目の前に立ちはだかるは、比べるも無為な巨躯である。
だが────体躯など、悪鬼の戦いにはまるで関係がない。
悪鬼は獲物を見つめ、一息、呼吸した。
肌に感じる殺気に導かれるまま、悪鬼は再び加速を始める。走るでもなく這うでもなく、地面に接地した四肢で地面を抉り、吹き散らし、強引に加速を続ける。莫大に吹き荒れる砂埃だけが、悪鬼の移動の軌跡を示した。
対する『災厄』は、明らかに悪鬼の突貫を待ち受けていた。
巨猿は“悪鬼”がいかなるものであるか、朧げながら理解していた。ソレが本能に突き動かされるだけの動きであり、所詮は理性無き獣の動きであること。そこには賢しさも無ければ
故に、その行動は悪鬼の行動と同じくシンプルで単純だ。ただその拳を、向かって来る悪鬼へと最大威力で叩きつける。
悪鬼が挑む戦いとは、つまるところ単純なスペックの比較に過ぎない。戦略も戦術も存在しない、およそ肉体性能に頼った化物同士の戦いである。ならば、何の小細工を弄する意味があるだろうか。単純な能力において己を上回る化物など、存在するわけがない。
だが────悪鬼は加速をやめない。
疾く、より疾く。悪鬼は一瞬の躊躇もなく突貫する。
悪鬼に恐怖などない。向けられる殺意、悪意へと反応し、敵がこの世から消え失せるまで破壊するだけの存在。それが悪鬼だ。
故に、向かってくる悪鬼に向けてカウンターで全力の拳が振るわれたとしても、悪鬼の前進の速度が緩むことはなく、躱すことすらもなかった。
「……! 駄目────ッ!」
まるで思考が追いつかずに混乱するばかりのミューが、その光景にようやく状況を理解し、叫ぶ。いかにクロウといえど────いかに悪鬼といえど、あの大質量を防御もなく正面から食らっては、叩き潰されるだけだ。先ほどと同じ……否、それ以上の被害を受けることだろう。
激突が迫る。もはや双方、回避などできない。……ミューは思わず顔を背けようとし、そして呆然とした声を唇から漏らす。
「……え?」
悪鬼が回避行動を見せず、巨猿が攻撃するならば、その衝突は必至。
その予想はなるほど、正しい。
だがミューには見切れていなかった。それはたった一つの決定的な事実、つまり────加速を続ける悪鬼にとって、既に巨獣の動きは攻撃として成立しておらず、鈍重な
戦いが始まって初めて、巨体から苦悶の叫びが挙がる。
理解不能────巨猿は何が起こっているのか、理解できなかった。ただ己の腕に、脚に、胴体に、肉体に、一瞬のうちに無数の裂傷が刻み込まれ、血が噴き出る。それは全身へと波及し、その巨体を蹂躙し、破壊する。
悪鬼の行動は単純だった。それはもはや攻撃ですらなかった。悪鬼は敵の巨大な腕を、地面と同じものと────加速するための
当然の話として、回避行動など取らなくとも悪鬼に敵の攻撃は当たらない。当たるわけがない。速度において超越し、全く異なる時間軸を征く悪鬼にとって、あまりにも緩慢過ぎるそれは、もはや脅威ではなかった。
────ならば、特別な動作など何も必要無い。
今までと同じく、加速を繰り返すだけだ。
ただ一点、変わったことがあるとすれば……それは、足場が土から肉の塊へと変わった、ということだけ。
悪鬼は目の前に現れた肉の塊に────巨猿の腕に己の腕を突き刺す。地面を加速する時とまるで同じようにそれを抉り、腕力で強引に加速し、今度は脚を突き立て、踏み込み、加速する。
つまり悪鬼にとってのそれは、ただの
悪鬼が移動するたびに強靭であるはずの肉体が穿たれ、裂傷が刻まれる。そして悪鬼の動きを捉えることはできない。鈍重な巨体にとって、悪鬼の動きはあまりにも疾過ぎる己の肉体を縦横無尽に踏みしめ、穿ち、抉る悪鬼によって、巨猿は回避不可能な攻撃を一方的に喰らうことしかできなかった。
暴れる。腕と足を振り回し、肉体を捩る。
己の肉体を蹂躙し、裂傷を刻み、あまつさえ地面の代わりとする敵を振り落とそうともがく。だが移動時に四肢を肉へと突き立て、スパイクがわりにして移動する悪鬼を振り落すことはできない。
魔力の集中により攻撃される部位の強度を高めようにも、認識すら追いつかない。部位強化が成立したその時には、既に別の場所を穿たれている。
────そしてそれは一瞬のことだった。
どちゅ、と音がする。
不意に巨猿の右眼が潰され、ひときわ大きい鮮血が散った。
巨猿は苦痛と怒りに、階層中に響き渡る叫びを挙げた。
無論、悪鬼の仕業だ。足場にするにはいささか柔らかく脆かった眼球を、悪鬼はなんの遠慮も呵責もなく踏み抜いた。そして当然の如く、その巨大な右目はぐちゃりと音を立てて潰された。
だが、それでは死なない。その程度で死ぬわけがない。『災厄』を倒すためには、その魔晶化した巨大な心臓を砕く必要がある。悪鬼の素早さに対応できないからといって、その攻撃が魔晶にまで至るわけもない。ならば敗北する可能性もゼロだった。
だが────。
────『災厄』は恐怖した。
死にはしない。死にはしないだろう。
だがこの苦痛はどうだ。この全身の肉を磨り潰されるかのような苦痛は。防ぐことすらできない。いつまで続く? どうすれば終わる?
