ベッドから人が抜け出す気配。
気配を潜めて、ひっそりとした足音。
しかしながら、そこが家の中である以上、ミューの地獄耳を誤魔化すことは不可能だった。仕事の手を止め、後を追う。
辿り着いた先は、家の庭に面した縁側だった。ベッドを抜け出してきた青年は、灯りもつけず腰掛けている。ぼうっと、ただ外を眺めているようだ。
ミューはその様子を見て、胸を撫で下ろした。
青年に取り乱す様子はなかった。ただ静かに、夜風の中で気持ちの整理をつけにきただけなのだろう。
邪魔をしてはならない。
ミューはそうっと出て行こうとして……その寸前、気付いてしまった。
青年が見る先、静かな庭。
そこに────なにか、恐ろしいまでの魔力が渦巻いている。
「……ッ!?」
思わず息を呑んだ。
尋常ではなかった。ミューの感じるそれは、或いはつい数時間前に見た災厄の魔力などよりも、よほど────。
「……ミューか」
青年が……シュラが振り返る。
驚いたような、少し困ったような、そんな表情。
シュラは少し悩んでから、ミューを手招きした。
少し躊躇してから、手招きに従う。
シュラの隣に腰掛けて、恐る恐る問いかける。
「あれは……なんですか?」
白み始めた空。夜と朝の狭間の、薄い闇。
その中でもはっきりと、それは見えた。
土の中から伸び上がる影。
どこか恐々とした声色の質問に、シュラは感情の乗らない声で答えた。
「『ワーム』と。……俺はそう呼んでいる」
その姿は確かに、そう呼ばれるに相応しかった。
シュラにより造られた『
「これは……」
ミューの声が怖気に震える。
名は体を表す……と、これをそう呼ぶべきだろうか。
直感的にミューは思った。
違う。
おそらく、
どこか茫洋とした口調でシュラが呟く。
「たぶん想像通りだ。蛇はもういない。……全部、『ワーム』の中だ」
◇◇◇
「『外に出てみたい。世界を見たい』……ガキの抱く野望として、そんなにおかしいと思うか? これ」
「……いえ」
「だよなぁ……」
ぽつぽつと、シュラが語る。
「でもこの都市に、そんな野望を許容する余地はなかった。何回言われたか分からん。『お前はおかしい』って」
「シュラさんはおかしくなんか……」
「いや。少なくともこの都市の中では、俺の言っていることはおかしかった。客観的に見てもな」
シュラは視線を空に向けた。
「……ガキの頃の俺も、千年前の精霊が命を賭して『精霊の鐘』を造ったことを知っていた。そして人間が生きていられるのが、そのおかげだってことも。なのに都市を捨てて外に出たいと公言するのは……まあ、冒涜だろ」
ミューは言葉を返せない。
シュラは目を細めた。
「でも俺は、諦めなかった。諦められなかった。たぶん、ただの意地だったんだろうな。理解されることを振り捨てて、自分の夢を追った。……ようやく叶ったんだけどな。誰も喜んでくれない」
「……なにをしたのですか?」
ミューが聞くと、シュラは『ワーム』に視線をやった。
「そんなに難しい話じゃない。……『蛇』を倒せなかったのは、『蛇』の魂がその内部で完結してるからだ。個体が死んでも、あいつらの魂は『蛇』という総体の中に還って再生する」
「そ、……そんなものどうやって……」
「だから、『球体』を造った」
シュラは深く息を吐いた。
「要は、魂が還る機構を邪魔してやればいいだけだ。倒した個体の魂を蛇に還さず、そのまま捕まえる」
「魂を……捕まえる?」
「ああ」
シュラは頷く。
「蛇も人間も変わらない。少なくとも、『魂を持つ生物』という点ではな。だったら、蛇の魂を宿すことができる無垢の器さえ用意してやれば……
「精霊と同じように、ですか……」
ミューが思わず呟くと、シュラは淡々と言葉を返した。
「師匠は『死者の魂を受け容れる』と言っていた。だが、俺の目から見れば────事実だけで判断すれば、
空恐ろしくなりながら、ミューは囁くように聞いた。
「できたのですか、そんなことが」
「簡単じゃなかったがな」
シュラは淡々と答える。
「捕まえた魂から得た魔力を蛇専用の毒に変換し、砂を媒介に次の蛇を毒殺する。ひたすらにその連鎖を続け、足りない魂の格納容量を補うために数を繋いで自律させた。完成したのは……ちょうどお前たちが来た前日だ」
「……では」
シュラは頷いた。
「ああ。今日、全てが終わった。……蛇は滅びた。いないんだよ、もう」
ミューはほとんど、完全犯罪の告白を聞くような気分で話を聞いていた。だが、どうしても分からずに問いかける。
「……どうしてシュラさん以外の方は、同じことに思い至らなかったのですか? 蛇を倒せる可能性があるなら、その方がよほど……」
「俺にも分からない。ただ……師匠たちは
シュラは言葉を続ける。
