歩を進める。
警戒しながら工兵の作業が完了するまでその場に待機する。
鳴り響くラッパの音でまた数十メートル、前進する。
それを何度繰り返しただろうか。気がつけば、要塞の姿がはっきりと視認できる地点まで到達している。渓谷を吹き抜ける風の清涼さとは裏腹に、兵士たちの緊張はピークに達していた。
兵士たちの間には、既に噂話が広まっている。
進んでいけばいつかは妨害のため亜人の兵が出陣すること。そしてその『いつか』とは今日、すぐにでも来る可能性が高いこと。
遠方に上がった土煙に、誰かが呟いた。
「来るぞ……」
誰かが囁いた。
「来る」
囁きが伝播する。
「来る……ッ!」
その瞬間を予感したものは武器を握り直す。
そして遠方より、衝撃が飛来した。
「「「────────ッ!!!!」」」
兵たちの肌を、びりびりと音の波が打つ。
それは、亜人特有の示威行為。数百、数千も重なり莫大な音圧を伴うそれが、プレッシャーとなって襲いかかる。
そこに込められるは怒りである。
其処より一歩でも踏み出してみろ。この牙がお前たちの喉笛を噛み砕く────言葉よりも雄弁なそのメッセージは、過つことなく届いた。
叩きつけられる捕食者たちの害意に、兵たちの足が竦む。
「……──戦闘兵、出ろッ!」
だが、その命令が本能的に退きそうになった兵士たちの背を支えた。
魔法を通して大音量へと拡大された指揮官の声である。
叩き込まれた命令と規律は、本能による恐怖を凌駕する。
緩やかな歩みだった足音は次第に頻度を増し、駆け足となる。
そしていつのまにか兵たちの進行速度は隣と競い合うように速度を増し、前へ前へと濁流のように押し寄せる。
無論、それはヒトだけの話ではない。
こちらが進むと同様、亜人たちも速度を増し波濤のように向かってくる。
ヒトと亜人の先陣が、最初の一合を交わす。
鳴り響いた鋼の音色が、戦闘開始の合図となった。
◇◇◇
襲いくる高速の穂先を視認する。
自身の肉体への接触の寸前、反射的に動いた左腕が、小盾をかろうじて肉体との隙間へと捻り込ませることに成功した。
金属が擦れる不協和音と飛び散る火花。
防御に成功したが、未だ危機は脱していない。
「ぐっ──……!」
亜人の凄まじい膂力から放たれる一撃は、身体強化により常人の数倍の強度に達するジャックの肉体を容易に跳ね飛ばす。
当然、その崩れた体勢を見逃してくれる相手ではない。翻った槍の穂先は、狙い澄まされてジャックの首元へと向かう。
────無理だ。避けられない。
その刹那にできることは何もなかった。
凍ったような時間のなか、自分の命が奪われる瞬間を認識する。
だがその寸前、差し込まれた仲間の剣が僅かにその軌道を逸らした。
逸らされた穂先は轟音を立てながら空気を切り裂き、ジャックの耳の先を掠めるに留まった。
「ッ! すまん、助かった!」
「礼はいい! 加勢しろ!」
脱した危機に想いを馳せる余裕など無い。ジャックは即座に体勢を立て直し、仲間と並び立って亜人兵へと相対した。
土煙の中に鋼を閃かせ、僅かに十数秒。
戦闘以外に割く余裕などあるはずもない脳が、勝手に言葉を垂れ流す。
「……強、いッ!」
亜人兵の強さは、日頃から魔物狩りなどで関わりを持ち、その能力を理解していたはずのジャックの認識を大幅に超えていた。
戦闘兵として一定以上、むしろほぼ上澄みと言ってよい技量を持つジャックでさえ、一対一ではまるで歯が立たない。こうしてジャックと同等、あるいはそれ以上の実力を持つ仲間と連携し、ようやく互角。
否、それどころか────。
「……っ!」
跳ね飛ばされ、体勢を崩す仲間の首へと正確に吸い込まれる穂先を、今度はジャックの剣が逸らす。
二対一でもなお、天秤は向こうに傾いている。
ジャックたちですらこの状況ならば、平均的、あるいは平均から劣る程度の実力しか持たない戦闘兵であればどうなるのか。
その結果は、如実に現れ始めていた。
視界の端に映る倒れ伏す鎧姿。
踏みしめた地面に染み込んだ血は誰のものか。
渓谷に吹く風すら、立ちこめる血錆びた匂いをかき消してはくれない。
単体の力で及ばないのなら、人数を増やして対処すればいい。
それは正論だが、空論でもあった。
戦闘兵たちの兵装は剣にしろ槍にしろ、長物である。
当然ながら振り回すスペースが要求され、寄り集まったとて火力の集中度はそうそう上がるものではない。
そして亜人兵の身体能力を以てすれば、それと同等に渡り合い、弱い部分から突き崩し、拮抗を崩して勝利することは難しいことではなかった。
とはいえ、総兵力の差は歴然。いくら強靭な肉体であっても、延々と継続する戦闘、付随する疲労には無力。いつかは勝てるだろう。
だが、『いつか』とはいつだ?
