叩き壊された天蓋の下、たった一人だけ静寂の中に取り残されたように、淡い月明かりの下に人影が佇む。
同じ灰色でも、シュラの白く乾いた灰色とは違う。
光を纏う、銀のような髪が暗闇に流れた。
逃避と停滞の精霊、グレイスフィア。
シュラの師であり母である。
……だが、その表情はシュラの知るものとは違う。
穏やかに遠くを見るような、どこか浮世離れした気配はそこにはない。涙を流して虚脱するその表情は、どこか少女のように危うかった。
だが、それが幻覚であったと思わせるほどに、グレイスフィアがシュラに向けた視線は鋭かった。それもまた、初めて見る表情。冷徹に拒絶するような────『敵』を見る視線。
「……何をしにきたの、こんなところに」
精霊は静かな口調で、けれども絶対的な否定の意思を込めてそう問いかける。シュラは意思を振り絞って言葉を返した。
「連れ戻しにきた。……帰ろう。一緒に」
「連れ戻す? 誰を? どこに? ……あなたの相手をしているほど私は暇ではないの。さっさとここを立ち去りなさい」
にべもない返答にシュラは唇を噛む。
「……アンタが何をやろうとしてるのか、俺は知らない。でも、よくないことになってるんだろ? たぶん、いろんなものを掛け違えてるんだ」
「……」
精霊は黙っている。だが、明らかに動揺していた。
シュラは慎重に言葉を選んだ。
「だから今日は……もうやめよう。家に帰って休んで、明日の朝メシは俺が作る。朝ごはんを食べたら、お茶も淹れる。話すのはそれからだ。……なあ、それでいいだろ。そうしようぜ」
「……うるさい」
その小さな呟きを、シュラは聞こえないふりをした。
「……大丈夫だ。少し休めば気分も良くなる。それにだ、アンタが何をしたいのかは知らないが、何をするにしても手伝うやつは多い方がいいだろ? 俺はアンタの弟子なんだ、きっと力になれる。……頼むよ、なあ」
「……黙って!」
グレイスフィアはシュラの言葉を遮った。自分の身体を抱き締めながら、混乱した眼でシュラを見る。
絞り出すように言葉を吐き出した。
「……聞きたくない。お願い、帰って。今、あなたにできることは何もないの。……あなたはこんなところにいては駄目。いい子だから……ね?」
「聞けるわけないだろ、そんなの。……ほら、行こう」
シュラが一歩踏み出すと、怯えたように精霊は身を強張らせた。その様子に思わずシュラは足を止める。
グレイスフィアは引き攣った笑顔を浮かべた。自分が何をしているのか、何を言っているのか、もう自分自身にもよくわからない。
「違うの……ここから帰って。一緒にいて。お願い……誰にも聞こえないように、私の名前を呼んで?」
泣き笑いのまま紡がれる支離滅裂な言葉。グレイスフィアの中で、何かが崩れ落ちようとしている。それを理解したシュラは駆け寄った。
だが、間に合わない。
同時、凄まじい風が吹き荒れる。その発生源は、無論────赫い魔力に魂を汚染された、災厄へと堕ちし精霊である。
シュラは理解した。
手遅れだったのだ────おそらくはこの場に辿り着いた時点で、既に。
クロウに問いかける。
「……どうすればいい?」
おもむろに殴り殺せばOKな相手ではないとなんとなく察知し、とりあえず話を聞く体勢に入っていたクロウは、シュラの問いに適当に答えた。
「倒すしかないんじゃないか」
「それ以外は?」
「ふむ。……どうすればいいんだろうな?」
無能以外のなにものでもない回答だったが、シュラにはクロウを責めることはできなかった。なにしろシュラ自身、どうしていいのか分からない。
そして何の答えも出せないまま、災厄は動き出す。
「……そうね。何を迷っていたのかしら、私」
精霊は奈落のような眼をシュラに向けた。
「あなたの言葉なんて聞かなくていい。あなたはこの場所にいてはいけないし、私は私のするべきことをする。……分かっているのに、何を迷っていたのかしら」
「待て、落ち着」
「────眠りなさい」
瞬間、凄まじい規模の魔力がグレイスフィアから放たれた。ほぼあらゆる魔法を使いこなす精霊という存在に、災厄と化したことによる無尽蔵の魔力が付随する。それは考えうる最悪の組み合わせである。
放たれたのは、文字通りの『眠らせる魔法』。その魔法は低く謡う精霊の声に乗って広がり、僅か一小節で聞くもの全てを眠らせる。
シュラもクロウも、一瞬で意識が遠のき────。
────ぱきん、と乾いた音が静寂に響いた。
「……何、してるの?」
グレイスフィアの声が微かに震えた。
指に走る激痛。
眠りに抗うためとはいえ、自分の指を自分でへし折る感覚は、もう二度と味わいたくない程度には最悪だった。
だがシュラは、痩せ我慢の笑みを浮かべる。
「……それはこっちのセリフだ。こんな子供騙しの魔法で俺を眠らせようだなんて、馬鹿にしているのか? アンタの子守唄が無いと眠れなかったのは、もう随分と昔の話……俺がガキだった頃の話だ」
激痛に額から脂汗を流しながら、グレイスフィアの動揺につけ込むように言葉を続ける。
「自分でも分かってるんだろ? ……アンタには誰かを傷つけることなんて、できやしない。こんなことはやめて、家に帰ろう。……ほら、母さん」
シュラはそう言って手を差し出す。グレイスフィアは一瞬、酷く怯えたような顔をした。だがその動揺は一瞬で塗り潰され、元の無表情へと戻る。
グレイスフィアは深呼吸をして、ぽつりと言った。
「ええ、分かったわ……」
シュラは思わず声を震わせた。
「……ああ! 一緒に────」
「────私、まだ、躊躇してたみたい。言うことを聞かない子どもには、お仕置きも必要、よね?」
次の瞬間に放たれた魔法は、明確な『攻撃』だった。
グレイスフィアの周囲に生成し、浮かび上がる無数の光の珠。それらが群れを成し、シュラに襲いかかる。
「ぐっ……!」
強く小突かれるような衝撃がシュラの身体に走った。光の珠が衝突した衝撃だ。それは攻撃というにはあまりにも手緩い。こんなものを一発当てられたからといって、誰が怯むだろうか。
だが、それも数十、数百と重なればどうだ?
