目を開くと、暗闇の中に灰色が見えた。
ぽつりと口を開く。
「シュラ……?」
「ああ」
上から声が返ってくる。
霞む視界にはこちらを見下ろす顔。
身体を起こそうとしても、力が入らなかった。
「……ごめんなさい。もう少し、このままで」
「いいよ。こうしていよう」
掠れた声しか出てこない。
シュラの手のひらが頭を撫でてくれる。
意識が眠りに落ちそうになった。
ぽつりぽつりと言葉を紡いで、眠気に抗う。
「……なんだか、夢を見ていたみたい。初めて見たけれど、いいものね。あなたがいて、ノアルがいて……」
「ああ」
「でも、もう一つの夢は……怖かった。なにもわからなくなって。……私が、やらなきゃ……って」
私の髪を撫でてくれる手が一瞬、止まる。
シュラが穏やかな声で囁いた。
「そっちの夢は、忘れるといい。結局あんたは誰一人、傷つけちゃいない。夢っていうのは、そういうもんだ」
「……そう? それなら、いいのだけれど……」
ああ。駄目だ。眠気に抗えない。
薄く目を開けると、自分の身体から魔力の光が漏れ出て、暗い空に登っていくのが分かる。けれど、その意味を考えるのも億劫だった。
「ごめんなさい、シュラ。……まだ少し、眠いの」
「そうか。……そうだな。安心して眠るといい。俺はどこにも行かない。一緒にいる」
少し、笑った。
「……私が子どもみたい。むかしは、私があなたに、そう言ってあげていたのに……」
「もうガキじゃないんだよ、俺は」
動こうとしない腕を、何とか持ち上げた。
シュラの頬に手を当てる。
「ええ。……大きく、なったね」
「……あんたのおかげだ」
手を握り締められる。
ちょっと痛いくらいに。
ざあ、と風が吹いた。
身体が軽くなっていく。
薄れていく意識、空虚へと沈んでいく魂。
この温もりだけを憶えていく。
「じゃあね……シュラ」
「ああ。……おやすみ、
嬉しくて、頬が緩んだ。
幸せだ。
私の名前を、この子が呼んでくれる。
そのことが、何よりも。
ゆっくりと目を閉じて、眠りに身を任せる。
おやすみなさい。
……また、明日。
◇◇◇
精霊が魔力へと還り、空に溶けていく。
その身体を抱きしめていたシュラは、魔力の残滓を最後まで見送った。大きく、長い息を吐いて、背後を振り返る。
「クロウ」
「なんだ」
その普段と変わりない様子に、シュラは苦笑した。
「ありがとう。お前たちのおかげだ。……感謝してる」
「ふむ。よかったのか、これで」
それはおそらく、魔力へと還ったグレイスフィアについての問いであり、同時に……今、自分自身もまた魔力へと還ろうとしている、シュラに向けた問いでもあるのだろう。
「いいんだ」
シュラは少し寂しげに、静かに笑った。
「俺たちとお前たち、どちらかが異物だと思ってた。異物は俺たちの方だったみたいだが……まあ、しょうがない。そういう仕組みなんだろ、きっと」
「……おまえがいいなら、いいんだが」
どこか納得していない様子のクロウに、シュラは本心から答える。
「満足だよ、本当に。未練は色々あるが、一番大切なことだけは間違えずにやり遂げた。だからそれ以上は、高望みだ。……悪いなクロウ。結局、俺のやりたいことに付き合わせただけになった」
その問いに、クロウは首を傾げた。
シュラを手伝った。その見返りがあったわけではない。戦いに来たつもりが消化不良である。だが、悪くはない気分だ。
しばらく考え、問いに思い至り、クロウはそれを口にした。
「なあ。ちょっと聞きたいんだが」
「ん?」
「おまえ、もしかして……おれの、友達ってやつだったか?」
その問いにシュラはちょっと驚いて、そして、少年のように笑った。
時間がやってくる。シュラの身体から立ち昇る魔力の光が、暗い空に溶けていく。街の至る所から同じように、魔力の光が立ち昇っている。その光景は幻想的で、けれどどこか、もの寂しかった。
握手をして、手を振り合う。
そうしてクロウは、最後の魔力の光が空に消えていくのを見送った。
