「クーちゃんは魔晶を正確に並べてください! 魔力がギリギリですから、ちょっとしたほころびもアウトです!」
神殿の前には大魔法陣が描かれようとしていた。自身も慎重に魔法陣を描きながら忙しなく支持を出すと、クーがせっせと魔晶を並べていく。
魔物だからこそだろうか、クーはとりわけ恐れが強いようで、まともに動けるかと心配だったが……杞憂だったようだ。恐れが無くなったわけでは無いだろうが、クロウが時間稼ぎに向かってからは恐怖を押し殺して立ち上がり、必死に動いている。
「クロウさんを死なせません! 一刻も早く完成させます!」
「……!」
その言葉によりさらに懸命になるクーを見れば、それ以上の言葉は必要無いとわかった。ミューは自分も手を休めず、けれどもクロウの安否に思いが振れるのを抑えきれない。……クロウを行かせてしまった。それが正解だったのか不正解だったのかわからない。だが、今すべきことは明白。
最善を尽くす────最速で魔法陣を完成させる。
自分の動きがあまりにも遅くて焦れる。ミューは必死に集中する。……クロウが接敵したのか、地が揺れる。だがそれ以上の戦況をミューが窺い知るすべは、なかった。
◇◇◇
クロウは敵を見る……否、見上げる。
猿のような……ミューの言うにはゴリラのような、銀毛を纏う怪物は、その赫く燃える眼でクロウを見下ろした。
身の丈はクロウの身長のおよそ数十倍、体重に至っては比べるも馬鹿馬鹿しい。かつてエウーリアと倒した精悪樹と比べればサイズは劣るだろうが、破壊力はこの敵が遥かに優っている。
だが────それがなんだというのか?
握った拳がゴキリ、と音を立てる。
クロウはその硬く握り締めた拳を頼りに突貫した。
「……ッ!」
同時に上方から、暴力を可視化したかのように叩きつけられる巨大な拳。その速度、脅威は予想を遥かに上回る。
ならば────地を蹴り踏み込み、クロウもまたさらに加速する。
目の前の三歩先に死が迫っている。
クロウはそこで急停止し、その制動力全てを右の拳に込めて叩きつけた。
少し遅れて、爆心地から音が生まれる。
「ぐ……ッ!」
クロウの拳と巨猿の拳が同時に弾かれた。
オオォンと、とても生き物の一部同士が衝突したとは思えない、鈍く巨大な音が反響する。二つの力の激突は土塊を巻き上げ、風を伴った。
クロウは数十歩ほど吹き飛ばされ、地を削りながらようやく停止する。クロウの拳は迫り来る拳を弾き飛ばし、けれどもそれだけだ。敵に損傷はあるまい。そしてそれはクロウにしても同じこと。特にダメージは無い。
だが────。クロウは一瞬の交錯だけで理解した。
これでは駄目だ。
正面から殴りあってもクロウが負けることはないだろう。だが、拳がぶつかり合うたびに吹き飛ばされては足止めにならない。
絶対的なサイズの差は覆しようがない。単なる撃ち合いは少なくとも今、取るべき行動ではなかった。
再び迫る巨大な拳を今度は避けながら、クロウは頭に血を巡らせた。
────どうやって戦う。
……勝てないなら逃げる。
これまでクロウはそうして生き残ってきた。当たり前だ。何故、敵わない相手と戦わねばならない。死ぬだけだ。
だが今のクロウの背後には、退けない理由がある。戦うべき理由がある。……そういうものができた自分が、クロウは嫌いではない。
「……なら、なんとかするしかないな」
再び上空から拳が迫る。それは絶望的なまでの速度と質量を有する、ある種の無機質さすらも含んだ一撃。頭上から破壊が迫ってくる。
────激突するその瞬間、クロウは動きを変えた。地に足付けて真正面から対抗しようとするこれまでの身体操作を捨て去り、小回りを重視しつつ危機にあってむしろ脱力する。
降りかかる巨大な暴力を腕で僅かに弾く。しかしその余波ですらも膨大であり、かわし切れない余波がクロウの身体を木の葉のように吹き散らす。
「こういうのは初めてだな……」
────否、違う。そうではない。
クロウは衝撃に逆らわず、自分から吹き飛んだのだ。
空中で態勢を立て直し着地したクロウは、困惑と怒気を示す敵にどうせ伝わらないと知りつつもそう話しかけた。
「おれが殴っても死なないやつってあんまりいないからな……あまり得意じゃないな、こういうの。難しいし面倒だ。いつまでやればいいんだろうな」
そうぼやきながらも、それしか方法が無いのだから仕方がない。
巨獣が吼える。
次の瞬間に放たれたのは絨毯爆撃のような波状連打だった。
一撃で仕留められぬなら数を増やせばいい。
その思考とも言えぬ野生の選択は当然のように最適解であり────しかし、クロウを捉えることはできない。
クロウは一撃目を弾く。瞬間を引き伸ばした意識の中、迫り来る二撃目を躱し、三撃目を拳で逸らす。地に足がつくやいなや地が砕けるほどの勢いで踏み込み、加速しつつ進行方向を変える。
延々と降り注ぐ拳や足、一つ一つが巨大な柱のようなそれの隙を直撃をいなしながら、予測不能に回避する。
論理立てて理解せずとも、クロウの戦闘経験は知っていた。
敵の関節、筋肉、その動きを把握できれば、次の動きを予知することができる。予知できるものを躱せない道理はない。