現状の損耗比は1:2や1:3では効かない。
おそらくは1:4や1:5。あるいは更に──。
詮無い思考を振り切り、目の前の戦いに勝利するために全能力を注ぐ。
……見ろ。敵を見ろ。敵は何が強く、何が弱く、自分たちと何が違う?
────足だ。足が違う。
一瞬も気を抜けない剣風に身を任せながら、ジャックの本能が解答を導き出す。
本来、身体強化ではある一定水準……ヒトの兵士のように、せいぜいが常人の数倍というレベルまででしか扱うことができない。
優れすぎた膂力は身体感覚を狂わせるからだ。
特にその影響が顕著に現れるのは足回りである。体重移動しただけのつもりが勢いが強すぎてつんのめるという有様では、戦闘など不可能。
だが────。
ジャックは亜人兵の動きを見る。そして実感する。
そもそもの、許容量が違う。
骨の構造も、関節も、肉のつき方も、亜人のそれはヒトと異なる。
四足歩行を主とする獣の特徴を引き継いだ亜人の足は、二足歩行の代償に高速移動を諦めたヒトの足とは設計思想からして異なるのだ。
低重心での高速駆動を意図するが故に、その脚に生来的に備えるクッション性、ひいては接地安定性。
亜人として人型を持ち、二足歩行をする際には持て余すばかりだったそれは、身体強化により能力が跳ね上がった肉体を御すにあたっては、最高のギフトとなっていた。
今も目の前で繰り返される高速の接近と、重力を無視したかのような切り返し。身体強化の強度そのものもさることながら、それはそもそも、ヒトの身には決して成し得ない挙動である。
「……おい」
「なんだ?」
二本の剣と一本の槍が同時にぶつかり、跳ね飛び、若干の距離が空く。
横からの小声に、ジャックは前を向いたまま応えた。
警戒を緩めないまま、押し殺した声で耳打ちされる。
「勝てんぞ、このままだと。……ヤツの退くスピードが速すぎる。追いつけない」
移動速度の差とは、そのままリスクの差である。
一瞬で肉薄され、反撃する頃には攻撃が届かない位置まで退かれるのでは、勝ち目などあるはずもない。
「どうする?」
問うと、即座に答えが返ってきた。
「俺が動きを止める。お前が殺れ」
「わかっ……」
返答する間もなく、目の前で火花が散った。
亜人兵の槍先を、剣の腹に滑らせて振り払う。
再び閃く鋼の残光。
こちらが二人がかりで攻め立てても、亜人兵は小揺るぎもしない。
────どうする気だ?
隙を作るといっても、この状況でどうするというのか。隣で剣を振るう兵士の姿には、ジャックと同じく余裕など無い。額には脂汗を浮かべ、追撃を加えることなど不可能なように思える。否、むしろ……。
疲労からか、並び立って振るわれる剣の速度が徐々に遅くなっていく。
ジャックにも感知できるほどの変化を亜人兵が見逃すはずもなく、勝負所とばかりに仲間の方へと攻撃を集中させる。
フォローをしようにもジャック自身にも余裕は無い。
……そしてついに、槍の穂先が兵士の身体の中央、腹部を突き刺した。
背後から槍の穂先が飛び出る。一目にも分かる。致命傷だ。
ジャックは息を呑み、亜人兵は勝利を確信し叫ぶ。
そして刺された当の兵士は苦痛に表情を歪め、にやりと笑った。
そこからの動きはあらかじめ決められていたかのように迅速だった。
自分の腹部に突き刺さった槍を引き抜こうとするのではなく、掴み、前に踏み出し、前進する。肉体の内側を凶器が通り抜けていく感触にすら頓着せず、兵士はその右手に携えた剣を、全身全霊と共に前へと突き出した。
「──……ッ!」
声にならぬ苦悶の声。
亜人兵の肉体に突き刺さった剣は威力が足らず、また位置とその肉体の強靭さを鑑みれば急所とも言えない。
だが痛みと衝撃に、本能的にその肉体が硬直した。
────その瞬間、ジャックは既に動いていた。
それは冷静な判断力によるものではない。今なら殺せる、ここで殺さねばならない────脳裏に棲みつく戦闘の本能は敵の命を断つための最適行動を命じ、肉体はほぼ無意識のうちにそれに従った。
右から袈裟懸けに振り下ろした剣が、亜人兵の兜と鎧の隙間を縫い、首へと叩き込まれる。身体強化を施された強靭な亜人の筋繊維を完全に断ち切るには不十分な威力だったが、それでも首の半ばまでに剣が食い込む。
