Prologue_畏怖
「監視を継続しろ。位置につけ」
指示に従い、武器を手に配置につく。
数百人で監視する対象はたったの一人。
馬鹿馬鹿しい話だ。
だが、監視任務に立つ兵士たちには欠片の油断もない。それどころか緊張を高め、どこか怯えたように、数百メートル先にそびえ立つ氷の塔へ目を向ける。
監視の目的は、対象が動き出せば一瞬だけでも食い止め、後方に詰める数万からなる軍へと対象が通り着くのを遅延させること。それが兵士たちの任務だ。
無論、つい先日の
だが、それはそれで構わない。全体の目標を達成するために捨て駒になる覚悟が最初からできているのなら、そう対応できる。兵とはそういうものだ。
しかしながら任務に就く兵士たちは、疑念を拭うことができなかった。
監視対象が動き出したことを背後に控える軍に伝え、体勢を整えるまでに自分たちが最低限の盾の役目を果たす。……ここまではいい。問題はその先だ。
渓谷を抜けた監視対象は、数万の大軍勢と相対することになるのだろう。
だが果たして────あの暴威を食い止めるのに、
相手は数百人を指先で蹂躙し、数千人を恐怖で屈服させたバケモノ。
そんな存在に、果たしてたったの数万で敵うのか────数百に対する蹂躙を百回繰り返されるだけではないのか────そんな馬鹿馬鹿しい疑念が、頭から消えない。
わからない。
わからないから、恐怖するしかない。
氷の塔。……遠目にそびえ立つソレを言い表す方法として、その表現は間違ってはいないが、正確でもなかった。
数日前、犠牲者たちが解放された後で、対象を取り囲むように突如として出現した氷の壁。実のところそれは、兵士たちの一部にとってはここ一ヶ月で見慣れた建造物に似たものにも見えた。
だがそれゆえに、兵士たちは知っている。異常なる魔法にて創り出されたその氷は、そもそも氷であるのかすら怪しいもので、少なくとも自分たちに砕けるようなものではない。そしてまた、高い壁を持つそれを乗り越えることは容易ではない。
だがその透明度ゆえに、その中の相手の気配は明確。対象をこちらから守るように────あるいはこちらを対象から守るように、氷の塔は災厄を揺籃する。
監視を続けて既に四日。
何事もなく過ぎ去り、時間だけが経つ。
今日も監視任務を終えた兵士────ジャックは、静かにため息をついた。
◇◇◇
実のところを言えば、ジャックの記憶は曖昧である。
戦争のさなか、気を失ってからのことをあまり把握できていない。気づけば蒸し暑い暗闇の中、シリウスと一緒に人塊に押し潰されるというわけのわからない事態に陥り、けれどさほど経たずに解放された。
怪我も癒えていた。暗闇の中に淡い緑色の光が走ったかと思えば、ジャックやシリウスを含めたその場にいた全員の身体が回復していたのだ。へし折られていた手足は元に戻り、疲労も消え去った。解放さえされれば、もはや自分で逃げ出すのに支障はなかった。
その場に最後まで残った兵士は、ジャックとシリウスだった。それは屍の塔の最下層に配置されていたという必然もあってのことだが、それ以上に、すぐそばにぽつねんと立ちつくす少年から眼を離せなかったからだ。
少年の何に目を奪われたのかと問われれば、それは間違いなく頭上で禍々しく輝く赫い光冠にではあるものの────それ以上に、確信が持てなかった。
目の前の少年……頭上の謎の光以外には何も変わった様子のないこの少年は、本当に自分の知るクロウと同一人物なのだろうか。
本能が告げたのだ。これはもはや、解り合える相手ではない。殺し尽くすか殺され尽くすかのその二択……人類の敵、『災厄』と呼ぶべき存在であると。
クロウは何かを話しかけようとしたのかもしれない。
だが、その瞬間に我に帰ったジャックは、脱兎の如くその場を離脱した。ほとんど半分、狂乱状態に陥っていたといっても間違いではない。シリウスも同じなのだろう。同時に逃げ出していた。
