意識を取り戻すと同時、酷い痛みと倦怠感を全身に感じた。
不快感に体をよじろうとするも、全身に絡みつく何か妙に熱っぽい軟体に拘束されて動けない。
目を開けても視界は暗闇に閉ざされたまま。耳には幾重にも重なった、地獄のような呻きと嘆き、啜り泣きの声が聞こえる。
蒸し暑い空気の中、生々しく生物的な匂いが鼻腔を満たす。
「こ、こは……っ痛」
「無理に喋ろうとするな、息を整えろ」
耳元で囁かれたその声に、ジャックの意識は覚醒した。そして自分の体に覆い被さり拘束する軟体が、誰なのかをようやく理解する。
「シリウス……か?」
「匂いでも感触でもわからんとはな……全くヒトはこれだから……」
「何が……いったい、どうなっている……?」
脳内が疑問符で埋め尽くされる。
今は戦争中だ。肩を切られ、剣を取り落とし、切り捨てられたはずだ。
……他ならぬシリウスに。
それがなぜ、今、こうして……暗闇の中で抱きしめられている?
「夢、でも、死後の世界でも、……ないな……」
意識を向けてみれば、それは明確だった。
ここが地獄ならば、シリウスはいないはずだ。天国ならば、こんな蒸し暑い暗闇に怨嗟の声が満ちるような空間ではないはずだ。
幸いにも血は止まっているようだったが、夢ではない証拠に、切られた肩からは痛みを感じる。……そしてなぜか、負傷した覚えもない手足から激痛を感じる。というか、その痛みは肩のものよりよっぽど酷かった。
「馬鹿を言うな。……いいか、もはや私たちにできることは何もない。せいぜい体力を温存して、無事に解放されることを祈れ」
「いや……どういう状況なんだ、これは」
「どこまで記憶がある?」
「お前に切り掛かられたところから、さっぱり……」
「……まあ、そうだろうな」
シリウスは細く息を吐き、端的に説明した。
「いいか、今の私たちは捕虜だ」
「……捕虜? ここは監獄、なのか?」
「監獄ではないな。身動きが取れないと言う意味では正しいが」
「……?」
「……気にするな。余計なことを考えるな。植物のように息を潜めろ」
シリウスは囁くような声でそう言った。
忠告なのだろう。だが、従えるわけもなかった。
「……何がどうなっている? 戦争はどうなった?」
生物的な暑さと湿気、そして圧迫される肺に息苦しさを覚えながらそう問いかけると、気怠い囁き声で耳元に返答が返ってきた。
「……こんな状況になっている理由は私も知らん。あの瞬間、私たちのそばに落下してきたアイツが元凶だ。分かっているのはそれだけだ」
「アイツ? アイツって誰だ?」
「……そこも分かっていなかったのか。クロウだ。あの小僧だよ」
「……クロウ?」
数日前に話した、緊張感の無いぼやっとした表情が脳裏に浮かぶ。
……何故? 純粋な疑問だけがそこには残った。
「そして戦争だが……終わった」
「終わった? あれから……いやそもそも、それくらい時間が経った?」
「お前が気絶していたのは、せいぜい十五分といったところか……」
「……待て、どうしてそれで戦争が終わったことになる?」
戦争とはそんな時間感覚で終わるものではないはずだ。
問いかけると、シリウスは呆れたように言葉を返した。
「なぜ、そんなことを聞く。分かっていただろう。アイツが……クロウが出てきた時点で、私たちに戦争など成立するはずもない」
「どういうことだ……?」
問い返すと、シリウスは長い息を吐いた。
「……貴様、本当に能天気だな。今も、クロウに抗おうとする者たちが戦っているはずだ。だがそれに意味があると、お前は本当にそう思うのか? アイツのことを知っているのに?」
「それは……」
……クロウが来たからどうなるというのだ。
ジャックから見たクロウは、戦う姿も記憶には残るものの、それでも間の抜けたところのある少年でしかなかった。
シリウスは小さくため息をついた。
「ふん、しょせん平和ボケしたヒトには分からんのだ。危機意識が足りない。……もはやこの状況は戦争ではない。これはただの……」
シリウスは諦観にも似た感情を声に乗せ、吐き捨てた。
「蹂躙だ」
◇◇◇
時間を僅かに遡り、十数分前。
「む、おまえらか」
周囲に着弾した人間大の何か……まるで数十メートルもの高さから減速もせずに落下してきたようなソレの衝撃に吹き飛ばされたシリウスは、意識こそ失わないまでも、完全に平衡感覚を失って倒れていた。
