「……」
「……」
クーが岩壁に向かってパンチを繰り出そうとする様を、クロウがじっと観察する。拳を引く。そして突き出す。そのたったの二動作から成り立つ動きは、雑魚とはいえ魔物であるクーの手にかかれば恐ろしい勢いを生み出す。
繰り出された拳は的確に岩肌を捉え、恐ろしい勢いで衝突し、そして────。
────ぷに、と音を立てた。拳が。
「……」
「……」
無表情のクロウと無表情のクーが同時に顔を見合わせた。そして同時に頷き、肩をすくめ、ふーやれやれとばかりにため息をつく。
クロウが言った。
「うむ。クーには無理だな」
クーもこくりと頷いた。
熱血とか根性とか、そんな魔物にあるまじき決意的なものに浮かされそうになっていたこともあったかもしれない。けれどそれは所詮過去の話、過ぎ去ったいつかの記憶でしかなく、簡単に言うならばクーのテンションはもう下がっていた。
「……普通に触るときは大丈夫なのになぁ」
クロウがクーの手を取り、ふにふにとつつく。その感触は確かに肉があり、骨があるように思えた。しかしいざその拳を岩に叩きつけるとなると、どうやらクーの腕はその構造が解除されて、人間の身体を模しただけの何か柔らかい別物に変わってしまうようなのだ。
もともと変形することが特徴の魔物であるが故に、もはやそれはクーの意思ではなく、本能に根ざしたもののようだった。
「……というかクー、お前はどうやって獲物を倒すんだ」
「……」
よく考えなくてもクーの攻撃性能はゼロである。殴るとぷにっと音がするだけの拳で、一体どうやって敵を倒すというのか。
クーは無言で腕を大きく広げ、背伸をするような動作をした。客観的に見てそれはどう考えても深呼吸のそれであり、常人には計り知れない魔物の叡智を感じさせる仕草だったが、クロウはその動きからクーの言わんとすることを看破した。
「そうか。クーは相手にまとわりつくんだったな」
クーは頷く。
クロウは思い出した。最初に宝箱を開けた時、クーはスライムのようにクロウに覆いかぶさって捕まえ、窒息させようとしてきたのだった。
「だがなクー、おれは上手に広がる方法なんか知らないぞ」
「……」
クーは微妙な視線でクロウを見る。
……いやまあ。クーとしても、別にそれを教えて欲しいと思っていたわけではないのだ。流石のクロウも軟体化して膨張することは無理に違いない。
だが、クロウの言うことも、方向性としては間違っていない。クーの求めていた修行というのは要するに、単純な戦闘能力というよりも、自分の特殊能力を伸ばすという方向性の修行だったのだから。
クーは悩んでいる様子のクロウの背中を、ちょいちょいとつついた。
◇◇◇
駄目だ。クーが強くなる道筋が見当たらない。
雑魚はしょせん雑魚なのだろうか……? あまりにも世知辛いこの世の真実に気づきかけたクロウは、クーにつつかれてはっとする。
振り返るとクーは手を差し出し、ソレを見せた。
「……蝶々、か?」
クーが頷くと、クロウは不思議そうにクーの手のひらを覗き込む。
そこには、つい先ほどまでクーが追いかけていたものとそっくりのちょうちょが、逃げもせずにおとなしく留まり、その鮮やかな色彩の羽を時折、開けて閉じていたのだ。
「捕まえたのか? ……いや」
「……」
「……これ、クーか」
クーは頷く。
クロウの驚いた表情を見るのは珍しい。なにせこの少年は、驚くとかなんとか以前に、大抵のものをあってもなくてもどうでもいいものと位置付けている。どうでもいいものがどうであろうと驚くには値しないわけで、そんなクロウから驚きという感情を引き出せたのは、少しだけ誇らしかった。
クーが両の手のひらをゆっくりと閉じて再び開けると、ちょうちょの姿はすでに消えていた。それも当然、なぜならばそのちょうちょは、クーが自分のミミックとしての能力で創り出した……否、真似たものだったのだから。
胸を張ってクロウに説明する。
「……。……。……! ……。……。……!」
言葉にすればとてつもない分量になる熱弁であった。
どれだけ精巧に真似られるか、そしてどれだけたくさんのものに真似られるかは、ミミックとしての生命線と言ってよい。というかミミックには、その能力しかないのだ。
だがクーのそれは今、ある意味で縛られている。従魔となったことで、本来であればミミックが当たり前に備えているはずのテレパシー能力……相手の欲する姿になるという能力が、うまく働かなくなっているのだ。
一番最初にこの姿になった時は上手く変身できなければ殺されるという恐怖もあってか能力の発動に成功したのだが、それ以来成功していない。
恐らくは主人の頭を不必要に覗けないようにという、ある意味で本能による現象なのだろう。赤の他人に試すことができれば良かったが、しかしこの階層に赤の他人はいない。このままでは能力を鍛えようもないのだ。
「……。……!」
「ふむ。おれの考えていることを覗きたいのか。いいぞ」
となれば。
了解をとってから、考えていることを覗かせてもらうしかない。
クーは目の前のクロウに意識を集中する。今なら一時的に、クロウの考えていることを読み取れるはずだ。それをどれだけ精巧に再現できるか、それがミミックとしての修行であり腕の見せ所である。
「じゃあそうだな……ミューの真似」
「……」
「おお……」
