この世界に存在を始めたとき、私は既に私だった。
名も姿も性質も最初から決まっている。大地のように空のように、いつのまにか私はそこに在った。……精霊とは、そういうものだ。
けれども情けのないことに、私は自分の存在を平静のうちに受け入れることなどできなかった。この世に生まれ落ちるものは往々にして、その誕生に痛みや苦しみを伴う。私もまた、例外ではなかった。
魔力の泡影から形成された肉体に、怖気を感じるほどに鮮明な世界の感触が伝わる。突き刺さるように冷たく冴えた夜の空気。狂おしいほどに耳朶を打つ乾いた静寂。
理性はある。思考もできる。それでも、温かい空虚から突如として世界に放り出された私は、自分を取り巻く全てに怯える赤子に過ぎなかった。
「……新しい子?」
そんな私を見つけてくれたのは、一人の少女だった。
空中から滲み出るように現れた彼女は、蹲ることしかできない私を見つけると、ただ抱きしめてくれた。未熟な同類が誕生の混乱から抜け出すまで、ひたすらに辛抱強く。
「私が最後だと思ってた……」
少女がぽつりと唇からこぼした言葉の意味は、まだ、このときの私には分からなかった。
◇◇◇
少女は静寂と思慕を司る精霊、ノアルと名乗った。
ノアルは独り言のようにぽつぽつと、いろいろなことを教えてくれた。
この都市が人類最後の生存圏であること。私が数百年ぶりに生まれた精霊であること。そしてこれまでは、彼女がただ一人この都市に存在する……取り残された精霊であったこと。
「あなたはなにを司る精霊なの?」
「私は……」
穏やかな声で問いかけるノアルに、自分の司る性質を告げる。
ノアルは怯える私に優しく頷いて、手を握った。
「精霊はヒトの望みによって生まれてくる。だから心配しなくていい。あなたは、存在を望まれたからここにいるの」
そう言われても戸惑いばかりが募る。
そんな私の心境を見抜いたノアルが私に問いかける。
「信じられない? 精霊として生きることが不安?」
「……私がヒトに何を望まれているのか、ヒトが何を考えているのか、私にはわからない」
そう答えるとノアルは微笑み、私の手を引いた。
「行きましょう。私を呼んでいる子がいるの」
辿り着いた先には、死を待つ老人がいた。
老衰なのだろう、彼女は痩せこけた身体を寝床に横たえて浅い呼吸をしている。周囲には子供や孫が集まり、老女の最期を看取っていた。
けれど、すぐそばに佇む私たちの様子には誰一人として気づかない。ノアルの『静寂』の魔法だ。
「こんなところに私を連れてきてどうするの?」
部外者の私は邪魔ではないだろうか。そう思ってノアルに聞くと、少女は静かに答えた。
「彼女はもうすぐその命を終える。けれど、その魂は未だ輝いている」
「ええ」
私は頷いた。
魂を知覚すること。それは精霊であれば当たり前のことだ。
「ヒトの魂は死とともに失われる。全ては魔力に還元されて、零に還る。それでも、自分の想いを遺したい子もいるの」
老女が小さく呼吸をした。
最期のときが来たのだろう。今まさに、心臓が鼓動を止めた。
ノアルは囁いた。
「私たちはその受け皿でもある。自分の性質に共鳴する魂を受け容れる────それが私たちの役割のひとつ」
魂が魔力へと還元され、宙へと離散して行く。けれどその一部はノアルへと注がれた。
強く、暖かい魔力の光。
魂そのものが世界へと還っていくときに放たれるそれは、生前の魔力の有無に関わらず、ヒトの引き起こすあらゆる魔法現象を凌駕する莫大量。その輝きの一部を精霊は裡に宿す。
静かで密やかな、けれどなにより神聖な継承の儀式が終わる。
老女は何も残さず、想いだけを魔力に換えて
魂が震えるような感覚。
生まれたばかりで情緒の乏しい私には、それがどういう感情なのか分からなかった。なにか美しいものを目にしたような、決して手の届かないものを仰ぎ見るような……そんな感覚。
こちらをゆっくりと振り返り、ノアルが微笑んだ。
「この世界へようこそ。ヒトはあなたに縋り、願うことでしょう。あなたにはそれを叶えてあげる義務はない。けれど耳を傾けて、寄り添いなさい。……ただそうあるべく、ヒトは私たちを望んだのだから」
◇◇◇
