悪鬼は緩慢に瞼を開いた。
開けた大地、砂混じりの風、眩しい陽光。
だが、そこから入ってくる情報はさほど意味を持たない。音も触覚も同じだ。全ては己を取り巻く外界に過ぎず、自己とそれ以外という明確な境界だけが理解の全て。
己を害する全てを破壊するため、直ちに行動を開始する────その寸前、悪鬼は異常を感知し、行動を停止した。
仮に人間のように表現するのならば。
悪鬼は少しばかり……困惑していた。
悪鬼はその場に蔓延する意志を読む。己を害しようと、妨げようとするものを破壊するためだけに行動する。
それが行動原理だ。
だが、気づいてみれば。
この場のどこにも────己に干渉しようとする意思が、敵意が、存在しない。
この場にはただ怯えと、恐怖と、畏怖のみが充満していた。それらは全て、害意を伴わない惰弱である。
悪鬼にとっては感知する意義すら見出せない無色だ。
悪鬼の意識に僅かな虚空が生まれた。
その中心に存在するのは、この場で何をすればよいのか、何のためにこの場に存在するのか……そんな、悪鬼には本来ありえない問いだった。
脅威を殲滅することこそが存在命題なのだから、そもそも敵が存在しない状況ですべきことなど何も無い。
己を引き摺り出すほどの脅威に、しかし敵意だけは付随していないという異常事態。故に生じる、戸惑いと隙。
だが、それはさほど長いものではなかった。
もう数秒もすれば、悪鬼は惑いを振り捨て、全てを鏖殺するために行動を開始する。
────故に、これが最後のチャンスだった。
「……今ッ!」
静寂を破る声。
それは側で警戒するミセルの声ではない。固唾を呑む魔法使いたちの声でも、外野で見ている兵士たちの声でもない。
彼らは潜んでいた。ひたすらに辛抱強く。
飛翔する斬撃も魔法の業火も破滅の極光も、その全て掠るだけで消し飛ぶような殺意の嵐の中に、ただ潜んでいた。
合図と同時、悪鬼のすぐ背後の地面……クロウの身体の影となり、魔力核撃による消失から免れて残った大地の一部が、まやかしのように
何か────クーが擬態を解いたのだ。そして同時、クーに包まれて身を隠していたミューとシュラが姿を現す。
それは戦闘者の視点から見れば、酷く緩慢な動きだった。
対象の背後という絶好の位置どりにも関わらず、姿を表して体勢を整えるだけで一秒近くかかっている。
もしも悪鬼が臨戦態勢であれば、その時間だけで既に三人は鏖殺されていただろう。
だが違った。そうはならなかった。
攻撃しようとする三人に、敵意が存在しなかったから。
ある種、それこそが悪鬼の弱点だった。敵意に敏感すぎるが故に、それを含まないものに悪鬼は無関心だ。
敵意のない行動を攻撃と認識し、警戒すること自体、悪鬼にはそもそも不可能なのである。何故ならば悪鬼は知っている。敵意無き、殺意無き一撃が己の肉体を傷つけることは……ましてや本質的に貫くことなど、絶対にありえない、と。
だが、悪鬼は知らない。
この世には絶対など無く。
何事にも例外が存在する、ということを。
◇◇◇
「俺も少し、気になっている部分がある────」
戦闘が開始する数日前、クロウへの対応を相談する最中。シュラはフィルバードたちに問いかけた。
「『災厄』の最小単位はなんだ?」
その問いに、皆は顔を見合わせる。
意味が分からない。
シュラが補足した。
「つまり……核となる部分は無いのか? 災厄から切り落とされた髪の毛が災厄かと言えば、それは違うように思う。だが、腕なら、足なら? 心臓なら? どこまで突き詰めれば『災厄』として成立するのか、あるいは成立しなくなるのか……それを知りたい」
その問いにやはり皆は顔を見合わせた。
代表してエウーリアが答えた。
