大鐘楼にて、老人たちと相対する。再び足を踏み入れることもないだろうと思っていたこの場所に、私は再び足を踏み入れていた。
「久しぶりですな、精霊どの」
「ええ、久しぶり。まだ生きていたのね」
「はは、死に損なっております」
その中でも一番の年長者……十数年前に呼び出された時も賢人として出席していた老人と言葉を交わす。
彼とアラモス以外の賢人たちは動揺している様子だった。
「……彼らは知らされていなかったのです。最後の精霊がまだ、存在していることを」
「そうなの?」
「あなたも煩わしいのは嫌でしょう?」
「そうね」
耳打ちするアラモスに小さな声で答えて、賢人たちに向き直った。
「ねえ、あなたたちに聞きたいのだけれど。ヒトはどうやって、蛇から逃げ延びるつもりなの?」
前言葉も入れず問いかける。
「ヒトは精霊に縋り、千年を生き延びた。じゃあ、これからは? あなたたちはどうするの?」
答えは無い。淀んだ空気だけがあった。
ぽつりと声が上がる。それは私の言葉への答えではなく、問いかけ。
「……あなたは、どうするんだ」
「私?」
「ええ。……あなたは精霊なのでしょう? それ自体が初耳ですがね、じゃあどうするつもりなんだ? あなた一人、生き延びるつもりか?」
反駁しようとする老人とアラモスを押し留め、私は問いに答えた。
「そのつもりだったわ。私の家族を連れて、逃げ延びるつもりだった。でも、そんなの先が見えている。だって、私はあなたたちが滅びればそのうち消えてしまうから。そうすればあの子もじきに死ぬ。……そんなこと、受け入れられるわけがない。だから私はここに来たの」
「滅びを回避する方法があると?」
「あるわ」
私の言葉に、賢人たちが目を見開く。そこには『精霊の言葉であれば』という期待が宿っていた。
……私の提案を聞いても同じ期待を抱いていられるだろうか。
私は『球体』を取り出し、賢人たちに渡す。だが誰一人として、その本質を理解できるものはいなかった。
私は説明する。
ソレがシュラの作り出した、精霊の似姿であること。何色にも染まっていない、原型とも呼ぶべき代物であること。
同時に私のことについても話す。私が精霊であれど、ヒトに望まれない出来損ないであること。その性質を変えることは不可能だということ。
そして最後に、精霊の鐘について。精霊の鐘を動かすために必要なのは……燃料たる、ヒトの魂であるということ。
私の説明とともに、賢人たちの自分の手の中にある球体に向ける目が変わってくる。誰しもが勘づいていた。『無色』であるということは────つまり、全てを受け入れられるということでもあるのだ。
最年長の賢人が震える声で私に聞く。
「では……では、これさえあれば精霊の鐘を動かせると? 永遠に、ヒトの営みを続けられると?」
「いいえ。これだけではなにもできない。それに、永遠も保証できない」
なぜならそれは精霊の似姿であって、精霊ではない。あくまでもモノに過ぎない。そう私が答えると、再び聞き返された。
「では……なにができると?」
「その『球体』はヒトの魂の受け皿にはなっても、ヒトの魂を集めることはできない。なぜなら、そうするだけの欲求も、魂を留めておこうとする意思も無いから。……でも、私がその球体にヒトの魂を集めて、中に留める。そして、それを抱いたまま精霊の鐘の燃料になる。それは可能なはずよ。たった数十年でしょうけど、ヒトという種の寿命を伸ばすことができる」
沈黙が降りた。
老人は尋ねる。
「……あなたが犠牲になると?」
「犠牲ではないわ。私はそれを犠牲とは呼ばない。ノアルも、ずっと昔の精霊も、みんな自分の心に従ってきた。私もそれに倣うだけ。……犠牲を払うのは私ではなく、あなたたち」
私は窓に近寄って、街並みを見下ろした。
かつてはなにも感じなかったヒトの営み。今は、その尊さを理解できる。
私は視線を振り切って、努めて平静に話した。
「言ったでしょう。精霊の鐘を鳴らすのは、私ではなくヒトの魂。……数十年のために数百、数千の命を、あなたたちは捧げることができる?」
私の問いかけに老人はため息を漏らした。
それは失望ではなく、安堵によるものだった。
「そのようなことですか────もちろんです。いくらでも捧げましょう」
私は目を見開いた。
「……いいの?」
「構いません。まずは私から。その次にはこの都市で不要な者たちを。そうして、必要な量だけを燃料としてください」