何か話す、対話するという発想も思い浮かばないまま、ただただ恐怖のままに逃げ出した。自陣へと辿り着き、その事実を正しく認識し、正気に戻ったころには、既に氷の塔がクロウを取り囲み接触は不可能になっていた。
それから既に四日が経過。何が起こったのか、今なにが起こっているのか、なにもわからない。周囲と同じく、恐怖を根底に隠しながらクロウを監視する日々だ。
「……クソッ」
後方で補給を終え休養を取るジャックは、人目のない場所を散策していた。心の中で整理しきれないイラつきが、その歩みを勝手に進めさせる。
自分の中の疑念を、また口にしてみる。
「アイツの何が怖い? 何が恐ろしい? ……理性で判断しろ。俺にはクロウに殴られた記憶はない。実際には何かされたんだろうが、その後遺症もない。そして事実だけを認識すれば……たぶん俺は、アイツに命を救われた」
思考の上で、ジャックはあの出来事をそう認識している。
外からどう見えたにせよ────仮に『命を救われた』という表現が明らかにそぐわない有様だったにせよ、そんなものはジャック自身の考え方には何ら関係が無い。
他の誰でもなく、当事者であるジャック自身は恩を受けたと思っているのだ。ならば、それ以上に信じるべきものは無い。
……なのに、何故だ。
今のジャックは、クロウを恐怖と畏怖でしか認識できない。
「俺は……」
自分が口だけ覚悟野郎であることは、この戦争を通して自覚した。だがあえて、自覚したその虚像に縋る。
「……恩を受けた。俺は義理を通す男だろ。自分の納得に従え」
それで何が変わるかと言えば────まあ、別に何も変わらないのだが。
だが、それでも嫌なのだ。
明らかに存在する恩に目を背け、意味不明な恐怖に囚われるままに友人を敵と思い込むのは……それは、あまりにも格好悪い。そんな自分を許容したくなかった。
このままの自分で、クロウと相対したくないのだ。
そこでジャックは大きく息を吐いた。
これ以上は考えても無駄だと思い直す。
詮無い思索を打ち切り、散策をやめて本陣に戻ろうとする。
だが────それはできなかった。
なぜならその次の瞬間、地面から唐突に伸び上がってきた影をジャックは知覚することができず、声も出せず迅速に意識を刈り取られるハメになったのだから。
◇◇◇
「……っ?」
「よう、大丈夫か?」
不意に瞼の裏で緑色の光が灯ったかと思えば、急激に意識が回復した。
目の前には見覚えのない桃色の髪の少女と、そしてもう1人。
不敵に笑う金髪の少女……そちらの方には見覚えがあった。
「どこだよここは……エウーリア」
「私たちの拠点だ。悪いな、いくつか聞きたいことがあるから来てもらった」
ジャックは上体を起こし、息を吐いてどかりと座り込む。
……こいつらに対して気を張ったところで、おそらく無駄なのだ。もしこの少女たちにその気があるのなら、おそらくは己の意思など関係なく、強制的に喋らせることもできるのだろうから。それだけの力を持つ相手だ。
悪びれもしない少女に、ジャックは諦め半分で聞く。
「これ、誘拐だよな。頼むから解放してくれないか? 明日も早いんだ」
「解放するのは別にいいぜ? でも話くらいは聞いてくれよ。どうせここから一人じゃ帰れないだろうし、その前にさ」
「一人じゃ帰れない……?」
「ここ、天竜山脈の中だぞ。たぶん普通に遭難するだろ」
その言葉に目を剥くジャックだったが、すぐに気づいた。
……そう、天竜山脈は既に、黒竜の住処ではない。
もはや神の息吹はそこには無い。ただの山に過ぎないのだ。
ため息をついて問いかける。
「何の用だ? アイツ絡みのことなんだろうが、俺を連れてきて何がしたい?」
そう問いかけると、エウーリアは難しい表情をした。
「どこから説明していいやらなんだが……実は私たちもいろいろ迷っててな。手当たり次第に試してみるべきだと思ってるわけだ」
「……試す? 何を」
「私たちじゃあ意味のないことがいくつかあってな。……おーい、来てくれ!」
「だから何、を……ッ!?」