「たぶんアレだろ。災厄の核っていうか、災厄を災厄として成り立たせてるのは、魔晶じゃねぇの? ほら、前の階層の水の塊とかわかりやすかっただろ。水をいくら削っても意味ないけど、真ん中の……アレ? ……んん?」
と、そこでエウーリアは首を傾げた。
「……よく考えてみれば、アレは魔晶じゃないよな?」
「ああ。アレは師匠の作った『
「あ、そうか。じゃあ違うな」
勝手に納得したエウーリアに代わり、ザクスが口を挟む。
「正直、気にしたことねぇな。基本的にそんなことを考えなくてもよ、こう、あー……倒しちまえばよくね?」
微妙に言葉を濁しつつ、ザクスは言葉を続ける。
「なんつぅか、相手が生きてること自体が災厄を災厄として成立させる条件なんじゃねぇの? 俺の知る限り、結局のところ倒さない限り、災厄は祓えない」
「だが前の階層では、実際のところ
「あっ? ……そうか」
考え込んだザクスの背中をぽんぽんと叩き、フィルバードが話を引き継いだ。
「つまり、こう言いたいのかな。災厄の生き死には災厄として成立しているかどうかには関わりがない。核となる部分さえ引き剥がせば、災厄は災厄足り得なくなるんじゃないか、と」
「まあ、そうだ」
「それには賛成する。でもたぶんさ……君の師匠さんがかなりのレアケースだっただけじゃない?」
フィルバードは感情を見せずに話した。
「僕の知る限り、ほとんどの災厄は死によって終わる。……なら、災厄を災厄たらしめる核が存在したとして、それが大抵の場合は生命に直結してるって話なんじゃないかな。魔晶って基本的に、心臓と一体化してるし」
「災厄から解放しようとして魔晶やらなにやらを破壊してしまうと、結局はそのせいで死んでしまうわけだな? たまたまそうではないパターンもあるというだけで」
「うん。僕はその解釈が合ってるんじゃないかと思う」
シュラは頷いた。
フィルバードが拍子抜けするほど簡単に。
「なるほど。参考になった」
シュラが知りたかったのはただ一点。
災厄の核は何かという問い……それに対する答えが、『分からない』のだという、その事実だけだ。
シュラは冒険者ではない。探究者である。
分からないのであれば突き止めれば良い。
クロウを殺して災厄から解放することが最も道理に叶い、最も効率的な選択……そうかもしれない。
だが、そうだとしても、別の方法を検討する価値はあるはずだ。
なにしろシュラには────クロウが素直に死ぬ様子など、欠片も想像できなかったのだから。
とはいえ実際のところ、行き当たりばったりだった。
なにしろ時間が無い。
考えることは二つ。『災厄の核がどこにあるのか』、そして『それをどうやってクロウから切り離せばよいのか』。
どちらも一応の行動指針はあった。
まず、『災厄の核がどこにあるのか』。
これはある種、単純だ。
鍵があるとすれば、『精霊の眼』だろう。
アルマは災厄の魔力をいち早く見つけ、観測していた。であれば、より深く観察してみれば……と考え、アルマに協力を依頼した。だが、そのアテはすぐさま外れることになった。
曰く、『クロウの全身が真っ赤に見える』とのこと。精霊の眼ですら、災厄の核を見極めることはできなかった。
そしてもう一つの課題、『核をどうやってクロウから切り離すか』。これも問題だった。
手法は早々に思いついたものの、手段が無い。
核を切り離す方法は単純だ。
魔力を紙よりも薄く針よりも細く、高密度に圧縮し、臨界状態に制御する。そうして形成した極薄の魔力刃は接触部を切り裂くのではなく、消失させて切開する能力を持つ。
シュラにとっては使い慣れた魔法であり、この魔力刃でクロウから災厄の核を切り離してやればよい。
誰にも見せていないので指摘されることもなく、シュラ自身も理解していないことだが、一言で言えば『手のひらサイズに制御した魔力核撃』である。