化け物を見るような目を私は向けていた、と思う。
老人の眼にはあまりにも曇りが無かった。自分の行いを正道と信じ、一片の迷いもない。そんな眼だった。
……それはヒトの在り方ではないはずなのだ。私がこの十数年で学んだヒトという生き物と、この老人は外れて見えた。
そんな私の視線に気づいたのか、老人は困ったように笑った。
「……本当の危機を前にすると、ヒトにとって個は稀薄なものです。種が生き延びるか否かを前に、個人の生き死には価値を持ちません。滅びを見据え続けたこの数十年で、私はそう思うようになりました。……人でなしと呼ばれていいのです。この決断を下せてこそ、ようやく私に価値が生まれる」
「……そう」
私はそれしか言葉を返せなかった。
少なくとも私には、この老人に何かを言えるような資格は無かった。私がこれから突きつけようとしている要求を思えば────。
興奮と怜悧が同居した空気の中で、私は声を上げた。
「二つ、お願いしたいことがあるの」
注目が私に集まる。私はできる限り心を平坦にしようと努力しながら、言葉を絞り出した。
「……一つ目。私の家族を、シュラを燃料にはしない。もしそうしようとするなら、私は協力しない」
賢人たちは顔を見合わせた。
代表して老人が言葉を返す。
「……それは当然でしょう。そも、この球体を作り出したのはその子なのでしょう? 英雄を燃料として消費することなどありえない」
「そう。じゃあ、二つ目……シュラには何も教えないで欲しいの。私が何をしてどうなるのかも含めて」
私のその要求に、再び賢人たちは顔を見合わせた。だがそこには、先ほどとは違う困惑が見てとれた。
「……英雄を、英雄として扱うな、と?」
老人の言葉に私は頷いた。
「あの子は何も知らなくていい。あの子は幸せに生きるの。だから、駄目」
「……理解はできます。しかしそれでいいのですか? 彼の業績を公にすることを望まないなら、それには従いましょう。ですがそれでも、彼は対価を受け取るべきでは? それにあなたの献身を知らないでいるのは……」
老人の言葉に動悸が激しくなる。
その通り、かもしれない。そもそもの話、あの子に黙ってこうしていること自体、間違っている────そんなことは私も知っている。
「……駄目」
「彼のためにも……」
老人はなおも言い募る。
私は反射的にその言葉を否定した。
「……違うの」
絞り出すように、自分の中に渦巻くどろどろとしたものを言葉にする。
「……あの子のためじゃない。私のため。私が、嫌なの」
自分の醜さを、言葉にしてはっきりと自覚した。
同時に抱く、自分自身への強烈な嫌悪感。自分を出来損ないだと知った時にすら抱かなかったそれは毒のようで、けれど飲み干すしかないもので、苦さに身体の中心がひどく痛む。
賢人たちは動揺していた。
指で眦を擦ると、液体で濡れている。ノアルがいなくなった時すら流れなかった涙が、ぽろぽろとこぼれ出てくる。
いつのまにか私は、泣きじゃくりながら言葉を口にしていた。
「あの子が知るのは、嫌なの。どうしても、嫌なの。……あの子が創ったもので、私がヒトを殺すのを、それをあの子が知ってしまうのは、それだけは────それだけは、絶対に、嫌」
……酷い話だ。
私はヒトの営みをすでに知っている。かつての私とは違う。それが侵し難く尊いもので、だからこそヒトは生を楽しみ、慈しむことを理解している。
それを私は奪おうとしている。
ヒトを救うためだという欺瞞に包んで、自分の大切なもののためだけに、この世に一つだけの宝物を数百も、数千も踏み躙ろうとしている。
「ごめんなさい……」
そして最悪なことに、そんな凶行よりもなお────自分の罪をあの子に知られることの方が、よほど私は怖いのだ。
「……ごめんなさい」
自分の欺瞞がひどく醜い。
恥という概念の本質を、ことここに至って私はようやく理解した。
それ以上に何も言えなかった。ただ俯いて、賢人たちの沙汰を待つ。
数分も経ち、沈黙を破って声が聞こえた。
「……あの日、私は最後の精霊をこの部屋まで案内してきた」
冷静な声が言葉を続ける。
「あのころ、私はまだ若造で、この部屋の前で聞き耳を立てていただけです。けれども、確かに聞きました。……精霊どのの献身に報いるべく、何であれ、叶う限りの対価を払うと。賢人たちがそう約束していたのを、私はこの耳で、確かに聞きました。そうですね?」
老人の言葉が答えた。
