そのうちの一人はシュラ。先ほどの攻撃をどうやり過ごしたのか……分からないが、おそらくはもう一人が手を貸したのだろう。
次いで、その『もう一人』にグレイスフィアは目を移す。
そして思った。
────誰……?
よく見てみたら全く見覚えがない。
シュラが連れてきたのだから知り合いかと思えばそんなことはない。そうでなくともこの狭い都市の中、見かけたことくらいはあってもおかしくないが、本当に何一つとしてこの少年には見覚えがない。
圧倒的部外者の存在に内心で困惑するグレイスフィアに、その見覚えのない少年が気楽に語りかけてきた。
「なあ、教えてほしいんだが」
「……なに?」
「さっきのあれ……なんか光ってるのをこっちに投げつけてきたのは、なにがしたかったんだ? 本気じゃないもんな」
衝動的に答えを返した。
「あなたに答える必要なんてない」
「む。……それもそうだな」
少年は頷き、シュラに一瞥をくれてからやれやれと腹の立つ動作で肩を竦め、こちらに一歩を踏み出した。
そのまま呑気に話しかけてくる。
「でも、おれには遠慮はいらないぞ」
「……どういうこと?」
「だって、そんな余裕はないと思うからな」
次の瞬間────少年の姿は掻き消えた。
「……ッ!?」
それは技術でも魔法でもない。
地を踏み込み、前に出ただけだ。
それなのに────ただ単純に、疾すぎて見えない。
気づけば少年の姿が目の前に現れていた。
振り上げられた拳がこちらに迫ってくる。グレイスフィアは思考の速度すら追いつかないまま、拳が振るわれる瞬間を見ていることしかできない。
「……ッ?」
だが次の瞬間、少年は戸惑いを見せた。
拳がグレイスフィアに接触する寸前、その動きが明らかに鈍化した。どれだけ力を込めても速度は増さない。否、むしろ────停止に近づく。
それから一瞬遅れ、背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、グレイスフィアはようやく現実を認識した。だがその動揺をすぐに鎮め、首を傾げる少年へと不敵な笑みを浮かべる。
「あなた、随分とすばしっこいのね? ……でも、あなたは所詮ヒト。精霊の権能の前には無力と知りなさい」
「権能……?」
「ふふ……無知な子。精霊には皆、司る特性……権能がある。私の権能の一つは『停滞』。あなたがいくら疾かろうと関係ない。私の前では停滞する」
グレイスフィアは傲然と言い放った。
「諦めなさい。自分の無力さが分かったでしょう?」
そもそも権能を使った覚えなどないことはひとまず棚上げし、グレイスフィアは全力で虚勢を張った。
溢れんばかりの災厄の魔力が反応し、勝手に権能を暴走させていなければこの時点で終わっていた。だが、そんなことはおくびにも出さない。
重要なのは、この二人の少年の心を折ることだ。
「あなたたちでは私を止めることはできないし、触れることすらもできない。……シュラと一緒に、さっさと────「本当か?」────!?」
グレイスフィアは硬直した。再び掻き消えたような素早さで動いた少年が、目の前に停止して現れたのだ。
「……ッ!?」
「なるほど。確かに動けないな」
そう言って少年は、動揺した様子もなく前進をやめた。『停滞』の権能は後退を許容し、再び距離が開く。
だが次の瞬間、全く同じ展開が繰り返された。少年の肉体が目の前で硬直する。これで三度目の攻撃だ。
「ふむ……どうすればいいんだろうな」
繰り返される失敗にも関わらず、少年の声に諦める気配は無い。それどころか、僅かな好奇心すら覗く。グレイスフィアは動揺を隠して問いかけた。
「……無駄だと分からないの?」
「たぶんこのままじゃ駄目だな」
「なら……」
もう諦めなさい。
そう言おうとしたグレイスフィアを遮って、少年は言った。
「でも、なんとかなると思うんだ────ほらな」
グレイスフィアの表情が引き攣った。
────停止している少年の身体が、こちらに近づいてきている。
動いていない。それなのに、距離が縮まっている。
「な……!?」
「やっぱりな。これでいいのか」
納得したようにそう呟く少年の言葉の意味が、グレイスフィアには分からない。少年が何をしているのか、さっぱり理解できない。
だがそれは、はっきり言って仕方の無いことだった。荒事とは完全に無縁で生きてきたグレイスフィアに、それが理解できるはずもない。
何故ならそれは、余人には理解できないからこそ価値を持つ、『武術』と呼ばれる技術体系なのだから。
本来であればそれは、相手に自分との間合いを見誤らせる程度の技術に過ぎないのだが……グレイスフィアの認識を掻い潜るには十分だった。
無論、もしグレイスフィアが少年の姿を見ていなかったとすれば、こんな小細工に意味など存在しない。権能とはこんな小賢しい小細工で誤魔化されるようなものではないのだ。