規模を小さくすればそれだけ使用する魔力を減らせ、制御を『
当然、それでも普段使いしてよいような魔法ではないのだが、自分の扱う技術のリスクを過小評価することにかけては定評のある
だがここにおける問題は、切開の方法はあっても、それをクロウに命中させる手段が無いことである。
動き回るクロウから核をピンポイントで切り離せるだけの能力が自分にあるとは、シュラには全く思えない。
災厄の核の探索と、その切り離し方法。
この二つの課題を僅か数日で両方解決することは、シュラ自身、正直無理としか思えなかった。アルマに断られた時点で、ひとまず諦めようかと思ったほどだ。
だが諦める寸前、シュラはふと気づいた。
気づいてしまった。
────これ、もしかして一緒に解決できるんじゃね? と。
◇◇◇
背後を突き、しかも相手は完全な隙を晒している。
絶好のシチュエーションだ。
だが、それでもあまりにも時間は短い。
これが無ければ。
シュラは
失った現世の視界の代わりに魔力を観るその表面には、無数の魔法陣が浮かんでは消える。
精霊の偽眼。
それはこの瞬間のためだけに────役に立つかどうかも分からず、使う機会が訪れるかどうかなど分からず、もはや最終的には単なる好奇心で────自身の眼窩に『球体』を埋め込み、このシチュエーションだけに特化させてチューニングを繰り返した、涜神の魔眼である。
その虹彩から放たれる紫色の魔力光は収斂し、災厄の核の位置をシュラの脳へと伝えた。
「……そこ、だよな……ッ!」
そして『それ』は、クロウの肉体の内部……心臓部にではなく、シュラの予想と違わぬ場所にあった。
クロウの頭上、虚空。
赫き光冠の座す処────そこに小さな小さな裂け目が生じ、魔力が濁流のように漏れ出してクロウを覆っていたのだ。
そもそも、シュラの疑問の出発点はそこだった。
災厄の核が無限の魔力を供給するというのなら、なぜクロウの心臓部ではなく、
少なくともシュラの知る災厄は……水球や精霊は、その体内から赤い光を放っていたというのに。
故にクロウの肉体ではなく、その外部に核があることは想定内だった。だが狙うべきは空間に生じた、小さなヒビのような裂け目。分離などできようはずもない。
故にシュラは土壇場で計画を変えた────核を切り離すのではない。切り開く。
空間に生じた極小の裂け目を魔力の刃で精密になぞり、切開する。言葉にすれば、そして時間さえあれば不可能ではないが、しかしこの状況では至難。
だが、そんなことはハナから理解できている。理解できているからこそ、準備してきたのだ。
────精霊の偽眼が光を放つ。
極細に制御された魔力核撃がシュラの視覚の焦点に形成され、直接、災厄の核を切開した。
シュラの発想は単純だった。
魔力の刃を自分の腕で振るっても、一定以上の精度にはならない。だが、
災厄の核を見つけるのも、それを切開するのも精霊の偽眼を媒介とし、その焦点に刃を形成し、見つけ出した災厄の核をそのまま切開すればよい────。
これこそが、シュラが自分自身の肉体に『球体』を取り込むという選択を行なった最大の理由である。
これならばタイムロスなく行動に移れる。そして切開に関しても視界の焦点に刃を生じさせるのであれば、運動神経など関係無い。
自らの健常な眼を抉り取り、代わりに得体の知れない義眼を嵌め込むという奇行。
周囲に猛反対されドン引きされながらもそれを強行したシュラを、慧眼と呼ぶべきか狂気と呼ぶべきかは誰にも分からない。
だが結果として、事は成された。
災厄の核の切開が終わった瞬間、クロウは糸が切れたように地面へと崩れ落ちた。
だがそれを心配する暇など無かった。何故なら、完全に切り開かれた次元の裂け目から流れ込むのは、赫を通り越してドス黒い魔力の濁流。
そして孔から