氷の桶に張られた水は見た目と異なり、肌寒い程度の冷たさだった。
夜が明けた。あの後……私がこの建物に連れてこられた後、もう時間が遅いということで、部屋に案内されて床についた。
簡素な造りながらベッドや毛布などの寝具、それにテーブルや鏡も備え付けられている。存外に居心地は悪くなかった。
騎獣の上とはいえ移動の疲れもあり、案内されてすぐに寝入ってしまった。どことも分からない場所でぐっすりと寝入ってしまった無警戒さには、正直、自分のことながら呆れ返ってしまう。
洗面を終えてから、建物の中を散策する。
好きに歩き回っていいとは言われている。ただ、流石に私室らしき部屋に入ろうとは思わないし、敷地より外に出ようとも思わない。
ザクスというあの大男は私に優しかったが、それでも誘拐犯の一味だ。勝手に外に出れば不興を買うだろうということくらいはわかる。
目を盗んで逃げようとしないのかと問われれば、本来はそれを試みるべきなのかもしれない。けれど、子供の私が山脈を越えて彼らから逃げ切れるとは思えない。それに────。
私は思考を打ち切り、散策がてら毎朝の日課をこなすのに丁度いい場所を探した。
どうやらすでに起きている人もいるが、給仕服を纏った私よりも少し年上に見えるその少女は、今は建物の外のようだ。
それ以外に人の気配はなく、だからどこを選んでもいいといえばどこでもいいのだけれど、少しばかり拘りがあった。
結局、腰を落ち着けたのは、誰もいない大広間のステージの上だった。
がらんとした薄暗闇の立ち込める空間。誰もおらず、氷のせいで冷え切ったように見える大広間を一望できるこの場所は、私にとっては好みだった。
簡素な椅子に腰掛け、肌身離さず持ち歩いている笛を取り出す。そして、いつもこの時間に演奏している祈曲を静かに奏でた。
この時間は好きだ。何も考えなくていい。ただ無心に、祈るだけでいい。
本来は義務であるはずのこの日課は、けれど私にとっては唯一、自分を好きなように動かせる時間だ。この時間だけは誰の指図を受けることもなく、誰の顔色を窺うこともなく、私はただの私でいられる。
さほど長くもない演奏。それが終わり、ほうと一息つく。
と同時、部屋の隅の椅子に少年が1人、腰掛けていることに気づいた。
「……っ!」
見られた。
いや、いつもは人前で演奏しているのだから、人に見られたからどうなるということもない。だが、どうにも居心地は悪い。
それにしても、どうして彼がいることに気づかなかったのだろうか。最初に確認したはずなのに。
ステージを降りて少年に近づく。その気配を肌で感じて、なんとなく少年の存在に気づけなかった理由が分かった気がした。
少年の気配はまるで植物のようだった。
演奏中に全く意識を割かれなかったのもそのせいだろうか。この若さで、私の演奏を見守る年嵩の神官たちのような自然な存在感を体得している。
市井の人間には稀な、ほの温かい空虚のような、ただそこに在ることを是とするような気配を感じさせる……いや、少年の表情からはそれを通り越して、ただ何も考えずにぼけーっとしているだけのような気も……。
……私ごときが何を人を評価するような心持ちでいるのだろうか。勝手に気恥ずかしいような気分になりながら、少年に話しかけた。
「おはようございます。初めまして……ですよね?」
「む。たぶんそうだな。おはよう……おはようございます」
動揺もせずに返事をしてきた少年に自己紹介する。
「私はウルといいます。……えっと、ここの方ですよね? 私のこと、聞いていませんか?」
「むぅ……?」
少年は首を傾げる。本当に何も知らなさそうだ。
……そもそも、この少年はなんなのだろうか。誘拐犯の一味にしては、あまりにも迫力と貫禄が無さすぎる。
「あのう、お名前は?」
「クロウだ」
「では、クロウさんと。……その、あなたはどういう立場の方ですか?」
「立場……?」
「どういう経緯でここに?」
「そうだな……遠いところからやってきたんだ……」
そう語るクロウの、遥か過去を思い出すような瞳。
その眼差しに、私はピンときた。
────私と同じ、誘拐されてきた人だ……!
