を撮影した上で俺が軽井沢の懐に入り込む様子まで完璧に監視してやがったというわけだ。
俺が『雇い主がいる』と口にしたのも、あやふやな善意より明確な契約の形をとった方が軽井沢も安心するだろうという、実利的な判断からだ。
これは清隆の指示ではなかった。
だが、この返信を見る限り、結果的にそれが軽井沢の心を少しでも解きほぐすきっかけになることすらも、全てあいつの計算通りだったに違いない。
それに、清隆が言うには、俺がここで表立って軽井沢を庇えばCクラスのトップである龍園あたりが俺を標的にしてくるだろう、とのことだが。
自分が情けないが、なにがどうしてそうなるのか一向にわからない。
もっと深く思考しろと清隆には怒られそうだが、これ以上面倒なことを考えるのは俺の性に合わない。
俺がそんな風に思考を打ち切り、スマホをポケットにしまおうとしたその時だった。
背後の重い鉄扉が、ギィッと小さな音を立てて再び開いた。
「……あの、さ」
振り返ると、そこには乱れていた制服のブラウスをきちんと着直した軽井沢が立っていた。
まだ少し目元は赤いものの、先ほどまでの絶望感はすっかり拭い去られている。
「ん? どうした」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ気まずそうに、ふいっと視線を逸らした。
「……連絡先、まだ交換してないから」
「連絡先?」
「私のボディーガードになってくれるなら、いつでも連絡つくようにしておかないと、困るでしょ?」
……締まらない凡ミスだ。清隆に知られたら呆れられるだろうな。もう遅いか。
「……ああ、そうだな。契約相手と連絡がつかないのは問題だ」
俺は苦笑しながら再びスマホを取り出し、彼女に向けて画面を提示した。
短い電子音が鳴り、俺の連絡先リストに『軽井沢恵』の名前が追加される。
ふと、画面の端に清隆からの『それはそうと、船内のスポーツデッキで面白そうな施設を見つけたんだが。後で行かないか?』という気の抜けたメッセージが見えたが、今は無視することにした。
「じゃあ、私、そろそろ戻るね」
「ん。気をつけてな」
「……うん」
それだけ言い残すと、彼女は自分の客室がある方向へと小走りで向かっていった。
途中、一度だけこちらを振り返り、足早に角を曲がって姿を消す。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく首を鳴らした。
これで完全に、軽井沢とは無関係じゃいられなくなってしまった。
清隆の描いた盤面の上で踊らされている気分は複雑だ。
清隆が俺に向ける感情に、普通の高校生のような温かい友情が存在しないことくらい、とうに気づいている。
あいつにとって俺は、例えるなら『愛着が湧いてきた、使い勝手のいいお気に入りの道具』くらいでしかないのだろう。
だが、それでも構わない。
あいつが俺を手駒として扱い、何かしらの試練を与えて成長させようと企んでいるのだとしてもいい。
俺にとって清隆は、変わらず気の置けない親友だ。
それに、あいつの強引なやり方に乗っかっていれば、軽井沢も、いつかは過去を乗り越えて自立できるのだろうか。
……できるんだろうな。清隆はそこまで見越して動いているんだろう。
一之瀬には……誤解されないよう隠し通す努力はするつもりだが、俺の性格上、案外すぐにボロが出てバレてしまう気もしている。
「……まいったな」
けれど、それでも――連絡先を交換した後、安堵した表情でスマホの画面を見つめていた彼女の控えめな笑顔を思い出す。
『軽井沢はクラスを掌握するための「便利な手駒」として割り切ってコントロールすればいい』
電話越しに聞いた清隆の冷酷なロジックを頭の中で反芻し、俺は自嘲気味に口角を上げた。
「……便利な手駒か。あんな笑顔を見せられて、きっちりそう割り切れるほど俺が器用じゃないのをわかっているだろ」
怯えるクラスメイトを助け出したこと自体に、後悔は全くなかった。
◆
同日、客船内のラウンジ。
少し離れた席で、大和がジュースのストローを噛み何度か相槌を打ちつつ、その隣で軽井沢が楽し気に笑顔で話しかけている。
その光景を遠巻きに眺めながら、俺は手元のコーヒーに口をつけた。
「……驚いたわね。まさかあの二人が接点を持つなんて」
隣の席に腰を下ろした堀北鈴音が、鋭い観察眼を光らせながら呟いた。
「単なるクラスメイトの交流だろ」
「とぼけないでちょうだい。彼は表向きの人当たりこそいいけれど、自分と他者との間に明確な線引きをして、決して内側に踏み込ませない壁を作っているタイプよ。それは普段の彼の振る舞いを見ていればわかるわ」
堀北は何が起こっているのかわからないといった表情で続けた。