精霊に家族はいない。ヒトの願いによって生まれ、それに依って存在し、必要を失えば消滅する。けれど、あえてノアルを私の家族に当てはめて説明するのならば、姉だった。
もっとも新しくもっとも脆弱な精霊である私にとって、ヒトの世は自分を生み出した母胎であると同時に、迷いへと導く混沌だった。日々を過ごせば過ごすほど、自分の在り方が分からなくなる。
そんな私にノアルは歩き方を教えてくれた。
ヒトの中にあって精霊としてあること。
精霊だからといって特別である必要はないこと。
日差しの日に木陰で休むこと。
曇りの日に微かな雨音に耳を傾けること。
薄闇の中で心を微睡ませること。
午後の遅い時間に冷ました薄いお茶を楽しむこと。
それは延々と続くなんの変哲もない日常で、けれどかけがえのない時間だった。私がそれを自覚するのにはあまりにも時間がかかりすぎて、だから最後まで結局、ノアルには感謝を伝えきることができなかった。
◇◇◇
「ねえ、ノアル」
「なぁに?」
「ヒトはどうして、この都市から出ていかないの?」
星の降る夜、この都市で一番高い塔の上でその疑問をノアルに投げかけたのは、私が生まれてから数ヶ月が経ってからのことだった。
そのころになってようやく、私はヒトの性質というものをある程度理解するようになり、この都市の在り方に疑問を抱くようになっていた。
「ここから出ては生きていけないからよ」
暗闇に広がる星海へと視線を向けるノアルは、静かにそう言葉を返した。
片手を上げ、指先で地平線の向こうを指差す。
「この砂の地の下には無数の魔物が蠢いている。脆弱なヒトの身では決して勝てない。だからヒトは加護を求めて、この都市で息を潜めながら命を繋いでいるの」
「この都市の中だけがどうして安全なの?」
私がそう聞くと、ノアルは賢しい瞳を揺らした。
そして一度目を伏せてから、空を見上げる。
次に私の方を向いて微笑み、横に座るように言った。
「……少し、昔話をしましょうか」
◇◇◇
最初まで遡ると……もう千年も昔。
この大陸は森と草原に包まれていた。安全な理想郷なんかじゃなかった。ヒトは自然や魔物と戦って、勝って、敗れて、したたかに生きていた。
活気があったことは覚えているわ。ヒトは常に発展を目指していて、欲望と生命力に溢れていた。
精霊も沢山いたのよ? 今とは比にならないくらい……それこそ、百も千もね。私もその時代に生きた一人だった。……そうね、楽しかったわ。全てが刺激的だった。
けれど、ヒトの時代は唐突に終わりを迎えた。始まりは些細なこと。倒しても倒しても数の減らない魔物が現れた。そんな知らせだった。
ヒトも精霊も笑った。倒しきれなかっただけだろう、見逃しただけだろう。すぐに倒されるから心配いらない。……確か私も、そんなことを言ったことを覚えてる。
けれど、僅かな時間で状況は一変した。
その魔物は本当の意味で不滅だった。いくら討伐しても総数は減らない。いえ、むしろどんどんと増殖する。そして増えるままにヒトを喰らう。……そうね、あなたも知っているとおり。壁の外に巣食う蛇のことよ。
懐かしい。
昔は……私の時代には違う名前で呼んでいた。
『
今ではあの蛇をそう呼ぶ人はいない。そう呼んでいた人は、私を除いてみんな死んでしまった。
不滅なんてありえない……ふふ。
そうねぇ。あなたにはあの蛇と戦ったことがないから分からないのも当たり前。確かに一匹一匹は、そう大変な敵ではない。生命力が強くて、殺しづらい。でもそれだけ。……問題は、倒した個体がどうなるのか。
この世界は循環している。
全ての生きものには終わりがあって、自分の役割を終えれば世界へと還る。ヒトも魔物も……私たち精霊ですら、その決まりに縛られている。
でも一つだけ例外があった。それがあの蛇。
あの蛇にとって、個体の消滅は死ではない。個体を滅ぼしても魂は世界に還らない……いえ、『
そもそも数を減らすことに意味が無い。魂の総量が減らないから、個体を滅ぼした瞬間に代替の個体が生まれる。そしてヒトや魔物を喰らい、その魂の一部を己のものとして取り込んで肥大する。
もちろん、抵抗はした。戦争になった。この大陸のあらゆる英雄英傑が手を取り合い、蛇に抗って、そして覆せない物量差に敗北した。