◇◇◇
「……とまあ、そういうわけでな」
「全然わかんないよ」
「全然わかんないのですが」
それからしばらくして────元の場所に戻ったクロウは、その場にいる全員にことの顛末を説明していた。
水のゴーレムはグレイスフィアとの接続が切れた途端に最低限の制御すら失い、勝手に崩壊したようだ。いったい何が起きたのか、それを気にする面々にクロウは説明していたのだが……評判は悪かった。
「まったく、これほど説明してもわからないとはな……」
「僕たちの理解力のせいかな、これ?」
困惑する探索者たちに嘆息するクロウは、自分の背後を指した。
「それなら本人に話を聞いてみるといいと思うんだが。だってそこにいるもんな」
「……」
クロウの背後。そこには────。
苦虫を噛み潰したような表情のシュラが、憮然として立っていた。
何故、シュラは消えていないのか。
その理由はシュラ本人も冒険者たちも含め、誰にも分からない。災厄が祓われたことで次の階層への扉が現れ、攻略は完了した。シュラ以外のこの階層の人間が全員、魔力に還ったことは既に確認されている。
何故かシュラだけが残っているのだ。これまでに攻略されてきた階層ではただの一度も起こらなかった、初めてのケースだ。
シュラは渋々という感じで説明する。
「いや、なんか……魔力の光は確かに俺の身体からも出てきたんだが……それはそれとして、その後も俺の身体は普通に残っていたというか……」
「なんで?」
端的すぎるフィルバードの問いに、シュラは顔を顰めた。
「俺が聞きたい。俺だって途中から薄々と、『消える気配が無いな?』と感じてはいた。だがラストスパートに賭けてクロウと別れの挨拶をしていたら────普通に何もなくそのまま終わった。分かるか? この気まずさが」
「まあ、なんとなくは……」
困惑するフィルバードに、あくびをするザクスが横から声をかけた。
「おいフィル、そこまででよくねえか? 俺はもう眠たい。誰も、少なくとも今は理由なんてわからん。……そもそもだ、シュラが居たらなんかまずいことでもあるのか?」
「いやそれは無い……うん。確かにそうだ」
納得したフィルバードは質問をやめ、全員に指示を出した。
「みんな、お疲れ。ひとまずこれで攻略完了だ。お祝いしたいところだけど、真夜中だしね。明日にして、ここはひとまず解散。眠るとしようか」
◇◇◇
「ところでお前さぁ」
「ん?」
「今回、全然役に立ってなくね?」
フィルバードが睨む。
ザクスはけたけたと笑った。
時刻は既に朝が近い。
フィルバードは珈琲を、ザクスは酒を飲みながら、半分眠りかけつつ駄弁っている最中だった。フィルバードはコップを置き、伸びをする。
「ずっと遊んでた人には言われたくないよ」
「お前から何の指示もないんだからしょうがねぇだろ」
「……ま、そうだね。確かに今回、僕は役立たずだった。ていうか今回の攻略で仕事をしたのって、実質的に彼……シュラだけでしょ」
「シュラか」
ザクスが少し考え込み唸る。
「実際のところ、アイツが消えなかったのってそれが原因じゃねぇの?」
「うん?」
「災厄を倒すってのは偉業だろ。これまでの攻略で、現地人がそれを成し遂げたことなんて」
「あったよ」
フィルバードがそう答えると、ザクスは目を瞬かせる。
「……そうなのか?」
「多くはないけどね。でも、確かにそういう記録がある。でも彼らはみんな、階層の攻略完了とともに消えていった。シュラとは違ってね」
「そうか……じゃあ関係無いか?」
フィルバードは首を振る。
「そうは思わない。迷宮って仕組み自体が『災厄』を中心に構成されてる節がある。それに大きく関わったことは、たぶん影響してるはずだ。それだけが条件じゃないってだけで」
「ほーん……」
それからしばらく、沈黙が流れる。ザクスが最後の一杯を手酌で注ぎ足したところで、フィルバードがぽつりと口を開いた。
