「ご飯ができたわ。一緒に食べましょう」
部屋の外から声をかけてから反応が無いのを確認して、そっと扉を開けて部屋に入る。シュラは眠っていた。机に突っ伏して、何か呻きながら眉間に皺を寄せている。
「……ご飯ができたの」
耳元でもう一度聞くが反応は無い。私は起こすのを一旦取りやめて、シュラの傍の椅子に座った。
部屋の中を見回す。こうしてシュラの部屋に入るのも久しぶりのことだ。
いつのころからか、シュラは私が無断で部屋に入ろうとすると怒りだすようになった。何かやましいことがあるのかと聞くと無いらしい。本当に訳がわからない。
部屋の主が眠っていることをいいことに久しぶりのシュラの部屋を楽しんでいると、ふと、私の目は部屋の片隅に置かれている砂盆に留まった。
……ヒトであれば、まずそもそも、それに注目することが無いだろう。けれど精霊の眼を持つ私からすれば、魔法による隠蔽が施してあるそれは、逆に目立った。
砂盆の上を見つめても、そこに何があるのかを見通すことはできない。手を伸ばしそこに有る何かに触れても、その感触を確かめることもできない。
私は感心しながらその魔法をいじくりまわした。
シュラはヒトの中でも魔力がかなり少なく、規模の大きい魔法を使うことは苦手だ。けれどその代わりに、とても精緻な魔法を使う。
例えばこの隠蔽の魔法にしても、私程度の魔力でも破壊すること自体は簡単だ。けれどそうすれば、破壊の痕跡が必ず残るような作りになっている。
要は、魔法で作られた難解な知恵の輪のようなもの。壊すことは簡単でも、シュラに知られないようにそれを解除することはほぼ不可能だ。
実際、それは精霊でありヒトよりよほど魔法の扱いに精通する私であっても、明らかに持て余す代物だった。シュラが小さなころは私がお師匠様だったのに、最近ではもう、シュラの方が魔法に詳しい。
シュラがなかなか起きないので暇つぶしに魔法をいじくり回しながら、私は日中のことを思い出した。
『もう、時間は無い』
今日のお昼、久しぶりに顔を合わせたアラモスは、力無くそう言っていた。シュラを育て始めてからの私は、それまでよりもずっと、この都市の行先への興味が増していた。だからたまにアラモスに連絡を取って、状況を聞いていた。
けれど、良い答えが返ってきたことは無かった。
今日もそうだった。これまでと違ったのは、その切迫具合だけだ。
精霊の鐘はもうじき……一年、早ければ数ヶ月以内に、機能を停止するらしい。そうなればこの都市は終わる。ヒトの最後の安住の地は失われ、全てが蛇に呑まれる。
「……ごめんなさい」
誰にも聞こえていない謝罪を呟く。
ノアルのくれた時間をこの先へと繋げることに、私は失敗した。
私がまともな精霊であれば、まだ猶予があったはずだ。
永遠ではない。ただ終わりが引き延ばされるだけ。けれどそれでも、ヒト1人が────シュラが人生を送るには十分な猶予が。
私も完全に諦め切ったわけではなかった。
精霊としての性質を後天的に変える方法は無いか、シュラを育てる傍ら、いろいろと試してはみた。けれど、なんの成果も出なかった。分かったのは、私が本当に、何ひとつとして役に立たない精霊だということだけ。
じりじりとした、ただ終わりを待つだけの焦燥。本来であれば感じる必要もなかったはずのそれに、私は身を焦がしていた。
ヒトにも私自身にも、その行く末に興味は無かった。そんな私がこんな気持ちを抱くようになるなんて、想像すらできなかった。
今に至ってようやく、私はヒトと同じ苦しみを共有している、と思う。
大切なものを奪われる恐怖。逃げ場のない恐怖。
私に犠牲になってくれと臆面もなく告げた老人たちの気持ちに、今なら共感できる。自分の子が、その子孫が滅びようとしている。藁に縋ってでも、恥を晒してでもそれを回避しようとすることなど、当たり前ではないか。
そこで私は、自分が激情に駆られようとしていることに気づいた。……深呼吸をする。
シュラの方をちらりと見遣る。……この子の前では、私は大人だ。この子が頼れる、大人。ようやく浅くヒトを理解し始めただけの役立たずの精霊だが、それでも大人でなければならない。大人でありたいと思う。
そう自分に言い聞かせて肩の力を抜き────その瞬間、暇つぶしにいじくっていたシュラの魔法がかちりと噛み合い、隠蔽が解除された。
「……え?」
間抜けな声が漏れた。
解けるとは思っていなかったし、解けるはずがなかった。それは例えるならば数十枚のコインを投げて全て表になるような、そんな現象。
偶然と片づけて良いものか、あるいは神か悪魔が手を貸したと考えた方が納得できるような奇跡。
そして私は、
一見では何も分からなかった。
二度見ても理性が理解を拒んだ。
三度見て、ありえない現実を認識した。
────そこに、無色の精霊が在った。
それは厳密に言えば精霊ではない。生命ですらない。
精霊を模した、限りなくその機能を再現したナニカ。まるで自分の脳髄を見せられているような、何処か冒涜的な神秘。
けれどそれは、確かに存在していた。どこにでもありふれた材料で、想像を絶する妄執で、精霊という魔法を物質に押し込めていた。