ただ、分かりきった敵の攻撃をいなすことだけに集中する作業。一方的に攻められつつも、けれど決して敗北はしない。
それがクロウの選択した戦いだった。
◇◇◇
『災厄』は苛立ちを募らせていた。
無法者の存在には目覚めてすぐに気づいた。
あろうことか墓所に潜り込み、我が物のように居座っている。さらに近づいてみれば、小癪な結界までも張られているという有様。あり得ぬ不遜だ。
そのくせ表に出てきたかと思えば、立ち向かうでもなく無様に死ぬでもなく、ただ淡々と攻撃を避けている。その動きは荒々しいようで滑らかで、驚くほどに的確だ。捉えることができない。
災厄の理性はこの失われた数百年でとっくに蒸発し、知性は狂気と悪意に捻じ曲げられている。魔晶化した心臓からは魂を狂奔させる無限の紅い魔力が全身に充填され、発狂するかの如く破壊衝動を送り込む。
だが、変わらないものもあった。
かつてあらゆるものを蹂躙し統べた、覇者としての矜持。数百年の歳月も迷宮から供給される禍々しき赫い魔力も、それを奪い去ることはできない。
屈辱────跳ねるだけの雑魚に愚弄されている、この状況を他になんと呼べばいいのか。圧倒的に屠る以外に、それを拭う方法はない。
そして『災厄』とって、それは決して、難しいことではなかった。
◇◇◇
既に戦いが始まって十数分。クロウは敵の攻撃を捌きながらも、徐々に余裕ができている己に気がついた。
スタミナにはいくらでも余裕がある。拳一つ分の余裕を持っていた回避が指一本分までに狭まり、さらに皮一枚分にまで狭まる。避け切れていないのではない。徐々にクロウの見切りが正確さを増すが故だった。
既に捌いた攻撃は百を数える。
敵の攻撃は単調だ。拳を叩きつけ、足を叩きつける。ただ、それだけ。生物としての根本的な格、質の違いが、ただそれだけの攻撃を脅威に変える。
……だが本来であれば圧倒的な暴力であるはずのそれは、クロウの戦闘経験と、そして肉体に備わる疾さと強靭さの前には十分な威力を発揮しない。
クロウはさらに加速する。
もはや巨猿は完全にクロウの動きに翻弄され、一見、致命の一撃を雨霰と繰り出す巨体が有利には見えても、既にこの場の支配者はクロウだった。
────見つけた、隙だ。
一が十へと引き延ばされる主観時間にクロウは巨猿の動きを本能的に、しかし正確に捉えていた。次の一瞬に繰り出される一撃を、まるで実際に目にしたかのように想起できる。
体躯が大きいということはそれだけ小回りが効かないということでもあり────狙うべきは拳を振り抜き腕が伸びきった、この一瞬。
クロウはその巨大な拳に飛び乗った。
振り回される拳の起点は肩。
拳から腕に駆け上がれば、必ず敵と同じ目線にまで到達できる。
予想外の動きに巨猿が硬直する。その一瞬の隙は、クロウが敵の巨腕をその両足で駆け上がるには十分だった。クロウは肩口から疾走するそのままの勢いで飛び出し、巨大な顔前へと躍り出た。
ギシギシと音が鳴りそうなほどに拳を固く固く握りしめ、それを振りかぶり、鼻先へと叩きつけようとし────その瞬間、背筋を悪寒が貫く。
……一気に冷えた思考で、クロウは己が間違えたことに気付いた。
『勝てそうだから、勝とうとした?』
馬鹿な。何を言っている?
目的は時間稼ぎだったはずだ。
勝利への衝動を抑え切れなかったのは、クロウがこれまで常に勝者であったから────強者であったからこそ。
これまでクロウは勝てる敵に勝ち、勝てない敵からは逃げ、常に賢い選択をしてきた。それは疑いなく正解だ。何も間違っていない。
だが……仮に『逃げる』という選択肢を排除した時、これまでの経験は、行動を縛る足枷へと成り果てた。
クロウは敗北を知らない。一瞬の油断と慢心が死を招くという単純な事実を、クロウは実感としては理解していない。理解する必要がなかった。
────そのツケが、大きな代償として降りかかる。
クロウの拳が到達するその寸前、口蓋が大きく開く。その巨大な穴ぐらから、不可視で膨大な何かが放出された。
クロウはそれをなんと表現していいのかわからない。
咆哮、或いは、『音砲』とでも表現するべきだろうか。それは莫大な大気の波、魔力を伴う
無防備に宙を漂うクロウに、その攻撃を防ぐ手立ては無い。耳を塞いだとしても、皮膚から伝わる振動を通して魔力が脳に伝わり、知覚を揺らす。
────無重力感。酩酊。内臓がせり上がる感覚。
五感の交錯と壊乱。思考すらも停止する。
その一瞬で気を失わなかったことだけが僥倖だ。
……否、これは本当に僥倖なのだろうか?
何故なら落下を始めたクロウは、己の肉体に迫り来る敵の巨大な拳を避ける術を持たず────直撃の瞬間を待つことしかできない。
本能は防御を選択しようとした。だが音で狂いきった体内機能は天地も前後も判別できず、まともに身体を動かすことができない。
ドロドロに融けた視界が、自身と膨大な破壊との激突の瞬間を鈍く捉えるばかりで────打ち据えられた巨大な衝撃に肉体の芯を捉えられ、身体を轢き潰される感触とともに、クロウの意識は暗闇に呑まれた。