「なあ、シュラ。聞きたいんだが」
「なんだ?」
「おれはなにか、いま、すごく損をしていないか?」
戦場を見下ろす崖の上。
その言葉に、シュラは思わず隣に座る少年の顔を覗き込んだ。
「どうかしたのか」
「いや……」
慌てて誤魔化したが、動揺は隠しきれなかった。
だがクロウは、こちらをそれ以上追求することはなかった。ぼうっとした表情で、眼下の戦場を眺めている。
シュラはもう一度、こっそりとクロウの顔を見た。
損。よく使う単語である。
だが何故だろうか、シュラにしてみれば、クロウの口から『損』という単語が出てくること自体、違和感を拭えない。
「……損って、何がだ?」
「むぅ……」
シュラのその質問に対して、クロウは自分でもその感覚を説明できないのか、熟考を始めた。
……シュラの知るクロウという人間は、損得という発想から全く離れた場所で生きているようにしか見えなかった。
無論、損という言葉の概念自体は理解しているはずだ。
だが、クロウのこれまでの行動は良くも悪くも、気の向くまま本能のままに動いているとしか思えなかった。損得という発想……利益という概念に根付いた考え方とは、根本的に無縁な人間性に思えてならないのだ。
「おれにもよくわからないんだが……」
ぽつりぽつりと、クロウは話し始める。
「下で、たくさん死んでいっているな?」
「ああ、そうだな」
「それを見ているとだな、うむ、なんだろうな……すごく気持ちが落ち着かない……しょ、しょうそ……なんだっけ」
「焦燥感?」
「そう、それだ。そんな感じがする」
……?
シュラには、クロウの言う感覚がピンと来なかった。
「……死んでいくのがかわいそうだとか、残酷だとか、そういうことか?」
「いや、あんまりそんなかんじじゃないな」
「そうか……」
生返事をしてから戦場を見下ろすと、ふと、あることに思い至る。
「……ああ、わかった。お前と仲良くなった兵士……ジャックだったか? 彼が死んでしまうのがやっぱり心配なんだろ?」
「いや、それもちがうな」
「違うのかよ……」
クロウはゆるゆると首を振った。
「おれは悲しみたくはないからな、ジャックが生きていたほうが嬉しい。でもジャックが死んでも、それはジャックが選んだことだからしょうがないんじゃないだろうか。だってせっかく覚悟したんだしな」
「お、おう……」
「うむ、だがなにか、ちょっと関係があるみたいな気がする……」
クロウは眼下の戦いをぼーっと見ていた。
その頭蓋のうちでどういう思考が渦巻いているのか、端から見ているシュラにはまるでわからない。
そうして数分が過ぎ、ようやくクロウは喋り出した。
「……なあ」
「どうした?」
「あいつらは、なんで死んでいってるんだ?」
「あいつら……? 今、戦場で戦ってる兵士たちか?」
聞き返すと首肯が返ってくる。
「戦いに負けたから……いやそういう話じゃないな。……俺にもわからない。命を懸けている彼らの心情を俺が勝手に代弁するのはな……」
「いや、そうじゃなくてだな……なんであいつらは勝手に死んでいってるんだ?」
「……んん?」
思わず、クロウの顔を覗き込んだ。無表情の中に明らかに見え隠れする、怒りにも似た焦燥────見たことのない顔だ。
「あいつらは、おれを知らないよな」
「ま、まあ……そうだろうな?」
「あと、おれもあいつらを知らない」
「そりゃ……そうだろうな……」
ここに至りて、やはりシュラはクロウの言いたいことを理解できなかった。
「つまりだな、いまのところ、おれとあいつらは知りあいでもないまったくの他人なんだ」
「あ、ああ……?」
「だったら」
そこでようやく、自分の焦燥感の正体に気づいたのだろう。クロウはぼーっとした口調で、けれど明らかな不満の籠った声で言った。
「おれに黙って勝手に死んでいくのはだめじゃないだろうか」
……。……?
わからない。本当にわからない。
何を言っているんだ、コイツは?
シュラは反応を返せない。クロウの言葉を反芻し、より困惑が深まる。
俺に無断で勝手に死ぬな────その妄言としか言いようのない言い草はもはや、傲慢とかなんとか、そういった概念すら超越していた。
知り合いにそれを言うのは一応、分かる。
だがなぜ、赤の他人にそれを言う?
クロウが何を言っているのか、シュラにはさっぱり理解できない。
もし、クロウの言うことを理解できるものがいるとするならば────それはおそらく、迷宮へと足を踏み入れたクロウの、その冒険の過程を知っているものだけに限られるのだろう。
このわずか数ヶ月の体験を通して、クロウは学習した。
知らない誰かと出会い、言葉を交わし、意思を共有し合う。初めて得たその経験の、なんと楽しいことか。
仲間とともに目標を目指す。たったそれだけのことが、これほどまでに視界を色付かせ、臓腑に活力を送り込み、生を実感させてくれる。
それは『これまで』を眠るように過ごしてきた少年にとってはひどく賑やかな日々で、既に手放すことすら想像できないものになっていて、だからこそ本能で理解させられた。
『本当に価値あるものは、他人との繋がりの中にこそ存在するのだ』────と。
それは至極当たり前のことで、けれどそれこそが、クロウという少年が冒険を通して得た最大の学びに違いない。
それはきっと、成長と呼べるものだろう。
……そして成長したからこそ、思うのだ。
眼下で死んでいく幾人もの他人……もしかしたら自分にとって、いまの仲間達と同様に『大切』になり得たのかもしれない者たち。
それがひとつひとつ、失われていく。
可能性が跡形もなく擦り潰されていく。
見ていていいのか?
ここで、蚊帳の外で。
ただ、見ていていいのか?
中身を確かめないまま破壊されていく宝箱。
自分の『大切』の源泉が失われていくこの光景を────取り返しのつかないかもしれない損失を、許容していいのか?
劇薬は今や、少しばかり効きすぎていた。
覚えてしまった他人のぬくもりが、度し難いまでの強欲を少年に植え付ける。そして始末の悪いことに、そのどこまでも自分本位な我儘を実行できるだけの能力が少年には備わっていた。
「うむ。だってもしかしたら、あそこで死んでるやつらのなかにも、ミューとかクーとかシュラみたいに、おれの仲間や友達になるやつもいるかもしれないわけだからな……」
「おいクロウ……?」
眉をひそめるシュラに、クロウは淡々と言った。
「おれが行ってこよう」
「どこに……? 何しに?」
「死ぬのをやめさせてくる。だってこのままだと、おれは損するからな」
そうしてクロウは、躊躇せず崖下へと身を投げた。
止めても無駄……というか、シュラが止める暇すらない即断即決だった。
身に纏った灰色の外套を翻し、小柄な背中が落下し、遠ざかっていく。何もかもが良くわからなかったが、シュラは一つだけ理解した。
「……やりたいようにやるってことだな」
肩の力を抜き、後ろ姿を眺める。
「ま、いいか。……いいだろ別に」
背後から駆け寄ってくる足音。
それがここまで辿り着く前に、シュラはこっそりと呟いた。
「好きにしちゃえよクロウ。ぶっ壊しちまえ、こんな