否、そもそも……終わるのか、これは!?
痛みが、苦痛が、赫い災厄の魔力による狂乱すらも押し留めて思考を強要する。戦いが始まってから初めて、相手を煩わしい塵ではなく敵と見做す。当然の如く虐殺可能な獲物ではない。
犠牲を払ってでも叩き潰すべき、明確な敵である、と。
────故に巨猿は、その巨大な口蓋を開いた。
それは音砲を放つための予備動作と全く同じもののように見えた。だが実際には、その行為が持つ意味は全く異なる。
そこに集約されるものは大気の塊などという生易しいものでは無い。
奇跡の源、記憶の雫、世界を構成するそれそのもの────魔力である。
口蓋に蓄えられ圧縮し、臨界する魔力の光芒は、もはや燐光などという生易しいものではない。その煌々とした輝きは、一つの時代を滅ぼすに足る怪物が、その存在を削ってまで相手を滅ぼす時にのみ見せる極光である。
だが、『災厄』はすぐには動かない。
巨猿は待った。
悪鬼に蹂躙される屈辱と痛みに耐えながらひたすらにその瞬間を待った。
もはや速度においては、悪鬼に反応することすら不可能。ならばどうする。この攻撃をどうやって当てる?
相手が疲れて停止するのを待つ……そんなことが期待できるはずもない。
故に、巨猿は確実を取った。
狙うは痛みが生じる
迷いは無かった。
予備動作すらなく、破壊の極光が放たれた。
一瞬、世界から音が消える。
太陽の真下と同じ光量で周囲一帯が照らされる。
その次の瞬間、ガラスを掻き毟るような高い不協和音が空気を震わせ、そして爆音に取って代わった。ブレスの纏う光熱が空気の急激な膨張とそれに伴うソニックムーブを生み、暴風が生まれる。
「……ッ!」
その様子を見ていたミューはその光と熱、爆風に思わず顔を庇い、そしておそるおそると目を開き────
「こ……こんなものを生身で受けたら────」
ミューはそう呟き、ハッとする。────クロウは!?
周囲を見渡しても人影はない。……が、瞬間、背後から凄まじい轟音。
振り返ると、粉塵から人影が現れた。
◇◇◇
────悪鬼は生きていた。
見てから避けるのではなく、殺意を感知して避ける。
それは決して、悪鬼にとっては特別な技能ではない。故に極光そのものの軌道を察知することにはさほどの苦労もなかった。
だが、足場ごと切り離され、狙われたことは問題だった。物理的にそもそも避ける余地が無い。極限まで引き伸ばされた時間の中、切り離された巨腕の指先まで灼き尽くそうと迫る極光の存在を感じ取る。
敵は殺せても、現象でしかない魔法は殺せない。悪鬼の存在意義は敵を殺害することであり、それが故にどこまでも合理的だった。直前までの動きに急制動をかけ、焼き尽くされる寸前の巨腕を足場とし、跳躍する。
物理法則を無視したような肉体の駆動により、極光の直撃そのものは免れた。だが宙に浮いた身体では、次の瞬間に発生した爆風には抗う術もない。ただ吹き飛ばされるほかなかった。
恐ろしい勢いで吹き飛ばされ、何かの建造物へと叩きつけられる。地面に接地しても周囲の崩落だけでは止まらない。
凄まじい音を立てながら地面に制動痕を残し無理矢理に停止する。もうもうと立ち込める粉塵……だが、悪鬼の肉体には傷も損傷も無い。
引き剥がされた。────だが、それだけ。
戦いは終わってなどいない。
肉体に降りかかる邪魔な瓦礫を一蹴りで吹き飛ばす。
折り重なっていた建材の塊は凄まじい勢いで爆散し、悪鬼の前に道を開けた。悪鬼は再び四肢に力を込め、加速を始めようとし────不意に、目の前の人影を認識した。
『……! …………!』
ソレは悪鬼に向かって何か音を発していた。
だがその意味するところなど悪鬼には理解できない。必死の表情も、心配した声も、全て無意味と等しい。
敵ではない。それは理解できる。
だが、それだけだ。
……悪鬼にほんの僅かの疑念が芽生える。
敵ではないものが、何故、立ちはだかる?
────知らない。どうでもいい。
生まれた疑念は瞬時に排除された。
悪鬼に疑問など必要ない。壊せ。思考の前に鏖殺せよ。
肉体を動かすその本能が、悪鬼に腕を振り上げさせた。そして、それを障害物に向かって振り下ろす。
感慨は無い。
悪鬼は再び前進しようとし────そして気付く。
何故、目の前の障害物は弾け消えていない。
……何故、己の腕は動いていない。
異常事態だった。
悪鬼は動けない。本能ならざる何かが、悪鬼を制止していた。
目の前の脆いものは怯えていた。それは悪鬼という純粋暴力の圧力に晒され、心底から恐怖しながら……しかし、退こうとしない。否、むしろ────踏み込んでくる。
『……! ……!?』
未だにそれが発する音の意味はわからない。
だが、不快ではない。
それが悪鬼に近づく。震える手が悪鬼に近づく。
────そして、悪鬼に触れた。
どくん、と鼓動。
己の肉体に血が巡っていることを理解する。
悪鬼は慄いた。……知っている。これを知っている。
この感触を、知っている────!
少女の発する音が輪郭をとり、連なりとなる。それは次第に朧な意味で彩られ始め、そこに込められる意志を示し、ついには言葉となった。
「────クロウさん!」