「……それなのに、あの獅童くんがいきなりあそこまで壁を取り払って、クラスの女子と馴れ合うなんて不自然極まりない。絶対にあなたが裏で何か糸を引いているんでしょう?」
「買い被りすぎだ。俺は何もしていない」
「いいわ、あなたが認めないのはいつものことよ。でも、あれはDクラスにとって劇的な変化だわ」
堀北は呆れたように小さく息を吐き、獅童という人間の『手札としての価値』を口にし始めた。
「獅童くんのずば抜けた身体能力……他クラスへの圧倒的な抑止力として機能するその『武力』、といえばいいのかしら? 私も素直に認めているわ。コミュニケーション能力も持ち合わせているし、運動や格闘の場における咄嗟の機転や対応力に関しては、間違いなく学年トップクラスの逸材だと思うわ」
「……」
「けれど……言い方を変えれば『それだけ』とも言えるわ」
「それだけ、とは手厳しいな」
「事実でしょう? 彼の長所は、限定された局面に特化しすぎている。学力や緻密な交渉事、何手も先を読むような謀略の分野に関しては、良く見積もっても平均止まり。それに彼自身、そういった複雑な状況を自分から構築しようとするタイプではないわ」
俺は相槌を打つこともなく、ただ無言で堀北の横顔を見つめた。
彼女の分析は、相変わらず正確に的を射ている。
「だからこそ、彼には誰かが『どう動けば最善か』という設計図を渡してあげる必要がある。この学校において直接的な暴力は即退学に繋がるリスクでしかないけれど……ルールの枠組みの中でギリギリのラインを計算し、彼を正しくコントロールできれば、他クラスの悪意を完全にシャットアウトする最強の『物理的な防波堤』になる。これまでは、その手綱を握れるのは綾小路君だけだった」
「……そんなことはない。一之瀬の言うことなら聞くんじゃないか?」
「いいえ。彼の手綱を最も確実に握れているのは、間違いなくあなたよ」
「手綱とは失礼な。俺と獅童は友達だぞ」
俺が抑揚のない平坦な声でそう返すと、堀北は呆れたようにフッと鼻で笑った。
「面白い冗談ね」
「おい失礼だぞ」
「よく言うわね。……でも、さっきの様子だと、彼を動かせる『特別な立ち位置』に、軽井沢さんが一之瀬さんを猛追する勢いで入り込んでいるように私は見えたわ」
ジッとこちらを射抜くような視線を向けてくる堀北。
「そうか? 俺にはわからないが」
「……そう。まあ、あなたが裏で糸を引いていると認めるはずもないわね」
疑いの眼差しを向けてくる堀北を適当にいなしながら、俺は内心で冷めたコーヒーを飲み込んだ。
事実、直接泥仕事をこなして懐に入り込んだのは大和であり、俺はほんの少し道筋を整え、きっかけを与えたに過ぎない。
だが、結果として大和は、俺の期待以上に完璧な仕事をしてくれた。
大和自身、己の適性をよく理解している。
あいつは面倒な裏の読み合いや複雑な謀略を嫌う。
だからこそ、全体を描く戦略は全て俺が担ってしまえばいい。
俺が退学にならない絶対的な安全圏を用意してやるからこそ、あいつは迷うことなく圧倒的な自分の能力を振るうことができる。
そうやって限界まで力を振るわせることで、大和も、そして軽井沢も、さらに成長させることができるはずだ。
これは実験だ。失敗してもなんとでもなる。
今回、大和が気を利かせて軽井沢に明確な契約を提示したことで、彼女は大和への絶対的な安心感を抱いたはずだ。
(獅童が軽井沢を管理するだけでなく、軽井沢の存在が、学校生活に無頓着な獅童をDクラスに繋ぎ止める『錨』にもなり得るか……)
複雑な策を練るのが苦手な大和にとって、軽井沢恵というわかりやすい、守るべき対象ができたことは、今後の特別試験において大きな意味を持つ。
扱いの難しい強力な手駒と、新たな宿主を見つけ依存し始める寄生虫。
この劇薬の組み合わせが、今後Dクラスにどのような化学反応をもたらすのか。
俺は平穏な高校生活を望む一人の学生として、その行く末を見守らせてもらうとしよう。
余談だが。このあと、大和や平田、軽井沢や一之瀬たち試験グループの面々と合流して向かった船内のスポーツ施設は、とても楽しかった。
皆さんの「格闘技への関心・知識」はどれくらいですか?
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国内外の試合を日常的に見ている
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国内の有名団体を見ている
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漫画やニュースでなんとなく知っている程度
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普段は全く見ないし、知識もほぼない