「……ところでクロウさんは、エウーリアさんが好きなのですか?」
それはつい最近、たったの数日前の夜のことだった。
その日の仕事も食事も終えて、あとは寝るだけの時間帯。うつらうつらとしているクーの頭を撫でながら柔らかい声で古い唄を歌っていたミューは、ふと思いついたように、寝っ転がって茶をすするクロウに尋ねた。
クロウは間延びした声で答えた。
「どうしたんだ、急に」
「いえ、別に大したことではないのですが……。そういえばそのあたりの事情をあまりよく知らないなぁと」
「そうか」
クロウは少し首を捻って、言う。
「うむ。おれはエウーリアを、惚れさせてみたい」
「もちろんクロウさんに、ということですよね?」
「そうだな」
頷いたクロウに、今度はミューが少し思案顔をして聞く。
「……あの。それは、好きとは違うのですか?」
「んん? ……いや、おれはエウーリアのことが好きだぞ」
「ええと。一応聞きますけど、それはこう、いわゆる男女的な意味でということですよね?」
「……うむ? ……。……?」
クロウが黙り込むと、ミューは脱力したように言った。
「……単純すぎるのも、逆にわかりづらさに繋がるんですね」
「ミューにもわからないことがあるのか。おれがすべて教えてやろうか?」
「自信はすごいですねぇ。いいですよその自己肯定感、伸ばしていきましょう。今はとりあえずクロウさんに教わりたいことは特に無いのですが」
「そうか……。……なんの話だっただろうか?」
「え、なんでしたっけ……ああそうですねぇ、んー……私が言うべきことでも無いような気がしますが……でも言いたいので言いましょうか」
ミューはゆるい口調で言った。
「多分ですけれど。クロウさんのエウーリアさんへの気持ちは、少なくとも今は、恋愛感情ではないような気がします」
「ほう」
「好意があるのは確かだと思います。けれどきっと、それは少しだけニュアンスが違って……ようするにエウーリアさんは、クロウさんにとって『憧れ』なのでしょう?」
「……憧れ」
その言葉を口の中で転がすクロウに、ミューは頷く。
「だって『惚れさせたい』ってきっと、『認めてもらいたい』ってことですよね? 無視できない存在になりたい、とかそういう感じの」
「そうだったのか」
得心したようなクロウの声に、ミューは慌てて首を振る。
「あ、いえ。合ってるかは知りませんよ?」
「……結局、なんなんだ?」
「えぇと……そうですねぇ」
ミューは多少まごついて、慎重に言葉を口にした。
「クロウさんのエウーリアさんへの気持ちは、大切にすべきだと思います。誰かを好きになることも憧れの人に追いつきたいと願うことも、どちらも素晴らしい想いだと思いますし」
「ふむ」
クロウが頷く。
「ただ、それを混同するのはあまりいい結果にはならないかもなー、とも思います。自分がなにをどうしたいのか、それには正面から向き合うべきで……なので結局、私が言いたかったのは……ええと……クロウさんはどうして────何に執着して、エウーリアさんをこんな地の底まで追いかけてきたのですか? ……ということでしょうか?」
「なんで疑問形なんだ」
「だって世間話のつもりでしたし。深い考えのある話でもありませんし」
ミューはそんな投げやりなことをのたまい、向き直ってクロウに聞いた。
「クロウさんの願望はなんですか? 何かになりたい、何かを手に入れたい……こんなところにまでやってきたのは結局のところ、クロウさんにもそういう望みがあったからだと思うのですが」
クロウはその問いにじっと考える。
そしてポツリと口にした。
「わからない。けど、そうだな……」
「はい?」
「たぶんおれは、昔には戻りたくないんだ」
「昔……というと、エウーリアさんと会う前ということですか?」
聞くと、珍しくクロウは口ごもった。
「……」
「ええと……どういうことかよくわかりませんが、今に満足しているのなら、それはそれでいいのでは?」
「……。そうだな」
クロウは頷く。
────それは日常のひとかけら。
なんてことのない、ある静かな夜のことだった。
◇◇◇
魔力の燐光が収まり、視界が開ける。
そこに広がっていた光景に、ミューは───
