こちらに迫る小さな影。
それに相対する巨猿は冷静だった。
もはや怒りという段階は過ぎ去った。
あの矮小な生き物を殺し損ねる無様。あまつさえ圧倒され、恐怖すら感じるという、まるで弱者のような振る舞い。
────十分だ。確実にアレを仕留められるなら。
ただただ、これ以上の無様を晒せないという矜持が優った。
故に選択する攻撃方法に、一切の遊びは無い。
出し惜しみなど、もうしない。
保有魔力────言い換えるならば魔物としての格がその威力に直接反映される攻撃で、抵抗の隙もなく焼き尽くす。
彼我の距離は既に、そう遠くない。最大出力分のチャージは完了した。
もはや撃つのみ────その瞬間、敵は跳んだ。
「……ッ!?」
生半可な高さではない。それまでの速力全てを注ぎ込み、上方への推進力とした跳躍。敵は巨猿の頭を遥か越えるほどの高さまで到達している。
おそらくは、
だがそれは────悪手!
巨猿は口端を歪めた。そこには確信が滲む。
空中に浮いたままの敵は身動きが取れない。この後に及んではもはや、ただ落下を待つだけだ。これまで手を焼かせられた、敵の持つ技術や経験、或いは速度────その全てが意味を成さない。
虚は突かれた。だが、ただ魔力砲を上方に向けて撃つだけで全てが終了する。避ける術が無い以上、間違いなく直撃する。
────勝った。
高密度まで圧縮された魔力砲が膨張し、光の濁流となる。それは敵へと一直線に向かった。威力と速度は避けきれるものではなく、受け切れるものでもない。巨猿は、敵の姿がその光帯へと呑み込まれる様をその眼に映した。
◇◇◇
「……言葉に過不足がなさすぎて、逆にわかりづらいのですよ、クロウさんはッ!」
同時、後方に一人取り残された少女がヤケクソ気味にそう叫んでいた。
目も眩むほどの光から目を逸らさず、光に呑み込まれる二人を見る。
悪態は続く。
「私が理解できていなかったらどうするつもりだったのですか!? 普通は意味わかりませんよ、あれだけじゃ! 私だったからわかりましたけど!」
そう言ってミューは一瞬黙り、もう一度繰り返す。
「……私はわかりましたけど!」
僅かにドヤ顔であった。
そのままミューは叫ぶ。
「勝ってください、クロウさん────!」
◇◇◇
「────応」
────ッ!?
吹き荒れる大気の渦の中、奇妙なまではっきりと聞こえたその声に瞠目する。音の発生源は上空、すぐ近く。……極大の混乱が巨猿を襲う。
馬鹿な。
馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な馬鹿な────!
魔力を全て放出し終え、光帯は細くなり、遂には途絶える。熱せられ、膨張した空気による爆風が起こり、漂う靄のような魔力の燐光を吹き払う。
その先、巨猿の目と鼻の先には────高温に焼かれ紅く燃え盛る、鋭利で巨大な岩石の先端があった。
「助かった。ミューが手を貸してくれたおかげだな」
気絶したクーを尻目に、クロウはミューから
「それにしてもさすがはミューだ。すべてこのときを見越していたとはな」
ミューが聞いたら全力で抗議しそうなことをクロウは呟く。
────実際のところ。
クロウは『切り離した手首からでもミューの収納魔術からものを取り出すことは果たして可能なのか』などという当たり前の疑念に、そもそも思い当たりすらしなかった。
というか、ミューの手首を目の前にかざせば自動的に、ミューの魔法で異空間に収納されていた岩石────禁足域から持ち込んだ、この巨大な魔鉱石の塊を取り出せるものと思い込んでいた。
さらに言えば巨大な魔鉱石の後ろに隠れたからといって魔力砲を本当にやり過ごせるのかなどわからなかったし、全てはぶっつけ本番だ。
要するに、行き当たりばったりの作戦であったことは間違いない。
だが同時、今、この瞬間を創り出すためにはミューとクーの協力が必要不可欠であり、またクロウと一瞬で意思疎通できなければならなかったことも真実であるわけで────。
────要するに皆、自分の仕事を果たした。
次は、クロウの番だ。
◇◇◇
巨猿は止まったように引き延ばされた認識の中、状況を理解していた。
この巨大な岩の塊を盾にして、敵は魔力砲を防いだ。
なるほど、よくやるものだ。
────それで。
だから、なんだというのか?
結局それは、彼我の距離が近づいただけのことでしかない。どちらにせよ接近戦において己がこのサイズの敵になど敗北するはずがない。
ならばそれは生存の時間を伸ばしただけのことに過ぎず、敵からすれば逃げ惑い怯えていた方がまだマシだった。
つまり所詮、これは────
────その瞬間、災厄は己の錯誤に気付く。
違う……違う!
コレは────目の前の、
敵にとっては決して、ただの盾ではなく────!