だが、そんな権能の能力も、それを操るグレイスフィア自身の認識が異なれば役には立たない。何故ならば他ならぬグレイスフィア自身が、少年が『停滞』の権能によって停止していると、そう認識してしまっている。
故に、止められない。
既に停止したものを『停滞』させることはできない。
少年の拳が眼前に迫るに至り、ようやくグレイスフィアは我に帰った。
近づいてくる速度は遅いが、しかしそれはおそらく、無力を意味しない。接触すればその時点で破壊される────そんな奇妙な確信があった。
グレイスフィアは反射的に、目の前に魔力障壁を展開した。普段であれば脆いそれも、災厄の魔力の莫大な出力により、異常な強度の盾となる。
数十トンの衝撃にも耐えるそれを人間が破壊できるはずがない。ましてや相手は、ほとんど停止に近い速度でしか動けないのだ。
そのグレイスフィアの直感は当たっていた。いかなる膂力による打撃も、速度を伴わねば無力である。
「あっ……」
だが、ひとつだけ誤算があったとすれば────それはグレイスフィアが少年の暴力を、あくまでも人の範疇に収まるものと見誤ったことだろう。
それはさほど大きくもない少年の手が────指が、障壁を掴み、握り潰し、貫通し、孔を広げていく音。
数十トンの衝撃に耐える盾。だが、それを遥かに超過する握力の前には無力だった。まるで砂でできているかのように、障壁は少年の指に
「────……ひっ!?」
本能的な恐怖が背筋を伝った。
目の前にいる何の変哲もない少年が得体の知れない怪物であることを、この瞬間、ようやく理解する。
少年の拳が完全に盾を貫通し、身体に接触しようとするその瞬間────グレイスフィアは『逃避』した。
「は、ぁッ……!」
恐怖に乱れる呼吸を必死に治す。
グレイスフィアのもう一つの権能────『逃避』は、ほぼ無制限の転移能力である。
それが『逃避』と認識できる行為であれば、転移という非常に難易度の高い魔法を制限なく、自在に使うことができる。
単一の能力としては間違いなく破格。災厄化による魔力の増強も考慮に入れると、ほぼ反則級の権能である。
だが……根本的な問題として、それを扱うグレイスフィアは戦闘において、全くの素人に過ぎなかった。
「なあ」
「……ッ!?」
振り向けばそこには、少年がいた。
先ほどと同じように、こちらへと迫ってきている。
当然のことながら、一度逃げたら戦闘が終わるわけではない。逃げきれないのなら戦闘は継続する。少年はその恐ろしい脚力と反応速度で、グレイスフィアが息をつく暇もなく再度襲いかかってきたのだ。
再び『逃避』する。
だがすぐさま追いつかれた。思考の暇もなく『逃避』する。
追いつかれる。『逃避』、追いつかれ、『逃避』『逃避』『逃避』……
「何がしたいんだ、おまえ?」
挙句の果てには、転移先に少年が待ち構えていた。
転移直前に転移先を咄嗟に見てしまっているという、あまりにも初歩的なミス。権能を戦闘に活かそうという発想をそもそも持たないグレイスフィアには、そんな当たり前の失敗に思い至ることすらできない。
ほとんど半狂乱になりながら逃げるグレイスフィアは、しかしそれでも咄嗟に眠りの魔法を使った。先ほど、少なくともこの少年には眠りの魔法が効いていたことを思い出したのだ。
だが、その淡い期待も脆くも崩れ去る。
先ほどとは異なり、全く効果が無かったのだ。
「…… ふむ?」
ちょっと首を傾げただけの少年は、あまり気にせずそのまま追ってくる。
歌に魔力を込める以上、歌として聞こえなければ効果が無い。
故に通常、戦闘を視野に入れるのならば歌ではなく音や振動を媒介にしたりと、そういった形で欠点を補うものだが……グレイスフィアはそんなセオリーなど知らない。
亜音速で動くクロウに歌が正しく聞こえるはずもなく、眠りの魔法は発動すらしなかった。
その果てに、最終的にグレイスフィアがようやく思い至った逃げ場は、少年の追いつきようのない場所────空中だった。
精霊は基本技能として空を飛べる。
少年は飛べない。ならば空中に逃げればいい。
それだけのことだったが、しかし有効だった。
実際のところ、クロウは空中にいる相手にはなす術がない。その辺の地面を砕いた弾丸を投げつけてくるが、『停滞』の権能の前には無力。そうしてようやく、グレイスフィアは荒く乱れた呼吸を整えることができた。
そしてその瞬間、気付く。
「これは……」
明らかに、自分を覆う赫い魔力が減衰している。精霊であるグレイスフィアには、その原因など分析するまでもなく理解できた。
それは、たった今始まったものではない。
おそらくは数分前、少年から逃げている時から既に、干渉は始まっていた。気付かれないように────しかし、強引に。
グレイスフィアは『敵』の名を呼んだ。
「……シュラ」