木々が重なり絡み合う路を小さな身体で駆け抜けていく。
大人では通れない小さな隙間は、けれど子どもの身体であれば走り抜けるのに十分広い。
ざわざわと森の音。木漏れ日がまだらになって地面を照らし、清澄な空気が肺を満たす。
今日も少年は、こっそりと村を抜け出した。
それは誰にも知られてはならない。
小さな小さな、少年だけの秘密だった。
坂道を駆け上がると、開けた場所に出た。
森が避けたようなその場所には暖かい陽の光が落ち、花々が咲き誇る花園となっている。
小高い丘となっているそこからは、振り返れば緑鮮やかな森が見渡せ、遠くには小さく自分の村の風車が見えた。
甘やかな花の香りのなかで呼吸を整えていると、背後から不意に、誰かに抱きしめられる。
遅いよ、と耳元に囁き声。
慌てて振り払うと、案の定、そこにいたのは悪戯っぽい笑みを浮かべる少女だった。
草むらに腰を下ろした少女は屈託なく、けれどどこか蠱惑的な表情で少年に問いかけた。
今日はなんのお話をするの?
少年はため息をついて少女の隣に腰を下ろし、とりとめもなく話をする。
話の内容に決まりはない。村で老人が話していた怪談や、時折訪れる冒険者から仕入れた冒険譚、あるいは母から聞かされる御伽噺。
今日もそれは一緒で、何も特別なことはなくて────
────世界が反転した。
遠くには赤く燃え上がる風車。
少年の脳裏に壊れた故郷の光景が焼き付く。
突如、大挙して訪れた死の軍勢。
小さな村に対抗できる術などなく、全てが呑み込まれた。全て、全て……少年の両親も、兄弟も、友人も、全て。
少年は逃げた。
少年は無力だった。何一つもできなかった。どこまでも役立たずで、無能だった。
火の粉と瓦礫から身を翻し、後ろを振り返らず、ただ逃げて、必死に走って、救いを求めて、そしてこの場所へと辿り着き────目の前には、少女が死んでいる。
いつも目まぐるしく変わっていた表情は虚脱していた。
開いた瞳孔は光を宿さず、何も見ていない。
楽しそうに笑う声は、もう聞こえない。
意識が黒く染まった。
何もできなかった。何一つ守れなかった。
心を重く染め上げる罪の意識。
悔悟と後悔が魂を塗り潰す。暗く暖かい泥に頭から足の先まで浸かるような、永遠の牢獄へと囚われる安寧へ────
「────で、これは何なの?」
その寸前、少年は言葉を発した。
少年の精神に干渉していた
「人の記憶を勝手にほじくり返して勝手に擦り寄ってくるのはやめてくれないかな。これは僕の思い出であって、君は何の関係もない部外者だろ。お呼びじゃないし場違いだ」
闇が蠢いた。
「ていうかさ、解像度が低いんだよ君。僕が何を後悔してて何に執着してるのか、全然わかってないよね? だからあんな的外れに記憶を繋げちゃったんだと思うけど」
少年は闇を嘲った。
「はっきり言って向いてないんじゃない、こういうの? 共感能力が低いクセに浅い理解と安い同情で他人に取り入ろうって、そりゃ無理だよ。もっと自分を知るべきじゃないかな」
視界に微かなヒビが入った。
「君は断罪者じゃない。その資格もない。だって君は、僕が
少年は冷ややかな目で闇を見つめた。
「────何者でもない。さっさと消えろ、目障りなんだよ」
その瞬間、目の前の闇が砕けた。
そうして現実に帰還した少年……フィルバードはうずくまり、激しく動悸する心臓を抑えた。
「……タチの、悪い」
悪態をつく顔色は、病人のようだ。
客観的に言って、これまで見せられていた幻覚はフィルバードが経験もしたこともないほどに強力で、悪辣な精神拘束魔法だった。
フィルバードは他の階層の攻略を通し、このタイプの攻撃に遭遇したことがある。
その経験があったからこそ対処法を理解しており、退けることができたが……それが無ければどうなっていたことか。
フィルバードの見せられた記憶は紛れもなく真実だった。そしてそれが真芯を食ってはいなかったにせよ、それでも
あのまま呑まれていればおそらくは……。
「……そんな場合じゃない。みんなは……ッ!?」
フィルバードはそこで思考を切り上げ、顔を上げた。
そして硬直する。
全てが。
フィルバードの仲間たちも、万に及ぶ兵士たちも、見渡す限りその全員が────魂を抜かれたように停止していた。
その時点でようやく、フィルバードは目覚めてからずっと、これだけの人数が集っていながら、全く人の出す音のしない静寂のなかにいたことに気がついた。
一人一人の前に、黒い鏡が浮かんでいる。
黒く透き通った黒水晶。人々はその鏡のような表面に己の顔を……否、後悔を写し、停止していた。
まずい。
フィルバードは表情を強張らせる。
そもそも自分はどれだけ囚われていた?