「攻略も終わったし、いいかな……」
「あん?」
「ちょっと愚痴を聞いてほしいんだ。色々、思うところがあるんだよね」
「おお? いいぜ。だが珍しいな。お前、そういうのは滅多に話さんだろ」
「あー……まあね。でもまあ、たまにはね……」
ザクスが視線を送ると、フィルバードはだらだらと喋り始めた。
「……そもそもさあ。僕は未だに、納得してないんだよね。なんで、あんな水のゴーレムが災厄だったのかな」
「どういうことだよ?」
不審げなザクスに、フィルバードはコップを手で弄びながら答える。
「僕の予想なんて水物だよ。それは自覚してる。でも、ここまで盛大に読みを外したのは初めてだ。明らかにおかしいと思ってる」
「だから何がだ?」
「蛇」
フィルバードは一言で答えた。
「どこに行ったのかな。……普通に考えてこの階層の災厄なんて、蛇以外にありえないでしょ」
「それは……。……そうだな」
完全に頭から抜け落ちていた。
ザクスが頷くと、フィルバードは机にだらしなく肘をつく。
「この時代って、人類が蛇の脅威を克服し始める時代なんだよね。それは話したっけ?」
「んんー、……そうだったか?」
「蛇に人類が逆襲し始める時代。蛇が都市に雪崩れ込んできて、その被害こそがヒトを奮い立たせた……とか、僕はそういう構造を考えてたわけだ。で、その兆候自体はあった」
「俺が闘技場で倒したやつか」
ザクスが答えると、フィルバードは頷く。
「あれが呼び水だと思った。実際、この都市の上層部……賢人会議って組織は、それを見越して動いていた節がある。でも現実に起こったのはそうじゃなくて、あの水のゴーレムの暴走だった。……どういうこと?」
「俺が知るかよ」
「だよね」
フィルバードは椅子の背もたれに身体を預ける。
「災厄の正体を蛇だと思い込んで、ひたすらその兆候を掴もうとしたり対策を練ろうとしてた僕の努力はなんだったんだ。やりきれないね、正直」
「そりゃご苦労様だな。だが、なんか知らんが丸く収まったんだからいいじゃねぇか」
「……ま、そう思うしかないね。想定してた『最悪』も起こらなかったし」
「最悪?」
ザクスの疑念に、フィルバードは端的に答えた。
「攻略終了とともに鐘の音が止まって、蛇がこの都市を呑み込んじゃうってパターン」
「……おい」
酒をかっ喰らう手が止まる。
ザクスの表情が険しさを増した。
実際、攻略の完了とともに、鐘の音は止まっている。ならば今この瞬間、この都市を蛇の襲撃から護る機構は何も無いことになる。
だがフィルバードはひらひらと手を振った。
「大丈夫だよ、もう確かめた」
「どうやってだ?」
「クロウたちを呼びに行ってもらった後、“影”に都市の外の様子を探ってもらっていたんだ。蛇が災厄じゃないって前提だと、隠れることくらい”影”なら余裕だろうし」
「で、問題ねえと?」
「うん。静かなもんだってさ。最初は彼も警戒してたけど、あまりにも蛇が襲ってくる様子がないから最終的には星空と月光浴を楽しんできたらしい」
「自由だなアイツ……」
半ば呆れながらザクスが問いかける。
「蛇も攻略が終わると消えちまったってことか? ……まあ、そういうこともあるんじゃね?」
「そう解釈するのが正しいと思うんだけどね……」
「……なんだよ。他になんかあるなら聞かせろや」
フィルバードは少し考えて、椅子から立ち上がった。
「ごめん、ここでやめとく。話を聞いてくれて助かったよ」
「おいおい消化不良だな」
「愚痴が消化にいいわけないでしょ。それじゃ」
ザクスにひらひらと手を振り、自分の寝室に戻る。
歩きながら、フィルバードは考えていた。
自分の抱いた引っ掛かり。
それらを全部解消する解釈は、実のところ、ある。
だが────。
「……まさかね」
フィルバードは考えを振り払い、欠伸をした。
今は眠い。眠すぎる。
全て終わった。明日、考えればよいのだ。
同時刻。
ミューは、誰かが寝床からこっそりと抜け出す気配を感じた。