連続する衝撃が重なり、痛みと吐き気をもたらす。無数の珠による光量とその破裂音で、目も耳もまともに効かない。シュラにはただ、身体を丸めて耐えることしかできなかった。
シュラがまともな魔法使いであれば、魔法で防御してこの場をやり過ごすこともできただろう。だが魔法使いとしてのシュラは悲しいほどに異端で、そしてこの場では弱者でしかなかった。
魔力壁を作り出して衝撃を中和する。床の組成を操作し中に潜る。
その程度の魔法すら、シュラは準備なしには使えない。
シュラの頭はだんだんと朦朧としてきた。何かを考えることもできない。こうやって抵抗する気を削ぎ、意識を失わせてこちらをあしらおうとしているのだと分かっているのに、何もできない。
こんな状況に陥っているところを誰かに見られたら、きっと、笑われる。災厄を止めると息巻きながら、無策で話し合いに賭け、普通にボコられている。少なくともシュラ自身が見れば、高確率で笑ってしまう馬鹿さ加減だ。
この都市の『まともな』魔法使いたちもきっとそうだろう。この程度の状況も切り抜けられないシュラの無様さを、あの嫌な笑顔で笑うに違いない。
最近出会った、彼らはどうだろうか。笑いはしないかもしれないが、呆れはするだろう。こんな攻撃は眠気覚ましにもならないとか言って────
「……で、どうするんだ? シュラは」
いつの間にか、身体に叩きつけてくる衝撃が止んでいた。
だが、攻撃が終わったわけではない。周囲は無数の光の珠により照らされ、暗闇の中で光り輝いている。
では何故だ。
顔を上げると、そこにはこの攻撃を
その立ち姿は背中に無数の攻撃を受けてシュラの盾になっているのに、小揺るぎすらしない。首を傾げて話しかけてくる。
「たぶん、もうあいつと話しても無駄だと思うんだが。シュラはどうするつもりなんだ?」
「どう……って」
言葉に詰まる。シュラにとっては、グレイスフィアを見つけることが全てだった。それ以上の想定は何もない。
こうして決裂した今、どうしていいのかなど分からない。
惑うシュラに、クロウは気楽に問いかけた。
「あいつをどうやって倒すつもりなんだ?」
「倒、す……?」
未だ頭が回らないシュラに、クロウが不思議そうに問いかける。
「違うのか? じゃあ、どうするんだ?」
何も言葉を返せない。
そんなシュラに、クロウはやれやれとばかりに肩を竦めながら言った。
「やれやれ。どうするかは自分で決めるしかないんだぞ。だってシュラは、自分で選んでここに来たんだからな」
クロウは数を数えるように指を一つ曲げた。
「そうだな……まずは、倒す。別に、シュラのかわりにおれがあいつを倒してきてやってもいいけどな。……うむ、たぶん、頑張れば殺さないでも倒せるんじゃないだろうか」
そして指をもう一つ曲げた。
「もう一つは……。……逃げる……? ……ふむ、おれより弱いやつを相手にして逃げるのは初めてかもしれない。まあ別にそれでもいいが」
背後からの攻撃が光源となり、シュラを見下ろすクロウの表情は逆光となって見えない。だがシュラには分かった。
────笑っている。愉しそうに。
「どっちを選ぶ? シュラは、どんな冒険をするんだ?」
「俺は……」
悪魔に魅入られたような気分だった。
誘引されるように、導かれるように、ばらばらだった思考が一つの指向性を持つ。シュラは無意識のうちに喋り出した。
「倒しも逃げもしない。
「そして?」
「最終的には……膝枕をしてもらう」
「おぉ……」
何かが駄々漏れになっているその回答に、ちょっとびっくりしたクロウは呻いた。そして少し考えて、ぽつりと言う。
「ふむ。シュラらしくていいんじゃないか」
「……手伝ってくれるか?」
「いいぞ」
いつしか攻撃は止んでいる。
身体は既にぼろぼろだ。だが────。
シュラは立ち上がった。
その灰色の瞳の中に、闇に佇む精霊をただ真っ直ぐに捉えて呼びかける。
「ちょっと待ってろ。……家まで、連れ戻してやるから」