「……〜〜ッ!」
────叫び出したいのを必死に我慢した。
叫んでも何一つ状況は改善しない。
目の前にはまるで変わらない、無数の魔物の群れ。そして肌に感じるピリピリとした殺気は、ほんの数百m先からこちらを視認し睨み付ける、巨猿によるものだろう。庭園の結界には、もはやなんの効果も無い。完全にこちらの存在を察知されてしまっている。
転移魔法は失敗した。
ミューは泥の魔物たちを睨みつける。
転移魔法失敗の原因は、この魔物たちだった。
転移に失敗した理由は単純である。魔力が足りなかったのだ。
無論、クロウとミューとクーを転移させるだけの魔力は、ギリギリとはいえ足りていた。ミューの描いた魔法陣にも綻びはなく、あとは起動させるだけ……のはずだった。
だが、転移魔法陣に踏み入ってきた魔獣の存在が全てを狂わせた。
転移魔法においては、使用する魔力の大部分は空間を繋げるために用いられる。転移の人数が多少増えようとも魔力消費はわずかに増えるだけだ。しかし本来はさほど気にする必要もなかったはずのそれが、今回に限っては最悪の形で影響した。
魔法陣に踏み入ってきた魔獣たちは、泥でできた紛い物とはいえ個々が魔力を持つ。故に、それが魔法陣に踏み入ってしまっていた時点で、魔力にそれなり以上の余裕がなければ転移など不可能。ましてや今回のようなギリギリの魔力量では、もはや転移は成立すらしなかった。
心が折れそうになる。何もかもが裏目だ。
……ミューは気持ちを奮い立たせ、叫ぶ。
「クーちゃん! 逃げます、なんとしても!」
「……! ……!?」
「迷っている暇はありません! クロウさんにもすぐ起きてもらって────!」
そう言って魔物から目を切り、クロウを見やったミューは硬直した。
……そこには、上体を起こしてぼんやりとするクロウの姿があった。無論、それだけならミューは驚かなかっただろう。
ミューが驚いたのはクロウの眼だった。
別に具体的に何がどう変化したというわけではない。数が増えているわけでも、瞳の色が変わっているわけでもない。
けれど。
開いているのに何も見ていないその瞳は、もはや感情が希薄などというものですらなく────
どう見ても、無機物の眼だった。
「ク、クロウさん……?」
囁くと同時────爆発的に舞い散る砂埃とともに目の前の少年の姿が消え失せ、ごうと一陣の風が吹き抜ける。
「っ……!?」
────まさしくそれは、一瞬だった。
目の前に広がっていた魔物の群れ。数百もの、抗う気すらも根こそぎ刈り取られそうな数の暴力。それが、より巨大な個の暴力に食い荒らされる。
僅か数秒で葬られた魔獣の群れは黒い塵へと還り、その鏖殺を成したものの周囲にまとわりつき、しかし風にさらわれて消えてゆく。そしてその渦から一人取り残された人影は、ゆらゆらと、奇妙に立っていた。
「え……?」
ミューは呆然とする。
────なんだ、今のは?
いかにクロウといえども────否、拳しか攻撃手段を持たないクロウだからこそ、戦闘の手数には上限がある。それこそ投石による弾丸程度が限界であり、まさしく目にも止まらぬほどの並外れた殲滅力など、クロウは持っていなかったはずではないのか……?
「……ク、クロウさん大丈夫ですか!? 返事を!」
自失から回復したミューが叫ぶが、しかしその人影は反応しない。魔物の群れの中でゆらゆらと奇妙に立ち尽くすだけだ。
────そして次の瞬間、自分たちのそばで無防備に存在している少年の姿に気づいた魔物たちが、唸りをあげ牙を剥き、殺到する。
「ッ! 逃げ────」
ミューは言葉を失った。
やはり一瞬だった。
注視していたはずの人影の動きは、けれどもミューには追えなかった。
爆発的に広がった土煙が晴れると、群がってきていた数十の魔物たちは消え失せて黒い塵に還り、遠巻きに警戒する残りの魔獣と、ゆらゆらと揺れる一つの人影だけが残る。
「なん……ですか、これは……?」
何かが起こっていた。だが、ミューにはその正体が掴めない。
魔法? ……クロウが?
そしてそれ以上に────。
……ミューは唾を飲み込む。
アレは。そもそもあの人影は────本当にクロウか?