「本を開いても、文字を知らなければ精緻に装飾された紙束にしか見えない。同じ『球体』を見ていても、その役割をどう認識するかは……。……いや。違うのかな。もっと根本的な話なのかもしれない」
空を見上げながら、シュラは呟いた。
「単に目的が違ったんだ。生き延びることを願ったか、あるいは、外の世界を夢見たか。……師匠たちの願いが間違いだったとは、俺は、思わない」
そう言って視線を彷徨わせるシュラを、ミューは見つめた。
人類を絶滅寸前まで追い込んだ化け物。それをたった一人で、自分の意思だけで滅ぼした人間が隣に座っている。
その所業をなんと呼べばいい。
偉業というには、あまりに度が過ぎている。
それともあるいは────。
そんな一抹の、不安……あるいは、恐怖。
だが、それはすぐに消えた。
シュラの声が、あまりにも苦しそうだったからだ。
「……だから分からない。俺には本当に分からないんだ」
乾いた呼吸で、絞り出すようにシュラは自問する。
「間違っていなかった。誰の想いも、何一つ。……罪を犯す必要なんて、どこにも無かった。
その声はひどく、悲しく聞こえた。
おそらく、だからこそだろう────その瞬間にミューは、この地に齎された災厄の本質を理解してしまった。
『なぜ
……漠然と、違和感を抱いてはいた。
ミューはこの都市の詳しい事情までは知らない。
だが、彼女たちの行動の大枠は分かる。
彼女たちは、千を救うため百を切り捨てた。
冷酷な行為だ。だが、必要な行為だ。
いったい誰が、それを悪と呼べるのか。
きっとミューは、心のどこかでそう思っていた。
……だが違う。そうではない。
災厄には、災厄と呼ばれるに足る理由がある。
敵など既に、どこにもいない。
それなのに、ただただ無為に、無駄に、何の意味もなく────無辜の命を踏みにじってしまったのならば。
それは────……。
ミューは目眩のするような感覚がした。
……それは擁護の余地もなく、罪に違いない。だから精霊は、結局のところ、災厄以外のなにものでもなかった。
シュラはまだ、気付いていないのだろうか。己の行動こそが、己の最も大切なひとを災厄へと貶めてしまったことに。
────そんなわけがない。
ミューには確信できる。この聡い青年が、こんなロジックに気づかないはずがない。だが……きっとその理性故に、理解もしてしまっているのだ。
理由はどうあれ、シュラの行動は結果的にヒトを救った。
たとえそこにどんな事情があろうとも、致命的に間違え、悔いるべき過ちを犯し、ヒトを害したのはグレイスフィアだ。
ならばそこに生じた罪は、彼女自身にしか贖えない。青年がどれだけ擁護しようとも、歴史は欺瞞を許さない。
精霊の名は既に、永遠に、罪人として刻まれてしまった。
……だからこそ。
シュラはゆっくりと息を吐き、立ち上がった。
そして『ワーム』に静かに告げる。
「お前は役目を果たした。ありがとう。……だからもう、休んでくれ」
徐々に漏れ出る魔力の光が、明るくなり始めた空に登っていく。薄明の中の柔らかな光は、どこまでも清浄だった。
「……よいのですか?」
どういう意味で聞いたのかはミュー自身にもわからない。
だが、シュラは頷いた。
「いいんだ、これで。……静かに還してやりたい。蛇もただ、そういう生き物だったってだけだ。悪じゃない」
「そう、ですか……」
シュラは淡く笑った。
そうして光を見つめながら、ぽつりと言う。
「……なんでかな。意外と、悪い気分じゃないんだ」
本心から言葉を吐き出した。
「お前たちが来てくれてよかった。……本当に」
「……どうして」
戸惑うミューに、シュラは静かに言った。
「……今夜、きっと本当は、全部間違えたままに終わってしまう筈だったんだ。誰も知らないまま、後悔だけが残る……そんなふうに。でも……」
青年は空を見つめて、呟く。
「罪は、成立する前に祓われた。今夜は誰も、何も……罪を犯さないままに還った。だから────」
目を閉じる。
この瞬間、この己は、大切な人を想っていてもいい。
誰に憚ることもなく、ただ、純粋に。
それはシュラにとってひどく個人的でささやかな、けれど紛れもなく────救済と、そう呼べるものだった。
空が朝焼けに燃え上がる。
真っ直ぐな陽射しが砂漠を染める。
シュラはぽつりと言った。
「もう少し……ここにいようと思う。先に戻っていてくれ」
ミューは頷いて、立ち上がった。
「……朝ごはん、できるのにまだ時間がかかりますから。でも、あまり身体を冷やさないように」
「ああ。……そうする。ありがとう」
軽く手を振ってミューは家の中に戻る。
灰色髪の青年はそれからしばらく、じっと目を細めて、空を煌めかせながら昇る太陽の姿を見つめていた。