エウーリアが呼びかけた先。ゆっくりとこちらに歩いてくるのは、見間違えようもない少年の姿。
「クロウ……?」
声が震えた。
喉が渇く。呼吸が荒くなる。視界が定まらない────などの症状は特に現れない。
そこにいるのはクロウだった。バケモノでも災厄でもなく、ただの少年であるクロウ。ごくごく自然に、ジャックはその少年をそう認識することができた。
目の前までやってきたクロウに、ジャックは思わず立ち上がった。
「お、おいおい……なんだよお前、なんも変わってねぇじゃん……」
……いや、正確には少年の頭上に光る赤の冠は明らかに異常なのだが。
だが、それはあくまでもそれだけのことに過ぎない。目の前にいるのは、ただ頭上が謎に赤く光るだけのクロウDX特別版だった。
ジャックは心底から安堵の息をついた。
「……よかった」
「よかった?」
首を傾げるエウーリアに答える。
「いや、なんでだか分からないんだが……この前に見た時のコイツ、やけに恐ろしげだったんだよ。こう、『こりゃ敵だわ』って感じの。相容れないってのか? でも今は、そうじゃない」
「というと今は、恐ろしくないわけだな?」
「ああ。……あ、いや、俺以外がどう思うかは知らんが。……もしかしてお前ら、クロウと俺たちに手打ちをさせたいのか? あー……軍に仲介しろとか?」
思いつきを口にすると、エウーリアは微妙な表情をする。
「いや、別にそうじゃないんだが……」
「そうか。ま、そりゃそうだよな。そういう目的なら俺なんかを呼んでもしょうがないだろうし……にしてもクロウ、なんで黙りこくってんだ? 俺はお前に礼を……」
「あー、ちょっと待ってくれ」
安堵感から口が緩み気味のジャックに、エウーリアが待ったをかけた。
「ちょっと確認したいんだが、このクロウは怖くないわけだな?」
「そりゃまあ。怖いか? コイツ」
「いや、怖くない。……そうだよな。じゃあ悪いけど、クロウと話す前に、私についてきてもらえるか?」
「……?」
そう言って立ち上がったエウーリアの後をついて歩く。
そして僅かに歩いた先、崖の端までやってきて────ジャックは今の今まで感じていた安堵感が、跡形も無く消え失せるのを感じた。急に冷気に接したような怖気。
「っ……?」
「……直接見なくてもこれか。でも悪い、確認として一応見せとくぜ?」
エウーリアが手を翳すと、空中に水晶のような氷の塊が現れる。
いくつかの氷のプリズムを経由し、その氷板の表面に崖の下、渓谷の中央の映像が投影される。氷の塔、その内側。そこに映し出されていたのは────。
「────ッ!?」
ソレが誰なのかは問題ではなかった。
名など、人格など、ソレを構成する一要素に過ぎない。
魂を支配するのはより明確で衝動的な『この世に有ってはならないものが、自分たちの天敵がそこにいる』という感覚────ただそれだけの、強烈な確信。
「……やっぱ本物は違うってわけだな?」
気づけば地面にへたり込んでいた。
差し伸べられたエウーリアの手に、強引に立ち上がらされる。
動揺が口を衝いた。
「ク、クロウは、そこに────」
「悪いな、偽物だ」
その言葉とともに、振り返った先にいたクロウの姿が溶ける。
一瞬、影が広がったかと思うと、そこには見覚えのあるメイド服のちんまい少女が無表情で立っていた。
「どういう、ことだ……?」
ただ呆然と聞き返す。
エウーリアは難しい表情をした。
「分かっちゃいたが、やっぱり厄介ってことだ。……だよな?」
「そうだね。ただ視覚で刷り込むだけじゃダメだとなると……でも、対処はあるよ。シュラはどう思う?」
「同感だ」
他に何か良い隠密方法は無かったのだろうか、したり顔でがさがさとその辺の茂みから這い出してくる男二人。
マントに付着する木の葉を払いながら、小さい方が口を開いた。
「ジャックさんだよね? よければ僕らに協力してもらえないかな。だってほら────君らだけで倒せる気がしないでしょ? 彼のこと」