数十秒か、数分か、それ以上か。
そして仲間たちが呪縛から抜け出すのに後どれだけかかる? いや、そもそも……抜け出せるのか。
フィルバードは睨みつけるように視線を上空へとやった。
そこには黒い太陽が浮かんでいる。
……否、実際は違う。
乱立し凝集し蠢く黒水晶の柱、そしてその内部に蓄えられ反射する赫の魔力光を見れば正体は明らか。
────あれこそが災厄、その本体。
よく目を凝らすと、黒い太陽からは無数の魔力糸が地上へと伸びていた。
その繋がる先は一枚一枚の黒い鏡。魔力糸を通して吸い上げた魔力が体へと還元されているのだ。
一人一人から吸い上げる魔力は微々たるものであっても、相手は数万人。その総量は膨大である。災厄は得られた魔力により自己強化し、ますます内部に蓄えた赫の輝きを増す。
フィルバードは焦燥の中、状況を整理する。
問題の一つ目。
全ての戦力が強制的に眠らされている。
クソである。
避けようがないうえ、おそらく最速で呪縛から抜け出したフィルバードでさえ、数分以上の隙を晒してしまった。
そして問題二つ目。
災厄が攻撃の準備に移っている。
巨大な母体から黒水晶が剥がれ落ちる。数千、数万にも別れた黒水晶の断片が、上空を覆い尽くすように展開した。
その切先は鋭利に輝き、眠りについて魔力による強化も失われた人体など、紙のように裂くことだろう。
フィルバードは思考した。
この状況からどうすれば逆転できる?
────答えは無かった。
この状況に持ち込まれた時点で詰みだと脳が叫ぶ。
「クソ……」
焦燥することしかできないまま、上空を見つめる。
そして黒水晶は一斉に、地表に向けて落下を始めた。
「クソ……ッ!」
最後の瞬間、フィルバードは行動を選択した。
論理は無い。行動に意味は無い。
それでも肉体は最善を選んだ。
最も手近な仲間の
────馬鹿か。前に出るな。仲間を盾にして後ろに隠れろ。そうすれば生き残れるかもしれないぞ?
自分の中から、自分自身を嘲る声が聞こえる。
フィルバードは頬を吊り上げて笑った。
そんなことは分かっている。だが肉体は勝手に動いてしまったし、フィルバード自身、理解してしまっているのだ。
全員が死んで自分一人が生き残っても意味が無いことを。自分一人では何もできないことを、フィルバードは知っている。
それよりは、自分が盾になり引き換えに英雄が一人生き残るのであれば、その方がよほど有益ではないか────。
絶望が空から降ってくる。
黒水晶の鋭い切先は空を切り裂き、正確に一人一人に狙いを定めながら落下速度を増す。
フィルバードは目を見開いて己の最後を見つめた。
そして。
どこかから遠く、澄んだ音が聞こえた。