「こんな夜更けにいったいなんなんだ……」
「ここどっちです?」
「左だ」
「はぁい」
暗闇の中を4人は移動していた。
突然に叩き起こされたシュラはやや不機嫌である。クロウは寝ぼけ眼を擦りながらついてきている。クーにいたってはすぴーすぴーといまだに寝息を立てており、クロウが雑に担いでいた。
「あんまりはっきりしたことは言ってくれませんでしたけど、おそらくは何かあったんじゃないですか?」
「集水場でか……。また吸血鬼か?」
「いえ、そうじゃないと思います。たぶんもっとこう、派手な感じの敵がいますよたぶん」
「静かなものだが……」
集水場は街の北側に存在する、広大な敷地面積を有する土地だった。
だが、人の気配は無い。入り口の警備員の詰所にすら誰もいないのだ。
その異様な静まりようは、不気味でさえあった。
「ここですか……」
「……入ってみるか」
4人を引き留めるものはなく、簡単に侵入できた。明かりもなく薄暗い敷地内を警戒しながら進む。しかし、敵どころか人の気配すらもない。
「普段からこうなのですか?」
「いや、流石にそんなことはないはずだ。緊急時の対応のために、夜でもいくらかは人がいる」
「ということは……」
「ああ、何かが起きてはいる……」
静まり返った空間には、その異様なまでの静謐さ以外、特筆すべきことは何も無いように思えた。
と────その瞬間、敷地内の一棟が、唐突に倒壊する。
「……ッ!?」
それは爆発と呼ぶにはやや勢いが足りなかった。建物の側面がめこりと膨れ上がり、弾けるように破裂したのだ。外壁の崩れ落ちる粉塵がもうもうと噴き上がり、視界が一瞬、閉ざされる。
「な、なんですかこれ、は……」
動揺するミューの声は、粉塵から現れたものを視界に入れると途切れた。
それは魔物ではなかった。そう呼ぶにはあまりにも無機質だった。
それは生命ですらなかった。そう呼ぶにはあまりにも単純だった。
ゆらゆらと質量が動き始める。それは鈍重で、けれど膨大だった。
ミューは思わず身を竦めた。
だが相手は、普段は脅威とも思わない見慣れた物質でしかない。
なぜならほぼ真球形を保ちながら直径数十メートルにもおよび、こちらへと透明な触腕を伸ばしてくるそれは、明らかな意志の存在によって統括された、莫大な質量の、『ただの』水の塊。……そう表現せざるを得ない存在だったのだから。
「────らァッ!」
思考停止。
逃げるという当然の行動に遅れをとったミューたちの目の前に現れたのは、巨大な氷壁だった。ゆっくりと迫ってくる水の触腕は唐突に現れたそれに接触し、一瞬、進行を停止した。
しかし次の瞬間、氷壁に接触している部分の水に細かいさざなみがたち、ぎぎぎぎぎいぃぃんと音を立てて氷壁が粉砕される。
稼いだ時間は十数秒。けれども、ミューたちが自失から立ち直り、水球と距離を取るには十分だった。
「お、クロウたちか。遅かったな」
クロウたちの横に降り立ったのはエウーリアだった。全身を水に濡らし、頬に張り付く濡れた髪をうざったそうにかきあげる。
「やあ、来てくれてよかったよ」
エウーリアに返答する暇もなく声をかけてきたのは、地面に突っ伏すフィルバードだ。ザクスに小脇に抱えられて崩壊した建物から離脱してきたはいいものの、着地するやいなや地面へと雑に放り捨てられたのだ。
そして気づけば、ミセルもいる。ユーフィミアもいる。クロウたちが言葉を交わしたことがあるものもないものも含め、合計で十数人が揃っていた。
そして各々が迎撃体制を取った。
こちらへと伸びてくる複数の水腕、それらを剣で刻み、槍で穿ち、槌で砕き、盾で受け、風壁で散らし、土壁で留め、氷壁で妨げる。
だが、進行してくる水腕は止まらなかった。
相手は、ただ膨大なだけの水でしかない。しかし魔力による制御を受けたそれは、敵への接触と同時、触腕先端の内部で無数の渦流を発生させる。
その局所的な振動圧は単なる水の塊であるはずの触腕に尋常ならざる破壊力を付与した。パイルバンカーのごとき破砕力によりあらゆる物理的障害を相殺し、砕く。冒険者たちの迎撃は水腕の侵攻を確実に留めているものの、突破するには至らなかった。
動揺したミューが叫ぶ。
「どういう状況ですかこれ!?」
「昼間のことがあったから、水場に目をつけて見張ってたんだよ。するとあからさまに人払いされてるところがあったからさあ。忍び込んだらこうなったってわけ」