精霊も力を貸した。加護を与えたり、ときには自分で……でも、全て無駄だった。無限に対して暴力で立ち向かうことにはなんの意味も無かった。
勝機があったとすれば、最初だけ。
発見した直後に蛇をあらゆるものから隔離して、増殖できないよう管理する。ただそれだけが私たちに存在した勝機だった。
増えた蛇は文字通り、全てを喰らい始めた。
草木も、動物も、そしてヒトの営みも。蛇の支配地域となった場所には共喰いするあいつらだけが溢れかえって、この大陸には砂漠だけが残された。
……この都市を除いてね。
ここは最後に残されたヒトの領域だった。
逃げ場を失ったヒトは、必死になって生き残ろうとした。でも、どうにもならなかった。ヒトの力では、どうやっても蛇に抗うことはできなかった。
────ええ。ヒトだけでは、どうにもならなかったでしょう。
この都市を守ったのは『孤高と隔絶の精霊』。
彼女は強力な……私なんか比べものにもならないくらい強力な精霊だった。でも、彼女でも蛇には勝てなかった。力では抗えない。……そう悟った彼女は、己の身を魔法に換えた。
蛇を拒絶するもの。ヒトを脅威から隔絶するもの。そういう魔法へと自分自身を換えることを願って……残ったのは、一つの神器だった。
彼女の名前が知られていたらその名がつけられたでしょうね。でも、残念ながら誰も彼女には名前を教えてもらえなかったから、その神器はただ、『精霊の鐘』とだけ呼ばれた。……ええ、そう。この塔の鐘がそうよ。
けれど、それで万事解決……とはいかなかった。精霊の鐘はあらゆる脅威の侵入を許さない神器。でも、それを動かすためには燃料が必要だった。
あの蛇以外に、永遠に続くものはありはしない。
道理を覆して存在し続けるのなら、それだけの代償が必要────精霊の鐘はその燃料として、ヒトの魂と、それを統べる精霊を必要とした。
まあ、それはそうよね。もとが精霊なのだから、その動力となるのはヒトの想い────魂以外にあり得ない。そしてそれを神器に捧げることができるのも、精霊以外にはあり得ない。
最初にその身を捧げたのは『慈愛と夢見の精霊』だった。その四十年後に『叛逆と矜持の精霊』が。そしてさらに六十年後には『歌声と祈りの精霊』が。そしてさらに何柱も身を捧げていった。
そうして千年────ヒトという種を、かろうじて今まで繋いできた。
誰も嫌がりはしなかったのか……どうでしょうね。
私たち精霊はヒトがいなければどちらにしろ消滅してしまうから。それに自分に受け継がれた魂のことを想うと、無意味に消えるよりもヒトを生かすために使われた方がいい……そう言っていた精霊もいたわね。
蛇との戦いでそもそも、精霊は数が減っていたし、ヒトが少なくなった影響で存在を保てなくなった精霊も多かった。
明日は我が身と思うと、気持ちは分かるわ。
……私? くじ引きで最後に残ってしまった。
運が無かったの。
……いえ、そうでもないのかもね。
だって、最後にあなたと出会えたのだから。
この身を焚べてしまう前に。
◇◇◇
今になってみても、ノアルが本当のところはどう思っていたのか、私にはわからない。
────私も燃料にならなければならないの?
残された数ヶ月の間に、何度もそう聞こうとした。
でも当時の私は答えが怖くて、ノアルに聞いてみる勇気は出なかった。
けれど、察されてはいたのだろう。私が言葉に詰まったとき、ノアルは決まって背伸びをして私の頭を撫でて、微笑んで言っていたのだから。
『あなたはあなたでいいの。好きなように生きて。それが、私の願いごと』
思い返せば、ノアルは察していたのかもしれない。『精霊の鐘』に身を捧げる────それ以前の、私の精霊としての欠陥。
最後に生まれた、ヒトという種の寿命を延ばすかもしれない一粒の可能性。それがこんな出来損ないだったことを、ノアルはどう思っていたのだろう。内心、失望していたかもしれない。
……彼女は私を、許してくれるだろうか。
わからない。
けれど、頭を撫でてくれるあの小さな手のひらの柔らかさと暖かさだけは、未だに覚えている。
ノアルがその身を焚べていなくなり、何十年が経った今でも、ずっと。