そうだ。そうに違いない。誘拐されたのは自分だけだと思っていた視野の狭さが恥ずかしい。おそらくこの場所を拠点に、誘拐犯たちは広く深く、社会に根を張っているのだ。
「なるほど。私と同じでしたか」
「……?」
クロウは何も分かっていなさそうに首を傾げた。
どうやら鈍そうな人だ。目の前の私が自分と同じ、誘拐されてきた立場なのだと分かっていないのだろう。
「つまりですね────」
「────クロウさん、こちらへ」
説明しようとしたその瞬間、話は遮られた。建物の外に出ていた給仕服の少女が戻って来て、クロウへと呼びかけたのだ。
「なんだ?」
「朝食をとりましょうか。あちらの部屋へどうぞ」
「わかった。じゃあ……」
「先に行ってください。ウルさんは少しお話ししましょう」
「む、そうか」
クロウはすたすたとこの場を去って行ってしまった。すっかりと誘拐犯たちに飼い慣らされ、牙を抜かれてしまっているのだろう。
給仕服を身に纏った少女はクロウが出て行ったのを確認し、柔和な表情を一変させる。壁にもたれかかり、腕を組み、フッ……と嘲弄するかのような挑発的な笑みで私に話しかけてきた。
「油断していましたよ……まさか、私たちの監視の目を掻い潜って彼と接触するとは。子供だと侮っていましたが、なかなか目端が効くようですねぇ」
「……! では、あの人は私と同じ……」
「ええ、遠くからね。……ふふ、今ではどうやら、故郷に帰る気も無くしたようですがねぇ……」
声を潜めて笑う少女を糾弾する。
「……罪悪感は無いのですか? あんな純朴そうな人を……」
「いやー、純朴さと凶悪さって意外と共存できるみたいですからねぇああいえなんでもありません。……えー……ここから逃げられるなどとは決して思わないことです。ここにはあなたの味方なんていません。せいぜいクロウさんに自分の事情を相談して傷を舐め合うんですねぇ……!」
少女は高笑いしつつ部屋を出て行った。そして十秒も経たずに、すんっとした表情でもう一度、部屋の中に入ってきた。
「では朝食に行きましょうか」
「……う、うん」
思わず素の声が出た。
なんなんだろうかこいつらは、一体。
◇◇◇
とっくに日は落ち、月が高く登っている。
賑やかな店内で、ザクスは1人、隅の席に腰掛けていた。ホールでうろうろとまごつく少女の姿に目を遣りながら、魔導具に話しかける。
「……そういうわけで様子を見てたが、なんだか知らんがクロウが姫さんとさっそく打ち解けたみたいだ。意外と隅におけないな、アイツ。……その代わり、エウーリアも含めて姫さんの重要性を誰も分かってないみたいだが。今も一緒に働かせてるが、いいのかアレ」
『彼女は嫌がってるのかな』
「嫌がってはいねぇんじゃねぇの? 戸惑ってはいると思うが」
『なら、構わないかな』
「そうかよ」
ザクスは酒で唇を湿らせ、フィルバードに問いかける。
「けど、これでいいのか?」
『何が? うまくいってるならそれで良いじゃん』
「そりゃお前、あくまでも姫さんに自分から喋らせようとするなら、だろ。他にもやり方はあると思うが」
『無理に隠し事を聞き出そうとして、機嫌を損ねる方が怖いかな。それに今、エウーリアたちが頑張ってくれてるんでしょ? せっかくの嬉しい誤算を無駄にするのもねえ』
「お前がそれを誤算と言っちゃうのはどうなんだよ……」
ザクスは半眼になって魔導具を睨みつける。
「姫さんをこっちに寄越した名目は一応、あいつらに情報を聞き出して欲しいってことだっただろうが。そこからして嘘か?」
『まさか。嘘は嫌いだよ。彼女が『災厄』における最重要人物なのは、たぶん間違いない。情報の引き出しが進めば進むほどありがたい』
「最重要……か」
ザクスは低く唸った。
「ウルが黒竜を操ってるってことは、本当に間違いないのか?」
『今はどうだろうね? ただ、いざその時になれば、引き金になるのは彼女だと思ってる』
「そこは確信があるのか……」
『半分は勘だよ。……でも、【竜の巫女】は亜人の中でも特別な立場だ。血筋のみで継承される、王族以上の秘中の秘。黒竜がヒトにとっての脅威となり始めたころに誕生した役職で、この時代におけるその唯一正当な継承者が彼女。……これで違ってたら、もう何が鍵なのかわかんないや』
「わかんないやじゃねーんだよ」
一瞬、口調を荒げそうになったザクスは声を顰める。
「……お前も見てんだろうが、あの黒竜を間近で」
『うん。それがどうかしたの?』
「なら分かるだろ。アレは無理だ」
『いつになく弱気だね』
揶揄うようなフィルバードの口調に、ザクスは顔を顰める。
「……相手を高く見積もりすぎる気はない。だがその上で、俺たちじゃ勝てる見込みが無い」
『へえ、エウーリアなんかはいざとなれば戦うまでだ、って感じだったけど』
「
『相手が空を飛ぶから? 巨大だから?』
「どっちも当たってるが的外れだな。強いて言えば、相手が竜だからだよ」
ザクスは長く息を吐いた。