一瞬の、けれども致命的な判断の遅れ。
巨猿は岩の向こうに敵の姿を幻視する。本能はその脅威を悟り────しかしながら肉体は本能に、追いつけなかった。
◇◇◇
クロウはミューの手とクーを背後にぶん投げ、拳を構えた。全身の筋肉が絞られ、腕がミシミシと音を立てる。過剰な力が拳に集中する。
拳と魔鉱石────どう考えても衝突すれば拳が砕ける。間違いない。
いったい何をやっているのか。大岩の塊を拳で殴りつける男を見れば、誰もが例外なくそんな感想を抱くだろう。
無論、それは正しい。確かにそれは意味不明で、仮に何かの修行だとしても、どう考えてももう少しマシなやり方がありそうな行為で────
ここに一人、そんなことを続けた男が、いる。
「……喰らえ」
────ゴゥン、とクロウの拳が巨岩を打った。
それは非現実的な光景だった。
巨岩が拳により撃ち出される。
その鋭い先端は燃え盛り、溶岩のような熱と鉄のような重量は尋常ならざる破壊力を否応無く連想させる────巨獣殺しの矛だ。
凄まじい衝撃とともに、矛が巨猿の胸の中心を穿つ。胸部の中央部、心臓が存在するちょうどその直上に、その切っ先が突き刺さる。焼けた先端は肉を焼き、重量が容赦なく骨格を貫く。
巨猿は苦痛に絶叫を挙げ、その眼で岩越しにクロウを睨みつける。
だがクロウは退かない。退く必要などない。
クロウは咆哮した。もはや思考など必要ない。最も使い慣れた拳という武器を、最も殴り慣れた物体に向けて解放する。
響き渡るは破砕音。
かつて誰もいない場所で孤独に響いていたその音は、今やその先に敵を見据え、幾重にも重なり、高らかに響く。
硬く握り締められたクロウの拳が唸りをあげて叩き込まれ、その度に深く、より深く、確実に矛は血肉を穿つ。
巨猿はその威力、重量を前に、残された片手だけでは矛先を逸らすことも敵わない。嵐のように繰り出される拳の、その一撃一撃が魔物を屠り、消し飛ばす獰猛な一撃。連続して叩き込まれるソレに、ある概念を知る。
────敗北。そして、死。
こんなところで存在を終えることの恐怖。
圧倒的強者であるはずの己が、純粋な暴力で追い詰められる理不尽。
初めて味わうそれが、渾然一体となって全身を巡る。
肉体を構成する全てがその感覚を拒否した。勝利への、生への執着。そして誇りが、恐怖をも超え肉体を動かす。
生存本能が選択させた攻撃は魔力砲だった。先ほどまでの命中を優先して拡散させた魔力砲ではない。範囲を絞り極限まで収束させ、威力を最大限に上げた一撃で岩塊ごと敵を貫く。心臓を砕かれる前に────!
巨猿の口蓋に、再び魔力の燐光が収束する。ソレは既に岩越しにクロウの姿を照準に捉え、あとは放たれるだけだった。
同時────クロウも最後の一撃を放とうとする。
必要なのは、巨大な心臓を再生不能に破壊し尽くす至高の一撃。クロウの全身の筋肉が軋みをあげ、肉体が持つ全能力を拳へと集約する。
◇◇◇
さて。ここで疑問を一つ提示しよう。
────拳を握るという行為はクロウにとって、“悪鬼”としての能力を封じる、枷でしかないのだろうか?
無論、クロウと悪鬼の能力差を考えれば、その疑問は頷けない類のものではない。仮に両者が正面から戦うことを想定すれば、肉体性能は同じであったとしても、勝者は間違いなく悪鬼になるだろう。
ならばクロウとは、悪鬼を封じるためだけの外殻に過ぎないのか?
……答えは────否。
断じて、否である。
ただ振るうだけで十全な能力を発揮する四肢の暴力を、全てたった一本の腕に集約するという
然して────それこそは生物が生まれながらに持つ能力に
非力を前提とした種が足掻くために創り出し、錬磨した技に人外の膂力を搭載するという反則。悪鬼では決して持ち得ない、力への渇望────それこそがクロウの拳を、悪鬼では手の届かない領域の一撃へと至らしめる。
◇◇◇
「オオオォォォオォオオオォォオオッッッ!!!!」
────魔力砲が放たれるよりもほんの一瞬だけ早く、咆哮とともにクロウの拳が巨岩へと叩きつけられた。
その一撃は魔鉱石で構成される頑強な巨岩の全体にビシビシと亀裂を走らせ、自壊へと追い込む。しかし────その先端は確かに、巨猿の魔晶化した心臓を貫いた。
階層中に凄まじいまでの断末魔が響き渡る。口蓋に蓄えられた魔力が心臓を破壊される衝撃に拡散し、莫大な燐光が宙空を乱舞する。
心臓を貫かれ、しかし巨猿はすぐには倒れない。地上に落下するクロウを赫怒の眼で見据え、その巨腕を伸ばす。だが────。
魔晶の崩壊と連動し、巨猿の肉体も崩壊を始める。クロウを捉えようとして伸ばされた腕には半ばから亀裂が走り、どさりと地面に落ちる。
そしてクロウを睨み据えるその眼は永遠に光を失い、その巨体は地響きをあげて地面に倒れこむ。……それが、『災厄』の死に様だった。
クロウは、巨猿の死を見届けてから仰向けに倒れた。
身体が痛む。息をするだけで骨が軋んでいる。
掠れ声でクロウは呟いた。
「……おまえの方が強かった。たぶん。おれは知っているんだ……おれひとりじゃ勝てない相手が、たくさんいることくらい」
故に、今回の戦いは褒められたものではない。
ただの無謀だ。十に一つの勝ちを拾ったに過ぎない。
だが────。
────奇妙な感慨が身体を満たしていた。
空気の味が鮮烈だ。
地面の感触は痛いほど。
こちらへと駆け寄ってくるミューの声が聞こえる。
それは、『生きている』ことの実感。クロウが初めて自分の手で掴み取ったものはたったのそれだけで────それだけで、満ち足りていた。
「……勝った」
クロウはそう呟いて、意識を手放す。
────世界には語られぬ戦いが幕を下ろした。