背後でシュラが起きようと呻く声がした。
私は本能的に、解除した隠蔽の魔法を元のように取り繕った。
そんなことをした理由はわからない。
ただ、私がこれを知ったことをシュラに知られてはならないと思った。きっとこのときの私は既に、無意識のうちに、自分のすべきことを心のうちに思い描いていた。
気づけば夕食の時間は終わっていた。
再びシュラが部屋に戻り、がらんと冷えきった食卓で、私は茫然と思考していた。自分に何ができるのか。何をしなければならないのか。思考は止められなかった。
◇◇◇
「何の用事ですか……」
「見せたいものがあるの」
それから一週間が経ち、私はアラモスを訪れていた。
この前に顔を合わせてから大して時間も経っていないのに、彼はさらに痩せ、表情には老いと疲れが現れているように思えた。ただ終わりを待つだけの日々に倦んでいるのだ。
部屋に上がって、勧められた椅子に座る。お酒を一緒に飲らないかと誘われたが、断った。
「そうですか。……私は失礼します」
安い合成酒を呷るアラモスの顔には赤みがなく、むしろ紙のように白い。
かつての気力に溢れていた彼とは程遠い姿だった。
「身体によくないわ」
「構いません。残念ながら、私の身体よりもこの都市の寿命の方が短い」
アラモスは酒盃をもう一度、傾けた。
「私は老いましたがあなたは変わりませんな、精霊どの。十数年前に初めて顔を合わせた時、そのままの姿だ」
「そうかしら。自分では変わってしまったと思っているのだけれど」
「そうなのでしょうな。美しくなられた」
「……?」
「いえ、気になさらず。それで今日は何の用事ですか」
目の前に、『球体』を差し出した。
赤黒く、どこか生々しい質感のそれは、シュラの部屋で目にした手本を自分なりに再現したもの。魔法を感覚として理解できる私にとっては、それを再現することは決して不可能なことではなかった。
「これが何か、わかる?」
「む……」
アラモスは表情を顰めた。自分に酔い覚ましの魔法をかけてからソレを手に取り、まじまじと観察する。
「これは……」
何かを言いかけて口を噤む。
それを数度繰り返した挙句、アラモスは降参した。
「……なんですか、これは。ガラクタでないことは理解できる。だが、意図がまるでわからない。あなたが作ったのですか? これを?」
「そう。けれど、考えたのは私じゃないわ」
「……彼ですか」
アラモスは『球体』を私に返し、椅子に深く身体を預けた。
「彼は……シュラは元気ですか」
「ええ、元気よ」
「そうですか。それはいいことだ。……しかし、異端ぶりは加速しているようですな」
「異端?」
聞き返す。アラモスは低く笑った。
「あなたには分からないかもしれませんが、彼は魔法に関しては間違いなく異端ですよ。天才と言ってもいい。精霊に育てられた人間というのはああなるのですかね」
「……どういうこと?」
「精霊の魔法を人の論理で記述しようという試みはこれまでにもありましたが、しかし成功したことはなかった。私が思うに、彼はおそらく、その初めての成功例なのでしょうが……」
アラモスは頭を振った。
「……残念ながら、それを理解し検証する術を我々は持たない。隔たりが存在するという意味で、優れすぎることは劣りすぎることとさして変わりがありません」
「誰にも理解できないのなら、それは間違っているのではないの?」
アラモスは大きく息を吐いた。
「論理が正しかろうか正しくなかろうが、それ以前の問題として理解できないことが世の中にはあるのです。言語と数式では解釈不能な領域が。例えば1と1を足した時に、私は2と答える。それに対して彼は、赤色と青色を足し合わせて紫色になったと答えるかもしれない」
「……?」
首を傾げる私に対して、アラモスは目を細めた。
「文字通りに見えているものが違うのです。どれだけ言葉を尽くして説明しようと、一個人の認識が全くそのままの形で誰かに共有されることはありえない。彼は彼の視点を用いて、新しい概念を論理化しようとしている。それは素晴らしいことです。しかし……」
アラモスは複雑な表情をして、囁くように言う。
「そうして構築された論理は、あくまでも彼の視点でしか理解不能なのです。精々が妙に意味ありげで整然とした何か……我々にはその程度にしか認識できません。精霊であるあなたであれば理解できるのですかね?」
「それは……」
どうなのだろう。
肯定も否定もしない私に、アラモスは目を細めて話を続けた。
「少なくとも私には、理解できなかった。……実は数年前、彼が私を訪ねてきたことがありましてね。その時は申し訳ないことをした」
「何があったの?」
「彼は自分の考えが理に叶うかどうか、年長者に意見を聞きに来ただけです。……だが私は、自分の半分以下の年の子供の、疑問の前提すら理解できなかった。彼の論理を形作るルールを共有できなかった」
アラモスは自分のこめかみをぐりぐりと押さえる。
「話が噛み合わないことに気づいた彼の表情は頭から離れませんよ。……あんな顔をさせるつもりはなかった」
アラモスは立ち上がり、酒杯の残りを流しに捨てた。
私に向き直り、真摯な口調で尋ねる。
「それで。……なんですか、これは?」