禁足域 第五階層。
魔鉱石の採掘場から離れたこの場所には、クロウも始めて踏み入る。
目の前には小さな湖が広がっていた。
対岸はクロウが跳躍すれば届く近さで、むしろ泉か池とでも表現した方がいいかもしれない。周囲は森の葉音すら静まり返り、静謐とすら言える。
一見すればそれは、なんの変哲もない美しい森の湖畔といった様子。
だが……。
「なにもなさすぎるな……?」
そう……この湖の周辺には、あまりにも
人工物が存在しないのは当然としても、それまで散々に生い茂っていた樹木すらも生えていない。下草もほとんど生えず、湖の周囲だけがむき出しの土の色を見せている。
しかも妙に水が澄んでいることからして、藻や水草すらも棲めない場所なのではなかろうか。
あまりにも生命感の存在しないその様子は、まるで湖が生命にとっての毒でも放出しているのではないかという推論を抱かせるのに十分だった。
クロウは水に触れた。
ゾクゾクするような冷たさだ。浸かれば容赦なく体温を奪うことだろう。
「だが親方は、湖の底と言っていたしな……」
中に入らないわけにもいかない。
クロウは親方の言葉を思い出す。それは昨日のことだった。
◇◇◇
「迷宮に? お前が? ……どういう風の吹き回しだ」
「だって親方、エウーリアは迷宮にいるんだ」
肉を頬張りながらそんなことをのたまうクロウの言葉に、親方はため息をついた。こめかみを抑え、天を仰ぐ。
「言ったろ。そのなんだ、エウーリア? は多分、お前にゃ靡かねえぞ」
「そうか。じゃあ確かめないとな」
「……ほぉん? 随分と執着するな」
「なんでだろうな。おれにもよくわからない」
親方はやれやれと肩を竦める。
「立場が違いすぎんだよ。お前にゃいつも言ってるだろ? 恋愛ってのは運命だ。お前の気持ちだけじゃどうしようもないもんだぜ。その辺を忘れて手ぇ出せば馬鹿見るだけだ」
「つまりエウーリアをおれに惚れさせればいいんだな?」
「いやだからそういう問題じゃ……一応聞いてやるが、どうやってあの嬢ちゃんをお前に惚れさせるつもりだ?」
「ふむ、おれに聞かれてもな……エウーリアに会って聞いてみればわかるだろうか」
親方は頭を抱えた。
……これでもそれなりの付き合いだ。親方にはクロウが本気で迷宮に行きたいと思っていることが分かった。今も間抜けな顔でもぐもぐと肉を頬張っているが、たぶん本気だ。たぶん。
しかしながら親方には、クロウの願いが……平たく言うなら女にモテたいという願いが叶うとはとてもではないが思えなかった。
それなりに人生を積んできている親方には分かるのだ。“禁足域”の論理は『外』では通用しないし、その反対もまた然り。ここはならず者の集まるゴミ溜めに過ぎず、どこにも馴染めなかった落伍者の終着点だ。
そしてクロウは、総じてまともでない禁足域の住人の中にあって、なおもまともとは程遠い。これもまた客観的な事実だ。クロウは色々と、他人と関わるためには取りこぼしているものが大きすぎる。
仮に禁足域から外に踏み出したところで破綻が目に見えているのだ。
……しかし。
「……お前にゃこれがチャンスなのか?」
親方はクロウを見遣った。
この少年が何かに執着する様子を見せたことが、今までに一度でもあっただろうか? ……否、クロウは何にも、金にすら執着しない。
親方もこんな階層の住人であるからにはクズなので、クロウの持ってくる魔鉱石をかなり安く買い叩いているが、しかし特に不満を言われたことはない。……そもそもクロウが魔鉱石の買い取り価格に注意を向けているかと言われれば、それはそれで定かでないのも確かだが。
そんなクロウがこうまで執着するからには、エウーリアという少女の存在はクロウにとって唯一、こだわるほどの意味を持つものなのだろう。
親方も人の子である。
クロウから搾取する程度にはクズだが、クロウが変わろうとする唯一のチャンスまでわざわざ潰そうとするほどクズではない。
これまで散々に美味い汁を吸わせて貰った恩とそれなりに仲良くやってきた友情は、確かに感じているのだ。
親方はクロウに、眉唾ものだが確実に嘘とも言い切れない、いくつかの噂話を教えることにした。
「お前、第五階層まで行けるんだよな? じゃあ……」
◇◇◇
さて、その話によれば。
“禁足域”から脱出する非正規の経路が、この階層にはあるらしいのだ。
迷宮での移動手段は限られている。
