「……おお」
「無事に成功しましたか……」
光が収まると同時、切り替わっていた目の前の光景に感嘆の声をあげるクロウと対照的に、ミューは安堵の息をついた。
周囲を観察する。
ごつごつとした岩肌が所々むき出しになった大地。遠くには植物が生い茂った森のような場所も見て取れ、耳を澄ませば水音も聞こえる。
まずまず、整った環境に転移できたと言えるだろう。
「悪くないですね。階層全体が火山になっていたり、湿地になっている可能性もありましたから」
「迷宮にはそんな場所もあるのか」
「らしいですよ」
ミューは周囲を見回しながら問いかける。
「それで、これからどうします? ひとまず、この辺りの探索でもしてみますか?」
「そうだな。おれはこの場所を知らないしな」
「まあそれはそうでしょうが」
ミューは辺りを見渡す。
幸いにも、近くに小高い丘が見えた。その上からなら、ある程度遠くまでこの階層を見渡すことができるだろう。ひとまず登ってみることにした。
◇◇◇
「……クロウさんクロウさん」
「どうかしたか?」
「私、もしかしたらかなり困ったことに気づいてしまったかもしれないのですが」
「なんだ?」
「この階層、私たち以外に人の気配がありません」
「困ったのか?」
「困りました」
そして数十分後。
二人は登った小高い丘から周囲を一望し、そんな会話を交わしていた。
見渡す限りに広がるのは草原と森林である。
最低限の人の痕跡……建造物や畑、道などは全く見えない。どう見ても自然そのままの大地が目の前には広がっていた。
「なんで困っているんだ?」
「いえ、ですから。……私たち以外に誰もいないということは、ここはまだ人類が到達していない階層なのでは?」
「ふぅん」
……駄目だ、危機感が無い!
ミューは頭を抱えた。
迷宮に潜るまでの期間で可能な限り、ミューは情報を集めた。
それによると、迷宮という存在の最も理不尽かつ有益な点とは、『領土の無限の拡張』にあるらしい。
階層を一つ攻略するごとに、再現された過去の世界がそのまま手に入る。無論、手に入る範囲や運用に幾つかの制限は存在するが、それでもそこに存在したものは当時の気配そのままに残されていて、溜め込まれた財も、未来では使い果たされた資源も、幻想ではなく実在のものとして地上に持ち帰ることが可能である。
さらに言えば、尽き果てぬ土地そのものが、迷宮のもたらす最大の資源でもある。最悪、他の資源が無くともそれだけで十分に釣りが来る。開墾により食料を生産できる新たな土地が手に入るのであれば、階層の攻略にかかった犠牲には十分以上に釣り合う成果となるだろう。
そして、だからこそ、目の前の『完全に手付かずの自然』が残された光景が持つ意味は重大である。人類がすでに到達している階層であれば、こんな状況が放置されるはずも無いのだ。
そこには少なくとも階層の保守に携わる誰かがいるはずであるし、最低限、人が歩き荷を運べる路が整備されているはずである。
つまり、ここは迷宮の深奥も深奥、人類未到達の最深階層である可能性が高い。しかしクロウはそれを認識したうえで、不思議そうに首を捻った。
「あんまり関係なくないか。人のいるところまで行けばいいだけだしな」
「まあ、それはそうなんですが……」
ミューは若干、浮かない表情である。
それは迷宮という機構の、
迷宮で再現されるのがいつ時代の世界であるのか、それは潜ってみるまでわからない。そこに人が暮らしているのか、文明が存在するのか、それも潜ってみなければわからない。
そこが地上であるのか、海の底であるのか、はたまた天空の雲上であるのか、それすらも到達してみるまではわからない。
だが、たった一つ、共通した法則がある。
────未踏階層には、『災厄』が存在する。
過去においては対抗できず、打ち斃すことなど程遠く、ただただ畏れられ、その時代に災禍をもたらした────『災厄』が必ず、そこに在る。
リスクとリターンは表裏一体である。過去に刻まれた
災厄を踏破し、過去を塗り替える。
それこそが、迷宮のさらに奥深くへと進むため架せられた試練である。
ミューは恐る恐るクロウに聞いた。
「クロウさん。一応聞きますが……階層を下るつもりでは無いですよね? 迷宮の上層を目指すんですよね?」
「む……」
「ここが未到達の階層だということは、エウーリアさんは上の階層にいます。つまり下の階層に向かう意味は無くて、私たちはただひたすらに上層を目指す。そうですよね?」
「ああ、そういうことか。ミューの言うとおりだな」
ミューはひとまず胸を撫で下ろした。
「ではクロウさん、約束しましょう」
「なんだ?」
「『災厄』とは戦ってはいけません。いいですね?」
「災厄ってなんだっけな……」
「ボスですボス。たぶんめっちゃ強いはずです」
「おれは別に強いやつと戦いたいわけじゃないから、戦わないと思うぞ。でも、勝てそうなら殴り殺した方がいいんじゃないか?」
「上に向かうだけなら戦う必要なんてありません。さっさと上の階層への扉を見つけて、この階層とはおさらばすればよいのでは?」
相手は過去の世界を蹂躙したという実績を持つバケモノである。それに対してこちらはたったの二人、そのうち一人がか弱いメイドとあっては、『災厄』を打ち倒すことなどどう考えても不可能。
そうミューが説明すると、クロウは感心したように頷いた。
「なるほど。ミューは物知りだな」
「……あの。敢えて気にしまいと思いながら話していましたけど、今話したこと全部、クロウさんと一緒に得た知識ですよね? クロウさんも聞いていましたよね? 何を初耳のような雰囲気を出しているのですか」
ミューがそう指摘すると、クロウは油の切れた人形のようなぎこちない動作で視線を逸らした。
「……まあ。うむ、そうだったな」
「とりあえず『災厄』とは戦わない。……これだけは覚えておいてください。命に関わりますので。いいですね?」
「うむ。おれはミューの言うことはいつでも完璧に理解している」
無駄にハキハキとしたクロウの返事からは逆に内容を理解しているのか不安になって来るが、まあいいだろう。
ミューはこれからの行動をまとめる。
「……でしたらとりあえずは、そうですね。手頃な拠点でも探しに行きましょうか。これだけ広いんです、上の階層へ上がる扉を見つけるだけでもそれなりに時間がかかりそうですし、一ヶ所安心して休める場所があるだけでもかなり心理的に楽かと思います」
「おれはここでいいと思うんだが。地面に草が生えていて柔らかいぞ」
「はいはい原始人レベルの生活感覚で拠点を決めるのはやめましょうね。せめて屋根くらいは求めてください。……あ、あの辺りの洞窟なんかいいかと。早速向かいましょうか」
ミューは先に歩き出して手招きする。
クロウは初めて見る景色をもう一度ゆっくりと見渡してから、その後に続いた。