こぽり、と音がした。
どこかから聞こえてくる音ではない。自分の喉が出した音。
「っ……」
口の中に広がる酸の味を強引に嚥下した。
麻痺したような喉は、それでも引き攣りながらなんとか動く。
眼下を見下ろす体勢のまま、胃の中身を吐き出すのを堪えた。
背中には手が添えられ、耳鳴りのように声が聞こえる。
「……ゥル! ウル!」
「……なんですか、アルマ、さま」
口調がぞんざいになっているのが分かる。
けれどそれを自分で正す気力が無い。視線を下に向けたまま返事をした。
「もうよいだろう!? あれはお前の見るべきものでは……!」
アルマ様の口調には掛け値なしに、私への心配と労りが篭っている。それは分かる。分かるのだ。けれど、今はそれが煩わしかった。
感情の篭らない声を吐き出す。
「では、誰が、見届けるのですか」
「……っ」
「あそこで死んでいく人たちは、誰一人として、死にたいわけではありません」
「お前が死なせるわけでもないだろう……!」
「はい。でも、私次第で、死ななかったかもしれない人たちです」
竜の巫女が私でさえなければ、ただ、それだけで────生きていたかもしれない人たちだ。
「……だから私は、ここにいなければなりません。死を悼み、さらなる死が生まれないことを祈ります。それしかできないのだから、そうしなければなりません」
「……ウル」
精霊様も泣きそうになることがあるんだ、とふと思った。
けれどそれも意識からすぐに消える。
遠ざかっていく足音に、不敬にも少し、ほっとした。労りも、慰めも、それが心からのものであると分かるだけに受け取れない。
だって私のやっていることは、贖罪ですらない────自分のせいで誰かが死んでいくことに耐えられない、どこまでも身勝手な自己救済に過ぎないのだから。
「……生きて、ください。死なないで、ください。一人でも多く。お願いします。おねがい、します……」
眼下に広がる光景を乾いた目で見つめながら、濁った祈りを繰り返す。
どんどん酷くなっていく頭痛と吐き気だけが、私を責めてくれた。
◇◇◇
「答えは変わらないよ。協力できない」
「……そうか」
フィルバードは慎重に言葉を選んだ。
「もう戦争は始まった。はっきり言うけど、何をしても今更だ」
「……そうだろうな。いま戦いが止まったところで、ウルは変わらん」
「じゃあ君は、何がしたいのかな」
虚空からの声に誘導され、崖から離れて少し入った森の中。
その辺の木の幹にもたれて問いかけると、目の前に竜翼の少女が現れた。
「私のしたいようにする」
「ふうん……? 具体的には?」
「竜の姿となり、あの中に舞い降りる。戦いが止まればそれでよい」
「へえ。そんなことをしてもウルの助けにならないって分かってるのに?」
打ちひしがれた竜の精霊は、自嘲気味に応える。
「そういう問題ではないのだ。……もう、手伝えとは言わない。だから、私を邪魔するな。お前たちに頼みたいことはそれだけだ」
「ウルを見てられないなら、とりあえず気絶でもさせたらいいんじゃない? そっちなら手伝えるよ」
フィルバードのその提案に、アルマは息を吐いた。
「それに何の意味がある。……私にウルを助けることはできない。それは嫌というほど理解した。だが、見ていることにも耐えられない。これは自己満足だ。お前の言っていることは、ウルの救いにも私の救いにもならん」
その取り付く島もない言葉に、フィルバードは食い下がる。
「意味はある。とりあえず問題を先送りできる。それで十分だ。……断言するけど、ウルと別れて一週間もすれば、君の今の気持ちは消えないまでも薄れる。そのまま時に流せばいい。違うかな」
「そうかもしれない。だが……」
気づけばフィルバードの喉元には、尾の先端が添えられていた。
押し殺すような声。
「二度と言うな。殺すぞ」
「いいよ。それで気が紛れるなら、本当にそうしてくれて構わない。でもあとでユーフィミアに一声かけといてもらえる? 蘇生してもらうから」
「……っ」
「今だけでいい。こらえてくれないか」
「……無理だ」
喉元に突きつけられた竜尾がわなないて、へなへなと力を失う。少女はそのまま、ふらふらと地面に降りて項垂れた。
「分かっている。お前の言いたいことも、私が勝手なことをしてはならん理由も分かっている。……私が竜の姿で現れれば、そのまま災厄となる可能性が高い。だからお前たちは私を見逃せない。そうだろう?」
「うん」
「だが、では、どうすればよいのだ。私にはもう、何もわからない」
「耐え……」
「耐えられるわけがないだろう!?」
吐き出された言葉は、ほとんど絶叫のような否定だった。
「竜の精霊は人の気持ちなど分からない、それで当然……!? ……本当にそうか!? 貴様、フィルバード、お前、私に嘘をついてはいないか!?」
「嘘なんてついてないよ」
「なら、なんだ、これは!?」
アルマの口から、怒りにも悲嘆にも似た叫びが溢れる。
「あの小娘は私にとって、これほど大きな存在だったか!? 違う! 気に入ってはいても大切ではない、大切だとしても唯一無二ではない、そうだったはずだ!」
「……」
「それがなぜ、ウルの苦しむ姿を見ているだけで、こんなにも、
「……それは」
「答えは分かっている、もう理解してしまった! ……他人が苦しんでいることを知ってしまうことは、苦しいんだ! 理解できてしまうから、共感できてしまうから、だから! ……なあ、そういうことだろう?」
竜の精霊の眼は、恐怖に塗れていた。
「ウルがいま、谷底で死んでいくものたちを見つめて感じている苦しみは、あれは……あれは、私がいま、ウルを見て感じる苦しみと、同じものなのだろう……!?」
フィルバードはその怯えた声に、かける言葉を見つけることができなかった。
「無理だ。もう私には、ウルを、死んでいくものたちを、見棄てていくことが耐えられない。だって、私と同じなのだ。あれらを背後に忘れていけば、きっと私は、ほんとうに後悔することになる。……それは、耐えられない」
谷底から響く剣戟の音が、木々の間を吹き抜ける風の音に紛れて消えていく。少しの間、沈黙が続いた。
大きく息を吐き、フィルバードが言葉を返す。
「……分かった。降参だ」
「……?」
地面にへたり込んで半べそになっていたアルマに、手を差し伸べて引き起こす。
「協力する。君に災厄になられるより、協力した方がマシだ」
「……い、いいのか」
「いいも何も、君が脅迫したんだろ。君の勝ちだ。……その代わり、黒竜になるのだけは勘弁してくれ。それと……」
フィルバードはアルマと目線を合わせた。
「リスクは許容してくれ。いいね?」
「分かった。いざという時は……」
「ならいい。みんなに説明しに行こうか」
アルマとともに森を出て、皆のもとに向かう。
その傍ら、フィルバードは脳内で不要な思考を続けていた。
────なにを間違えた?