噴き上がる血飛沫と、破れた気管から漏れ出る呼吸の残滓。
そして掠れた断末魔。
致命傷だった。
一瞬遅れてジャックの意識が現状を認識する。
全身の毛穴が開いた。
自分の手で確かに人を殺したことを理解する。
我に返ったジャックは、動揺から剣を手離した。
まだ敵の心臓は止まっておらず、しかも相手は素手ですら十分に殺傷能力を有する、獣の爪を備えた亜人だというのに。
だが、ジャックのその迂闊な動きが咎められることはついぞなかった。
亜人兵は数度、左腕を空中に迷わせた末、最後の追撃を断念した。事切れ、そのまま地面へと倒れ伏す。
そして倒れ伏した際に兜が脱げ────ジャックはようやく、その亜人の男が、自分の知りあいだと気づいた。
魔獣狩りの時には幾度か組んで、言葉を交わしたことがある。
それどころか酒を酌み交わしたこともある。豪放に笑う男だった。
つい十数秒前まで獰猛な笑顔を浮かべていたであろう男の表情は、歪んでいた。
怒りか悲憤か笑みか、何らかの意思をたたえていることは明らかなのに、その正体はわからない。濁り始めた瞳は、無念にすら至らない虚脱しか伝えてはくれない。
「…………ああ」
自分の口から漏れたそれがどういう意図を持つ声か、ジャックには分からない。感情を形にできないまま剣を拾い上げ、地面に倒れこんだ仲間へと歩み寄る。
こちらも既に死んでいた。
目を見開いたまま、唇に僅かな笑みを残して死んでいる。
ジャックはその目を閉じさせた。
……仲間だというのに、ジャックはこの兵士の名前を知らない。おそらく別の指揮に属していたのだろう。顔すらも見た覚えがない。
だが、間違いなく分かることもある。
立派な男だった。
明確な目的を持ち、自分の命すら捧げて使命を果たしたのだ。
……こんな男が、死んでいく。
ジャックはふらりと戦場を歩き出した。
全方位から叫喚と金属が鳴り響く。
周囲に広がる土煙には、死の匂いが染み付いているようだ。
警戒もせずに無防備に歩くジャックは、透明にでもなったかのように誰からも襲われない。
爪先に何かが当たる。
ジャックよりもなお若い、ヒトの兵士の死体だった。
戦場を見渡せば足元にはいくつもの死体が転がり、誰もその存在に気づいていないかのように戦いは続く。
この場では敵を殺すことが最優先で、死なないことは二の次で、死んでしまったものは顧みられることなく意味を無くす。
『俺は自分の意志で、義務を果たすことを選ぶ』
『その方が納得できるんだ』
不意に思い返されるいつかの問答。
確かに本当のことを言ったつもりだ。嘘はついていない。
だが……義務であるからこの光景に納得できるはずだと、あのときの俺は本気でそう思っていたのか? いったい今なら、どう答えるつもりだ?
分からない。分からないまま、戦場を亡霊のように歩く。
そう長くない時間だった。だが、時の流れは奇妙にゆっくりと感じられ、いつもよりも視野は広く、見たくないものがよく見える。
そしてある瞬間──……ジャックの意識は発火した。
本能が求める姿を、その視界に捉えたからからだ。
自分と同じく戦場を彷徨う眼差し。
確かにその瞬間、視線が交差する。
思考ではない。反射だった。
飢えの如く求めるままに、肉体は突き動かされる。
相手も同じなのだろう。
凄まじい速度で身を翻した。
極限まで圧縮された時のなか、互いの名を呼び、剣を振るう。
そこには憎しみはなく、恨みもない。
けれど、敵だった。
交錯するまでには数秒もかからず、勝敗は一瞬で決まる。
一振りの剣の切先が、頬を切り裂いた。
一振りの剣の切先が、肩を突き刺した。
肉を絶たれ力を失った腕から、するりと剣が落ちた。
敗者が勝者に声をかける。
「……よう、シリウス」
返答はなかった。
敗北した男は勝手に喋る。
「やっぱ強いな、お前。負けたよ」
「……」
「でも、お前でよかった。納得できる」
返答はない。
顔を見つめながら言う。
「やれよ。……戦争だろ?」
「……言われなくとも」
「悪いな」
付着した血糊もそのままに、勝者は剣を掲げる。
振り下ろされる剣よりも、ジャックはシリウスを見つめていた。
そんな顔をするなよ。
笑ってくれよ。
無理か。……無理だよな。
肉と骨を裂く衝撃と同時、ジャックの意識は消え去った。