「……格の違いってやつだよ。生き物としてのスケールが俺たちとは違いすぎる。群がれば倒せるようなもんじゃねーぞ、アレ」
『へぇ?』
「竜種は低位でもガチで戦えば俺らの手に余る。あの黒竜はどう考えても低位じゃねぇし、災厄化の魔力増幅もある。もうほとんど自然災害と変わんねぇよ。正面から向き合っていい相手じゃない」
ザクスは杯を傾け、一息ついてから言葉を続けた。
「もちろん、いざ戦うとなれば全力を尽くす。勝つために何でもやる。だがそれ以前の問題として、戦いにすらならない。たぶんな」
『へぇ……』
「今回に限っては、戦う前の段階で全部を解決するか、それが難しくても、地面に引き摺り落として袋叩きにできるくらいの弱体化が必要だ。つーか、それでもなんとかなる気がしない」
『そっか。まあザクスがそこまで言うからには、そうなんだろうね』
フィルバードは思案するような気配で言葉を続けた。
『少なくとも、現状で考えられる最善は実行してる。それは約束する。【竜の巫女】をそっちにやったのも、意味あってのことだし』
「……具体的にはどういう意味があるんだ? 俺にもいくつかはメリットが思い浮かぶが、それでもお前が直接尋問した方がいいだろ」
『いや、そもそも今、彼女自身から何かを聞き出す必要性が薄い』
「はぁ? それをせずにどうするんだ?」
『“影”が彼女の外見で身代わりとして神殿に潜入してるから、それだけでおおよその事情は分かるよ、きっと。確かな情報源が他にあるのに、彼女の機嫌を損ねてまで強引に尋問する必要は無いでしょ』
ザクスは頭を抱えた。
「……そういうのは先に言えよ。そりゃ確かに意味ねーわ」
『彼は優秀だからね。こういう状況なら誰よりも。……ところで参考までに聞きたいんだけど、君の言ってたメリットってなんなの?』
「姫さんがそっちじゃなくてこっちにいることのメリットか?」
『そうそう』
ザクスはしばし思案した。
「……大まかには三つか。けど、実質二つだな」
『ふぅん?』
「一つは単純に逃がさないためだ。元の住処から遠い方が逃げづらい。仮に“影”の身代わりに気づかれても、姫さんを亜人に奪還される可能性がほぼ無くなる」
『うん。他には?』
「姫さんがヒトの近くにいること自体がメリットだろ。例えば姫さんが黒竜をここに呼び寄せたとする。けど、それで何ができるかって話だ。あの巨体じゃ小回りは効かない。姫さんだけを傷つけずに救出するのは不可能だ」
『つまり?』
「姫さんがここにいる限り、黒竜を使ってヒトに戦争をふっかけることは実質的に不可能だ。だから少なくとも、現状の時間稼ぎになる。そうだろ?」
『さすが。うん、それは大きな理由の一つだね。あとの一つは?』
ザクスは杯に手を伸ばしながら言葉を口にする。
「あとの一つは……まあ、言ってみれば心理的な問題だな」
『心理的?』
「近くに居ればそれだけで情も湧くだろうしな。もしものときには……姫さんにお前、近くには居てほしくなかったんだろ?」
『……』
「フィル?」
答えが返って来ない。不審に思ったザクスが聞き返すと魔導具からはフィルバードの静かに興奮した声が返ってきた。
『……すごいよ、ザクス』
「はあ?」
『ごめん、正直に言えば見くびってた』
「いや何を」
『意見を聞かせてほしい。この考えが本当に成立するかどうか────』
「フィル!」
周囲から視線を向けられる。ザクスは魔道具を掴んで席を立った。
柱の影で小声で話す。
『ザクス、どうかした?』
「……フィル、何の話をしているんだ、お前?」
『何って……』
「近くにいれば情が湧く。あんなに小さい子だ、尚更な。だからウルを尋問するとか、それ以上のことをする必要があるなら遠くで自分以外にやってほしいとか、お前が日和ったんじゃないかと俺は思った。……だが、そもそもそんな必要が無いわけだ。だからこれは、俺がそう思い込んでただけで、実際にはメリットにはなってない。そうじゃないのか?」
『……。あぁー……』
向こうから、微かな気配が伝わってくる。それは納得と、諦観。
『ごめん。僕の勘違いだ』
「何を何と勘違いしたんだ? 今ので」
『いや、別に僕もそういう感傷はゼロじゃないけど、だから躊躇するって発想は無かったから……』
「……勘違いの内容はなんだ?」
『こっちにきた時に教えるよ。ザクスにも協力はしてもらいたいし』
「そうかよ」
店内に戻るザクスは、魔導具に向かって別れの言葉を口にした。
「ま、いいや。こっちはこれから仕事だ。そっちもそっちで頼むぞ」
『うん。……え? これから仕事なの?』
「酒代を稼ぐんだよ。これからステージの上で、シュラの音楽に合わせて槍の演舞だ。見てろよ、今日は俺がスターだ……!」
『うん、見えないけど頑張ってね。それじゃ、また数日後に』
適当な言葉を吐いて通信は切れた。ザクスはひとまず通信のことは忘れて、奇声を挙げながらステージに飛び入りした。
ややウケだった。