「確かに。……その誓約は、今も消えてはいない」
「ならば、そうするべきだ。……精霊どの」
その声に顔をあげるとアラモスがこちらに手を差し出していた。
「誓います。全て、あなたの心のままに」
「……いい、の?」
「あなたがそれを望むのなら」
真摯な声だった。
私はおそるおそる、差し出されたその手を握った。
◇◇◇
私たちの取ろうとした行動は、決して誇れるものではなかった。ただ滅びから背を向けて逃げ去るだけの、公にできない敗戦処理だった。けれど、それを止めようとするものもまたいなかった。
何よりもただ、時間が無かったのだ。
手段を選ぶ余裕など、私たちは持たなかった。ヒトという種を存続させるためのタイムリミットは差し迫り、崩壊がほんの数ヶ月後に訪れるという状況で、正気でいられるものはただの一人もいなかった。
どれだけ高度な道徳も、種の保存という目的の前には退けられる。私も賢人たちもあらゆる良心を削ぎ落として、残酷だと理解していながら行動を選択した。それが全てだ。
それは誰にも誇れない選択だったが、同時に、決して後悔すべき選択では────後悔してよい選択ではなかったはずだ。
賢人らの協力を得てなお、あまりにも猶予は少ない。残り僅かな時間は蝋のように溶けていく。だが、間に合った。間に合ったはず、だったのだ。けれど辿り着いた
◇◇◇
こんな状況に陥っている理由はいくつかある。
まずは一週間前、都市内に現れた蛇の存在。闘技場で現れたというワームは、ひどく衰弱していたという話ではあったが、確かに成体だった。
その知らせを受けた時点で、私たちはほとんど恐慌状態に陥った。成体の蛇の都市内への侵入を許すなんて、これまでにたったの一度もない出来事だったのだ。
もちろん、話に聞く蛇の衰弱具合であれば、何匹襲来しようと対応できるはずだ。けれど、そういう問題ではない。蛇の出現はまず間違いなく、精霊の鐘が停止しようとしていることの証明に違いなかった。
あと数ヶ月と考えていた猶予が、ほんの数日すら無いかもしれないと突きつけられた瞬間だった。
極端に削られた選択の猶予。できる限り自然死する人間から魂を集めようとする計画は、あっさりと破綻した。
もはや詳細な選別すらも諦めるほかなく、幾つかの地区全体を精霊の鐘へと捧げる供物にすることとなった。
そのために作り上げたのが、吸血鬼化の感染症だった。それに感染したところで吸血鬼としての長所や弱点が付与されることはないが、
水を介して感染する無害な吸血鬼という、本来ありえない、私たちにあまりにも都合の良い症状。それを実現したのはアラモスと、彼の構築した魔法を『球体』に転写した私だった。
魔導生物の専門家である彼が、矛盾を内包する存在を魔法的に構築する。そしてそれを、私が『球体』に魔法として転写し、刻みつける。
そうすることで、本来であれば瞬時に自壊するはずの机上の空論は、実存する魔法現象として永続性を手に入れた。
けれどその計画は、即座に頓挫することになった。
上手くいっていたはずだった。街には吸血鬼症の患者が確認されて、あとは拡大を待つだけ。
それなのに気づけば、昼前にはほぼ全員が完治していた。凄腕の魔法使いによる治療という話だったが、信じられなかった。そんなことは私にも無理だ。どんな魔法使いにならそれが可能なのだろうか。
そして動揺している私に追い討ちのように、アラモスが消息不明になったと知らされた。
頭が真っ白になった。彼には吸血鬼化の魔法を刻んだ『球体』の管理をお願いしていた。それが急に行方不明になるということは、何者かに……吸血鬼症を治療した誰かに襲われたと考えるのが自然だろう。
アラモスがどうなったのかは分からない。
玄関が盛大に破壊されているとはいえそれ以上に争った痕跡が無いことを踏まえると、拉致されて尋問されているとでも考えた方がいい。
……彼には無事であってほしい。
心から彼の無事を願った。けれど同時に、私の心の冷たい部分が告げていた。彼の安否を気にしている余裕があるのか────と。
実際、猶予は無かった。
相手が何を考えているのかは分からない。けれど、なんらかの情報を持った上で敵対されていると考えるべきだろう。
であれば。なおさらに、速度が重要となる。
私たちの計画の妨害は、そう難しいことではないのだ。
例えば全てをこの都市の住民に暴露する、それだけで計画の実行には過剰な暴力と流血を伴うことになる。