ミューにはわからなかった。……見慣れた姿だ。だが、それにもかかわらず、その人影はまるでクロウには見えなかった。
◇◇◇
ミューの直観はある面で正しい。その人影が本当の意味でクロウと呼べるものかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
彼のものの
それは人の名ではない。
人格ではなく、魂でもなく、その肉体にこそ架せられた銘をそう呼ぶ。
そしてまた、人影の成した暴虐が魔法によるものと思えないというミューの直感も正しい。何故ならばそれの正体は厳密に言えば、ただの
ミューは知らなかった。
悪鬼と呼ばれる少年の、その通り名の由来を。
強いから、あるいは恐ろしいから────間違ってはいない。だがそれは、少年が鬼と呼ばれた理由の本質ではない。
悪鬼には、悪鬼と呼ばれるだけの理由が存在する。少年が禁足域に巣食う悪党どもにすら畏怖されたその理由が、今ここに現出する。
ゆらゆらと立つ人影は、その無機物じみた眼で、敵だけを見る。
踊れ、悪鬼。
その四肢は何の為にある。
どう、と土埃が跳ね上がる。悪鬼が躍動する。
走った────違う。四足歩行────そうではない。
悪鬼の動きはそんな動作よりも、はるかに合理的だった。
馬鹿馬鹿しい話だ────何故、鬼が足で立つ必要がある。何故、鬼が地を這う必要がある。そんな
四肢のどれか……否、指一本さえ接地していれば全体重を支え加速できる悪鬼にとって、『歩行』とはあまりにも合理性から逸脱した、不自然な動作としか捉えられない。
右腕を地に突き込むと同時、残りの四肢が────両脚が魔物を蹴散らし左腕が触れるものを切り裂く。そして接地する腕は物理的に地面を掴み、その体重に見合わない馬鹿げた膂力により己の身を強引に異常加速させ、悪鬼はさらに速度を増す。
そしてそのまま、次に地面に触れた四肢のどれかが地面を掴み、その他の四肢で敵を殲滅しながら加速を続ける。その度に魔物が弾け飛び、黒い塵へと還って悪鬼の暴虐の軌跡を辛うじて示す。
その動きは酷くでたらめで、まるで規則性など無く、しかしてその無分別さこそが、肉体性能に理性という枷をかけずに何の躊躇も無く使用する────『悪鬼』本来の蠢動である。
悪鬼は吼える。
その咆哮はまるで錆びた機械が軋むような、酷く耳障りな音だった。
異形なる推進は勢いを落とさず、むしろ瞬きをする間に加速していく。触れるもの全てが脆く削り去られ、後方へと吹き飛ばされ、悪鬼が前進するための推進剤がわりとなる。敵が多ければ多いほど、破壊が甚大であれ甚大であるほど、加速は増大する。
何も悪鬼を止められない。その暴威を妨げられるものはいない。
悪鬼の侵撃は、敵を全て殲滅するまで止まらない。
その間近にいるはずのミューには、何が起こっているのか理解できない。
分かることはたったの一つ。目の前の暴虐が人間によるものではないこと、それだけが確信できる。それはもはや生物がもたらす破壊にすら見えず────それをこそ『災厄』と冠すべき、暴力と災禍の結晶体に見えた。
◇◇◇
ここに『悪鬼』と呼ばれる少年がいる。
では、なぜ彼は悪鬼と呼ばれるのか?
少年が人とは思えぬ姿形であったから? ────否、彼は少なくとも、見た目はただの少年だ。とても魔性とは程遠い。
では、人とは思えぬ非道であったから? ────否、彼は善でなくとも悪でもない。天に唾する悪党どもが少年程度を非道と非難するなど、笑い話にもならない。
ならば────なぜ少年は悪鬼と呼ばれたのか?
答えは簡単だ。酷く簡単な事実だ。
……少年が理不尽なまでに強く、厄災の如く対処不能であり、そしてその戦い方が
悪鬼は知っていた。
ただの腕の一振り足の一振りが爆風を生む、超人と呼ぶにも生ぬるい尋常ならざる肉体性能────そして、その肉体の動きの最適解が『人の動き』ではないこと。人間の動きを半端に真似たところで、それはもはや肉体が持つ本来の力の発揮を阻む、枷にしかならないこと。
人ならざる力を
◇◇◇
縦横無尽に躍動し魔物を屠る悪鬼。その動きには何も追随できず、反応すらもおぼつかない。
巨猿が吼える。
アレを放置してはならない。本能がそう叫ぶ。
巨大な口蓋より放たれる衝撃波に、周囲の空気が爆ぜた。
────爆音、咆哮。それは人体であれば停止せざるを得ない、平衡感覚の一切を奪う、まさに人なる種の天敵たりうる能力。
事実、クロウはこの咆哮により停止を余儀なくされ、そのために意識を消失するほどの一撃を喰らった。
そしてそれは、悪鬼に対してもまた、同様に有効である。悪鬼は音砲の影響を受け、当然のように平衡感覚を消失した。もはや立つこともままならず、無様に地を這うことしかできない。
そのはずだった。
だが────悪鬼は止まらない。
平衡感覚、前後左右────くだらないくだらない。
なんだそれは。それが何の役に立つのか。
根本的に前提が間違っている。
感覚が狂い、消失したにせよ────そもそもそれを頼りにしていないものが、いったいどう影響を受けるというのか。平衡感覚などという曖昧有耶無耶に頼らずとも、悪鬼にはより間違いのない標があった。
そう、それは例えば────ほら、敵を潰せばその感触が、四肢を通じて伝わってくる。恐怖、憎悪、悔恨、殺意────“敵”を構成する情報が、こんなにもありありと。
それ以外の感覚などハナから使っていない。手の触れる範囲、足の届く範囲、殺気を向けてくる敵を斃し続ければ、いつか全ての敵を屠る────それこそが悪鬼の行動原理である。
分別も、理性も。
選択も、善悪も。
その全てが、完結した破壊現象たる悪鬼には不純物である。
群れを成していた魔物が全て黒い塵に変じ、風に攫われて吹き消える。僅か数十秒────それが、悪鬼が全ての魔物を鏖殺するのに要した時間だった。そして悪鬼は、何も変わらないままゆらゆらと立っている。
そしてその光の灯らない眼が、数十メートル先に巨大な体躯を捉えた。
敵はあと、一つだけ。