爆心地のすぐそばには、シリウスと同じく吹き飛ばされたジャックが気を失って倒れている。
目の前に現れた少年はまるでいつもと違うことのない平静さで、しかしながら着地の衝撃でズタズタに破れた灰色の外套をマフラーのように……あるいは停戦を呼びかける白旗のように首元に靡かせ、そこに立っていた。
だが、少年の平静さが感じさせるのは、気安さではなく恐怖だった。
────束になっても敵わない。
目の前の人影は、文字通りにそういう相手だ。
この数十日で、幾人ものヒトや亜人がこの少年と言葉を交わした。だが、その危険性と異常戦力に気づいていたのはおそらく、その中でもたったのひとり。……亜人の中でも最も鋭い感覚器を持つ、シリウスだけだった。
恐怖の対象が目の前までとことことやってきて、呟く。
「ふむ、死んでないみたいだな」
まるで興味の無さそうな口調だった。
死んでなくてよかったが、死んでいたとしてもそれはそれでしょうがないか……────だってどうせ、勝手に殺し合って死んでた奴らだし。
別にクロウはそこまで言ってないが、シリウスはそれを幻聴し、そしておそらくクロウの心境が幻聴とさほど離れていないであろうことを悟った。
「死んでないならわざわざ死ぬこともないな、うむ」
そうクロウは独り言を言った。
次の瞬間、シリウスの四肢に電流のような衝撃が走る。
そして衝撃は、激痛となって全身を駆け巡った。
「がっ……!?」
霞む視界の端に、少年がジャックのそばに屈むのが見えた。
────デコピン。
クロウはそう呼ばれる行為をしていた。
だが、鳴り響くのは異様なほど重い音。その音が響くたびにジャックの身体がびくんと危険な痙攣を見せる。
都合四度、音が鳴り響いた後、クロウは踵を返した。
「だってこのままにして放っておくと、なんかお前たち、勝手に死んでいくもんな……やれやれ」
この場を立ち去るクロウの、その異様に恩着せがましい独り言を耳にしたシリウスに戦慄が駆け巡る。
……まさか。
自分の肉体の状態を探る。
右腕……動かない。
左腕……動かない。
右足……動かない。
左足……動かない。
四肢の骨も腱も全て、駄目になっていた。
立てるはずもなく、武器も持てず、戦争など続けられるわけもない。
シリウスは怪異でも見るような気持ちで、クロウの後ろ姿を見た。
まさかとは思うが。いやまさか。
……戦争から『保護』したつもりなのか!? これで!?
少年の行先では、クロウの着弾の衝撃、そしてそれに伴う戦闘全域に鳴り響いた轟音によって一時的に麻痺していた戦闘が再開されようとしていた。
クロウは剣戟の中にのこのこと歩いていき、都合四度、重い音が鳴る。それと同時、屈強な亜人兵が悲鳴を上げながら地面に倒れ込んだ。
そして頼れる援軍の出現に歓喜したヒトの兵士もまた、次の瞬間には悲鳴を上げて地面に崩れ落ちた。
「……全員、こうするつもりか? 本気で?」
乾いた声が口から漏れる。
だが、その推測が正しいことをシリウスは既に悟っていた。
恐ろしいことに、シリウスの直感にそれができるかできないかという二択を答えさせれば、間違いなくできるという回答を弾き出すのだ。
シリウスは諦観の笑みを漏らした。
そばで気絶するジャックを見る。
……たぶんもう、この戦争はダメだ。あらゆる意味で、まともに続くことはありえない。そして戦争が終わったのなら、この男を殺さねばならない理由は、もはや無くなってしまった。
「フン。仕方がない、か……ッ!?」」
少年の後ろ姿に視線を戻したその瞬間、思考が硬直する。
そして考える暇も無いまま、折れた手足で必死に地面を這いずった。激痛に意識を割く暇はない。意識の無いジャックの身体に覆い被さり、咄嗟に身体強化魔法を張り巡らせる。
最速で行われたその行動は、だがそれでもギリギリのタイミングだった。
直後、肉体に加わった凄まじい衝撃が、四肢に耐えがたい痛みを齎す。
「……〜〜ッ!」
声すらも出ない痛みとはこのことか。
だが、気を失っている場合ではない。
……なんだ、何がしたい。何をやっているんだ、アイツは!?
その疑問すら、叫ぶ余裕は無かった。
だってほら────もう、次が降ってきた。