最終的には住民たちにも認められるとしても、まず間違いなく、崩壊までの貴重な時間が浪費されてしまう。それを許容することはできなかった。
ならば、今夜。拙速であったとしても実行に移すことこそが最善だと、私も賢人たちも判断した。ではどうすれば良いのか────簡単なことだ。私が私の意思でヒトを殺せば、それだけで解決する。
そもそも吸血鬼化のマーキングが必要だったのは、賢人たちの発案を受け入れたからだ。賢人たちは危惧した。私にヒトを殺すことが本当にできるのか、その手が鈍りはしないか────と。
目印によって対象を特定して、自動的にゴーレムが殺す。私は魂の回収に専念する。それが賢人たちのもともとの計画だった。
けれども今は状況が違う。全てが崩壊するか否かの瀬戸際で、私の心情や負担など考慮する価値も無い。
私が直接ゴーレムを操り、殺すべき相手を見据え、私の意思で一人ずつ殺す。ただそれだけでいい。……すべきことは最初から変わっていないのだ。できないことでは、ない。
◇◇◇
そして、計画は実行に移される。
球体は大量の水でゴーレムの肉体を形成するため集水場に設置され、私はこの都市で一番高い場所からそれを操り、ヒトを殺す。
ただそれだけの計画……の、はずだった。
「これは、なに……?」
────その単純な計画すら、破綻していた。
ゴーレムを起動した直後、私は異常に気付いた。駆動を始めた『球体』に満ち満ちたのは赫い魔力────怨念の如く禍々しい魔力だった。
それがどこから、なぜこのタイミングで現れたのか……全てがわからない。虚空から直接現れたとしか表現のしようのない莫大な魔力により、ゴーレムは私の制御を離れ、暴走を始めた。際限なく水を吸収し、膨れ上がり、建造物を破壊しながら外へと侵攻を始める。
「やめ、なさい……!」
必死に暴走を止めようとしても無駄だった。
確かに私と繋がっているのに、ゴーレムが私の言うことを聞いてくれる気配は無い。いや、それどころか────
「……逆、流?」
私とゴーレムの繋がりを介して、赫い魔力は私に逆流し、侵蝕を始めた。それに触れ、侵される瞬間、私は背筋をざわざわと悪寒が走る気持ちの悪い感覚を味わった。
それが何であれ、所詮は魔力に過ぎない。それが莫大であるなら、むしろ都合が良い。私の身ごと精霊の鐘に捧げればいい────思い描いていたそんな解決手段を私の本能が否定した。
魂を犯す破壊衝動。心を満たす怨念。
それはまず間違いなく、災いを齎す魔力だった。精霊の力の源となる祈りの魔力とは真逆の、憎しみと怨みにより生み出された魔力。
仮にこの魔力を捧げたとして、精霊の鐘は動きはするだろう。だが、まず間違いなく、暴走する。
それがどういう形になるのかまではわからない。空間ごと都市を隔絶してしまう、あるいはヒトの存在すら不要と判定して排除する……ただの想像だ。けれど、悪意に満ちた結果が待ち受けているのは目に見えていた。
「お願い……止まっ、て……」
せめてゴーレムとの繋がりを切り離せば止まってくれるはず。けれどその試みもうまくはいかない。
赫い魔力は時間とともに鎖のように強固な楔となり、ますます同調が深くなる。私の内側に溶け込んでじわりじわりと犯す、毒のような魔力。蓄積し濃縮するそれを拒絶する術はない。
意識は混濁を始め、視界が赤く明滅する。
もはやゴーレムを制御することは不可能だった。地上でゴーレムに立ち向かってくれていた魔法使いたちも危険と判断したのかその場を離れ、私たちを止めるものは誰一人としていなくなってしまう。
私は掠れた声で、大切な名を呼んだ。
「……シュ、ラ」
返事は返ってこない。
当然だ。私が何も知らせなかったのだ。
赫い魔力に汚染された理性は制御を失い、感情が勝手に溢れ出す。
走馬灯のように過去が頭の中を駆け巡った。
最後にあの子と一緒にご飯を食べたのはいつだっただろうか。
あの子を最後に撫でてあげたのはいつだっただろうか。
あの子を最後に抱きしめたのはいつだっただろうか。
あの子と最後に話したのはいつだっただろうか。
あの子が最後に私の名を呼んでくれたのは、いつだっただろうか────。
何も、何も分からない。
全てが遠く霞んでいく。
意識は暗い渦に呑まれていく。
────その瞬間。
凄まじい衝撃とともに、閉ざされた天蓋が砕け散る。
破壊の轟音、舞い散る粉塵、月明かりに落ちる人影。
暗闇に閉ざされたこの場所で、愛し子が私の名を呼ぶ。
「
夜が始まる。