一瞬だけ黒い靄が現れて、それが晴れて出てきた姿にクロウは感嘆の声をあげる。
なぜならばそれは、クロウの予想以上にミューの姿だったのだから。単純な姿形以外に頼れば────重心の位置や表情や、そんな細かいところに注目すればクロウにも見分けられるかもしれなかったが、初見では確実に騙される。
「手首は抜けるのか?」
「……!?」
しかしその質問には、クーは必死になって首を振った。できるかできないかで言えばたぶんできる。だってミューそのものに変身しているのだから。でも、だからと言って自分の手を切り離すのは普通にやりたくない。
そんなクーの思いとは裏腹に、クロウは納得したように頷く。
「そうだな。よく考えたら手首が抜けていいことなんて一つもないもんな。うむ、クーはかしこいな。……じゃあ次はそうだな、エウーリアの真似をしてくれ」
「!」
見たことのないものの模倣。それこそ、ミミックの真骨頂と言ってよい。
再び黒い靄がクーを隠し、一瞬後には金髪の少女がそこに立っていた。
「おお……?」
風に揺れる金髪に華奢な身体。どこか気品のある顔立ちに、真紅のコートを羽織った装束。……それは記憶と寸分違わぬ姿で、しかしクロウは困惑の声を漏らした。
おかしい。どう見てもエウーリアなのに、まるでエウーリアに見えない。うまく真似られていないのかと慌てるクーに声をかける。
「いや、別にエウーリアと違うわけじゃないんだ。だけどな、なんか違う……」
「?」
「うーむ……なんだろうな、エウーリアってメガネとかかけてただろうか。たぶん違うと思うんだが、うむ。もしかしたらそんな気がしてきた」
「!?」
クロウのイメージに従ってクーが姿を変える。縁の小さいメガネをかけて困惑するエウーリアがそこにいた。無論、クロウは首を傾げた。
「いや違うな。メガネじゃない気がする。……しっぽとか生えてただろうか」
今度はメガネが消え、ふさふさのしっぽが生える。
無論、クロウは首をひねった。
「なんだろうな……もしかしてエウーリアはメイド服とか着ていただろうか……?」
クーはもはや混乱の極みである。
何しろ、クロウの抱くエウーリアという人間に対する視覚的なイメージがころころ変わるのだ。現れたエウーリアはメイド服に身を包みながらもじもじとし、上目遣いにクロウを見上げていた。
「うむ……」
クロウはそれを見て唸った。よくわからないが……いい。悪くない。これはいいものだ。クロウの中に、言葉にはできないパトスが生まれようとしていた。それに従い、クロウは注文をつける。
「……多分違うと思うんだが、念のためそれでもっとあざとい格好をしてみてくれ」
「!?」
「おお……。……あとは腰をもっとこう、くいっとだな。うむ。そう、それだ」
「!?」
「うむ……他には表情をあと少し、こう、ちょっと生意気な感じで……」
「!?」
クロウは注文通りのポーズをとったクーをじっくりと、それはもうじっくりと観察し、大きく頷く。
「……。……うむ。もう全然エウーリアじゃないと思うが、それ、いいな。おれはそれ、好きだぞ。なんだろうな、こう、うまく言葉にできないが、心に込み上げてくるものがある」
精神的にある意味大幅な成長を遂げようとしていたクロウはそこでハッとし、ぶんぶんと頭を振る。違う、これは確かにいいものだが、やはり全然エウーリアではない。
数分ほど考えたのち、クロウは一つの結論に至った。
「うむ。気迫というか、気配が違うな」
「……」
クーは元の姿に戻り、じとっとした目でクロウを見ていた。
どないしろと?
クロウはその視線から目をそらすように次のお題を口にした。
「じゃあ、あれだ。親方」
「……」
クロウはぼうっとしながらクーの変身を待った。だが今度に至っては、クーは変化すらしない。いつもの少女姿で、ただひたすら困惑している。
そしてクーはクロウに、無言の抗議をした。
「……親方の見た目? ……うむ、そうだな……腕と足があって……目とか鼻とか口とか……うむ……人間の……男……?」
「……」
「ク、クー?」
クーはいじけた。体育座りで地面に座って、顔をぷいっと背けた。
どう考えても最初から頼む相手が間違っていた。こんな知り合いの少ない、その上一ヶ月会ってない知人の姿形を綺麗さっぱりと忘れてしまう薄情系ご主人様に特訓の協力を求めたのが、そもそも間違いだったのである。
クロウはそっぽを向いたクーに一通りおろおろし、とりあえず何か食べれば機嫌が直るはずだという冷静な仮説を立て、その辺の魔獣を殴って頑張って魔晶を取り出し、それをクーに渡した。
クーはすぐに魔晶をぽりぽりと食べ始めて機嫌を直した。ちょろかった。
◇◇◇
「あ、クロウさん。どうでしたか? ご主人様として成長できましたか? とりあえずその、今日からお食事は私があーんで……」
「ミュー」
その夕方。
大きめの魔晶を嬉しそうに食べているクーを伴って帰ってきたクロウにミューが内心わくわくしながら聞くと、クロウは深刻な声で答えた。
「おれはな、気づいたんだ」
「はい?」
「もしかしたらな、おれは魔獣を殴っている時が一番、安らげるのかもしれない」
「!?」
「うむ、そうだな。何も考えずになにかを殴るのは、楽だな……」
「それ、修羅道ってやつですから! 入っちゃいけない道ですから! カウンセリング! いいからカウンセリング受けましょう、ねっ!?」