階層内であれば徒歩が基本だ。魔獣を飼い慣らして騎乗するものもいるが、そう簡単な話ではないし地形によっては移動も難しくなる。
冒険者は往々にして魔法によって体力を補えるということもあり、徒歩により移動する者が割合としては最も多いだろう。
そんな中に囁かれる噂話が、迷宮内の非正規ルートである。
いくつかの階層を跨って存在する経路、あるいは外へと直通する脱出路、はては死の黄泉路に繋がる扉だの、怪しい噂話は探してみればいくらでも溢れかえっている。
基本的には法螺話と考えていい。魔獣に喰われたり遭難してしまった探索者の逸話が下敷きになっていることが多いのだ。
ただ、それで全てを片付けられるかと言えばそうではない。そもそも迷宮という仕組み自体が不条理、そこに抜け道が存在することなどありえないと断言できるものは一人もいない。
嘘か真か、この階層にある湖もそんな場所の一つであるという。もしそれが本当であれば、確かにクロウが迷宮に潜る助けになるだろう。
もっともここは、禁足域の上端、第五階層。
組織的な開発を放棄されて数百年以上が経過した階層であり、その噂はほとんどおとぎ話。しかも教えられたのは、『どっかの湖の底』というただそれだけの雑な情報。第五階層には湖などいくらでもあり、クロウは今回の場所で既に十以上、湖を探し回ったことになる。
「あんまり入る気がしないな……しょせんは親方の言ったことだしな……」
クロウはぼやいた。やはり適当に金などを稼いで、もう少し信憑性のありそうな情報を手に入れるべきではないかと、今更ながらに思い始めたのだ。
そもそも情報をくれた相手が親方である。
親方がクロウのことを信じているのと同程度、クロウは親方のことを信じていた。つまり双方の信頼度はほぼゼロである。ドライな関係なのだ。
「……入るか」
それでも確かめてみないことには始まらない。
クロウは湖に足を踏み入れる。
どうやら底に泥が溜まっているということもなく、少々沈み込む程度でしっかりと足で踏み込めた。クロウは二歩、三歩と足を進める。
水深が胸より上に来たので顔を水につけて潜る。水の澄みようは恐ろしいほどで、かなり先まで苦労なく見渡せる。同時に、少なくとも視界には生物の姿が一つもなく、あまり長く滞在したい場所ではなかった。
湖の中心部まであと少し。特に何が起こる様子もない。
やはりと言うべきか何も起こらないことに若干の落胆を覚えつつ、クロウは足を踏み出し……何かに足を取られそうになった。足元を見る。
クロウが躓いたそれは鎖だった。
底の砂に紛れて視認できていなかったが、一度気づいてみれば、湖の中央あたりを中心にして何本かの鎖が伸びている。……よくよく観察すれば、それはまるで、何かを封じているかのようにも見えるのだった。
クロウは悩む。
こんな鎖が何の意味もなく、自然にこんな湖の中へと沈められているわけがない。そのくらいは理解できる。ならば、どうするべきか────?
────うむ。引きちぎろう。
クロウは数秒悩んでそう決定した。どうせそのうち錆びて自然に切れるのだ。今切っても何かが変わるとは思えない。
クロウは腕に力を込め、鎖を引きちぎろうとし────鎖が勝手にバキンと砕けた。
「……────っ!?」
クロウは本能的な危険察知から後方へと跳ぶ。
纏わりつく水の抵抗が邪魔だった。
つい一秒前までクロウが佇んでいた場所に、辺り一面を照らすほどの莫大な魔力を内包する燐光が集中していた。外から見れば、湖が光っているようにも見えたことだろう。膨大なそれは水底より溢れ、揺らぐ。
────集中する燐光に見入り、動きを止めたその瞬間、虹色の光が弾けた。
それは水中の小さな空気の粒に乱反射し、煌めき、踊る。
同時に、静かだった湖に水流が生まれる。クロウはその乱水流により水面へと運ばれ、空気を肺いっぱいに吸い込む。そしてもう一度潜ろうとし……気付く。何か、水底より浮かび上がろうとしている。
潜る。空気の泡に阻まれていた視界が一気に開ける。
クロウは手に触れたそれを掴み、水を蹴って水面へと浮かび上がった。
頭を振るって水滴を飛ばす。
クロウは、腕に抱いていたソレに話しかけた。
「誰だ、おまえ」
「あ、はい」
けほけほと咳き込んでいたソレ……エプロンドレスに身を包んだ黒髪の少女は、目を擦りながら自己紹介した。
「私は精霊制御型の駆動外殻……。……なんでしたっけ。なにかいろいろと思い出せないのですが……ともかく、個体名をミュールリーハと申します」