……問い直すまでもない。アルマとウルを会わせたこと、それ自体だ。二人を会わせないようにすることも想定に入れていたし、わざわざウルをエウーリアたちのもとに送り届けてまで、その準備もしていた。
なのになぜ、判断を間違えた?
その問いには明確に答えることができた。
……アルマがこうも幼いと思わなかったのだ。
事実として、アルマの情緒は不安定だった。とてもではないが、数百年の歳月を重ねた竜の精神性ではない。人間のローティーンのものだと言われた方がよほど納得できるだろう。
だが────。
フィルバードは口の端を少しだけ上げて自嘲した。
確かにアルマには分別が足りない。だが、それを責めることができるような恥知らずには、流石にフィルバードもなれなかった。
側に浮遊する姿を目の端で捉える。
……当たり前だ。何を期待していた?
相手は
分別を求める方がどうかしている。思考力と理性があるだけ御の字だ。
小さく息を吐く。
……事実を認識できていなかったわけではない。
フィルバードはアルマを生まれて2週間の生き物として正しく認識していて、その上で、感情より理性を優先する精神性を持つと判断した────成熟した大人ですらもそれができないことがあると、十分に知っていながら。
なぜ?
アルマが竜の記憶を引き継いでいたことは理由の一つだ。記憶に従い、いかにも竜の精霊らしい態度をとっていたことも間違いない。
だが、それ以上に。間違いなく最大の原因は……。
「……浮かれていたのか、僕は」
小さく小さく呟いたその声は、誰にも認識されなかった。
……どう考えてもそうとしか思えないのだ。
企みが上手く進んだ高揚感と安堵感。それにかまけ、リスクを過小評価して判断を下した。徐々に影響は拡大して、その結果が今だ。
完全に、言い訳のしようもなかった。同時、自分の内側に唐突に生じた、内臓を掻きむしりたくなるような不快な衝動を切り捨てる。
今ここで、自分の判断に非があったとアルマに伝えることは、もはや謝罪にすらなっていないのだ。むしろ侮辱に近しい。
思考を切り替える。
考えるべきは次だ。
森を出たフィルバードは、見張りをサボり駄弁っているザクスとエウーリアを見つけた。そのまま声をかける。
「ザクス、エウーリア。聞いてくれ。やってほしいことが……。……?」
「なんだよ、どうした?」
ザクスの困惑の声は、しかしフィルバードの耳には届かない。
視界に、何かそれどころではない違和感が生じていたからだ。
そして次の瞬間に、脳がつい先ほど見たものの理解を開始する。
ザクスの背後、視界の端。小さな人影。
剥がれ落ちるように視界から消えていった。
崖下を覗き込む姿勢から、ふらりと身を乗り出し──……そのまま、宙へと落下した。
「……──ッ!?」
事態を認識し、フィルバードは駆け出した。
当然ながらそこにあった人影はもう、崖の下だ。
────手遅れだ。追いつけない。
脳の冷静な部分がそう告げる。
取り返しのつかない結果の、その残像を追いかけるしかない焦燥感。
もどかしいほどに遅い足を動かして、ようやく崖際まで辿り着いた。
そうして辿り着いた先、地面にあぐらをかいて座り込み、頬に肘ついて呑気に崖下を眺める灰色髪の男に喰ってかかる。
「何ぼーっと見てんだよ!? 止めてよ!」
「……見られていたか。まあ、あいつに限って落下死の心配は」
「してねぇよ! そうじゃなくて……何しに行ったんだ、彼!?」
────それは、この場において最大の予測不能因子。
ある意味ではフィルバードが黒竜以上に警戒し、その動向に神経をすり減らしてきた少年が、ことここに至りて暴走を始める。
全てを滅茶苦茶にされる────そんな確信的な予感にキレ散らかすフィルバードの問いに、シュラが答えた。
「戦いを止めに行くらしいぞ」
「な……、なんで……?」
言葉は理解できた。
だが、クロウという少年の普段の言動からはとても連想できないその行動に、フィルバードの思考は追いつかない。
「さあな。俺にもよくわからない。だが、あいつが言うには……」
シュラは眼下に落下する小さな背中へと、どこか呆れと憧憬の入り混じった視線を向けた。
「これ以上の損はごめんだ、とさ」