戦闘の爆音で声が聞き取りづらい中、叫ぶように問いかけるミューの声とは対照的に、フィルバードの声は場違いに穏やかだった。
「これがお前の言っていた『災厄』とかいうやつか!? 確か5日後とかなんとか言っていなかったか!?」
「早まったのかも。ごめんね」
焦ったシュラの問いに、フィルバードは飄々と言葉を返す。
混乱から抜け出せていないミューやシュラと対照的に、クロウは戦いの様子にしげしげと見入っていた。この場に集う冒険者たちの戦いぶり……ことに魔法使いたちの操る魔法が、クロウには珍しいのだ。
だが、すぐに気づく。
「なあ、なんで攻撃しないんだ?」
「あーまあ、それはね……」
そう、この場に集う戦力たちは皆一様に、防御だけに専念していた。
例え魔力で操られていようとも水は水。流体ゆえに物理攻撃の効果は薄いだろうが、魔法使いにとっては的でしかないはずだ。
そんなクロウの疑問に、フィルバードは少し悩んで声を張り上げた。
「……まあいいか。おーい、エウーリア!」
「なんだ!? 私は今、忙しいぞ!」
「そんな、僕が暇みたいな言い方しなくてもさ……」
「してないだろ! で、なんだ!?」
「ちょっと一発、あいつを攻撃してみてくれ」
エウーリアが氷壁を出しながらこちらを振り向く。
「いいけど無駄だぞ!」
「そっちの方がわかりやすい。やってくれ!」
「……まあいいか。オラァー!」
エウーリアの魔法が水球に直撃する。
それは氷を作り出す魔法ではなく、対象を凍らせる魔法。相手が水であるがゆえに、本来であれば最大限の相性と威力を発揮するはずのそれ。
しかし発現する現象は凍結ではなかった。
りぃぃぃん、と高い鈴のような音が鳴る。エウーリアの魔法が着弾した箇所から魔力が散乱する銀光が乱舞し、水球はなんらの障害も受けずに稼働を継続した。
「……効かないな?」
「
「じゃあ壊すしかないな」
「うん。ほらアレ────」
水球が収まっていた建物が全て崩れ落ち、その巨体が顕になった。
クロウはフィルバードの指さすその先にあるものを見る。
巨体の中央部、透明度の高い水に護られたそれは、せいぜい握り拳程度の大きさでしかなかった。だがそれに辿り着くためには。分厚い水の護りを突破する必要がある。
「……『球体』? なんだ、あの赫い光は……」
思わずシュラが呟く。
フィルバードが独り言のように答えた。
「『災厄』の証だよ」
「なに……?」
「この階層に満ちる、『災厄』に蹂躙され、敗北した恐怖と畏れの記憶。そういうものであの赫い魔力は構成されているんだ。あれが尽きない限り、災厄は終わらない」
クロウはその説明を聞いて自分の中で噛み砕き、結論を出した。
「なるほどな。つまり光らなくなるまで殴ればいいんだな?」
「そうだね。できそう?」
「ふむ。やってみるか」
気負いもせずにクロウは『災厄』へと近づいた。
幾つもの触腕がクロウを検知し触れようと伸びてくるが、それがクロウに害を及ぼすことはありえない。それは威力の問題でもなく手数の問題でもなく、単純にのろますぎるのだ。
敵が侵攻してくる関係上、冒険者たちはそれを食い止めるため水腕に対応せざるを得ない。
だが、ただ近づくことだけが必要であるのなら受け止める必要などない。相手は鈍重な水の塊、ただ単に避ければよい。無数の手数を避けることは無論、常人であれば難しかろうが、クロウにとって造作も無いことだった。
本体を目の前にしたクロウは『球体』を見上げる。
ほぼ真球上で直径数十メートルの水球の、ほぼ中心に球体は位置している。赫い光を纏うそれは妖しい月影の如く、水を通してクロウの頭上で揺らめいていた。
足を止める。
拳を引き絞り、肉体に力を籠める。
無論、完全に停止したその姿が見逃されることなどあり得ない。最も近い水面から伸びてきた触腕がクロウへと近づき────接触の刹那、クロウの拳が放たれる。
どう、と大瀑布が弾ける音がした。
相対する大質量に対して握り込まれた拳は誤差ともいえる微少量。
だが尋常ならざる速度と重さを兼ね備えたそれは、水球に数メートルの深さにも及ぶクレーターを形成した。
だが────瞬時に押し返される。
一時的に形を損なった水球は衝撃にその身を捩らせながらも、秒にも満たぬ時間で修復へと移行した。襲いかかってきた衝撃力に対抗できるだけの水圧の壁を体表面に形成し、元の形状へと戻ろうとする。
クロウはそれを黙って見逃していたわけではない。
一時的に押し込まれた目の前の水の壁が回復してしまう前に、前へと進み更なる一撃を繰り出した。
だが────。
「……ッ」
振り抜こうとしたその拳に返ってくるのは、水とは思えない硬質な感触。
異常密度の魔力によって押し固められた水圧である。
そして次の瞬間には、
見た目には一切の影響を及ぼさないそれは、しかし触れるものに対して断続的な衝撃力を付加する。クロウの腕には凄まじい時間密度で、ハンマーにより叩き返されるような感触が伝わってくる。
その衝撃はクロウを介して、地面にまで伝播した。
「ダメです! 退いてください!」
その異常な光景に、ミューは思わず叫んだ。
なにしろクロウは微動だにしていないのに、その両の足を起点に地面にクレーターが刻まれていくのだ。
ビシビシと音を立てて大地が割れ砕け、その振動はこちらにまで伝わってくる。明らかに人の身で受け止めて良い力ではない。
「クロウ、いったん離れっ……!」
シュラがクロウに叫びかけようとしたその時。
「えっ……?」
誰かが口から呆然とした声を漏らす。
それだけ非現実的な光景だったのだ。直径数十メートルに及ぶ水球がめこりと陥没し、少年の腕力により宙に撃ち上げられる光景は。
拳が接している箇所は水でありながら硬化している。
「ウッソだろ……!?」
水腕に対応していたザクスが思わず声を漏らした。……クロウの力を異常だとは思っていた。だが、誰が。誰が、これほどだと言った。
凄まじい質量が宙に撃ち上げられる。
それは明らかに、人の範疇に入る生き物が持つ膂力ではない。
対照的に笑うのはエウーリアだ。
「あっはははははは! 見ろアレ、凄いだろ!? 私が見つけたんだぞ!」
「凄い。いや本当に、凄い。……でも彼、このあとどうするんだろ?」
フィルバードがエウーリアの言葉に同調しつつ、素朴な疑問を口にする。
エウーリアはフィルバードを見た。
首を傾げた。
「……さあ?」
「ク、クロウさーん!?」
ミューが悲痛な声を上げる。
撃ち上げられた水球は当然の如く、地面に着弾した。そしてその真下にいたクロウは、水球に圧し潰されるのではなく、
クロウの周囲が全て水で囲まれる。今までは腕に対してのみ与えられた負荷が、今度は逃げ場もなく、クロウの全身に襲いかかった。
水の中で揉みくちゃにされるクロウを見て、ザクスが恐る恐る聞く。
「……お、おい、あいつ泳げるのか?」
「泳げるとか泳げないとかそういう問題ではないですよ!?」
「あの水流の中ではな……」
ミセルが難しい表情で言うと、ユーフィミアがぽつりと言った。
「え、じゃあ……詰んでません?」
返ってくるのは沈黙だけだった。あの中に踏み入ってクロウを奪還できるだけの自信がある者は、誰もいないのだ。
「クロウ、いいやつだったよ……」
「短い付き合いだったけど、たくさんの思い出が……」
「……無いな?」
「アイツ、引きこもりだからなあ……」
「クロウさん、人望無さすぎ……ッ!」
しょうがない諦めるか……みたいな空気が蔓延する中で、ミューはクロウの社会性の無さに絶望した。
「……私たちでクロウさんを助けますよ、クーちゃん!」
「……!」
呆然としているクーにそう言うと、少女は確かな光を宿した瞳でミューを見上げた。だが、そこに声をかける者がいる。
「俺も手伝おう」
「シュラさん……!」
「待て待て、誰も手伝わないとは言っていない」
「同じ戦いの場に立っている以上、仲間だ」
「助けるに決まってるだろ」
「僕も手伝おう」
「ザクスさん、ミセルさん、エウーリアさんも……! ……フィルバードさんはけしかけた張本人では?」
何か微妙に釈然としなかったが、それでもともかく、クロウの救出に賛同してくれるものたちがいる。
焦燥するミューは必死に頭を回した。
「……せめて、空気だけでも届けられませんか!? クロウさんなら呼吸さえ間に合えば、きっと……!」
「確かにそれが先決か。だったら」
フィルバードは小さな笛を取り出した。
「水の中でもこれを咥えていれば呼吸ができる」
「おお!」
「けど、問題はどうやって届けるかだ。彼のところまで無事に辿り着くのは……」
難しい表情をするフィルバード。
その瞬間、前に進み出た少女がいた。
「……!」
「クーちゃん!?」
ミューが驚きの声を挙げる。
この場で最も無力な少女は、けれど臆していない。その眼の奥に確かな勝算を宿し、水球へと向かって一歩を踏み出した。