「ここか? ここだな?」
「駄目だ。まだズレてる。もう少し上にズラして。もっと、もうちょい……そこ!」
フィルバードの指示に従い、アルマはエウーリアの身体を持ち上げ、空中に固定する。
そしてエウーリアの顔を映す黒い鏡と、エウーリアと背中合わせに立っているザクスの顔を映す黒い鏡が完全に平行な角度で向かい合った瞬間────
澄んだ破砕音とともに、二つの黒い鏡が砕けた。
「っ、は……ッ!」
「……何が、起きてる?」
虚脱していた二人の眼の焦点が合い、現実へと帰還する。
大きく息をつくエウーリアと、状況把握に努めるザクス。二人とも精神的疲労はあれど、意識ははっきりとしていた。
ザクスにフィルバードが話しかける。
「調子はどう?」
「最悪だ」
「わかる。カスだよねこのギミック」
「……何が起きてる?」
しかめ面のザクスに、フィルバードは軽い口調で言った。
「簡単にいえば、君らは幻覚に囚われてた。悪いけど、それ以上に詳細な説明をする時間はない。飲み込んでくれ。……で、とりあえず聞きたいんだけど、君らはどうやって幻覚を打ち破ったのかな」
「……? フィルバード、そんなことよりも皆を解放することが優先ではないのか」
不審そうなアルマにフィルバードは答えた。
「だって、これが安全な方法なのかわかんないし。偶然成功しただけなんだから、最低限は慎重になろうよ」
「あんなに自信満々だったクセにか!?」
胡乱な言葉にアルマは驚きの声を返した。
アルマの眼からは、フィルバードは確信を持って行動しているように見えていたのだ。
フィルバードは呆れたような眼をした。
「言ったじゃん、僕にも何をすればいいのかわかんないって。鏡なら合わせ鏡にしてみれば? って思いつきが、たまたま効果があっただけだ。……で、どう? 二人とも」
その言葉に、平静を取り戻した二人は言葉を返す。
「……つまりアレは幻覚だったわけだな? なんか急に『凍らせればよくね?』って思いついたんだよ。やってみたら抜け出せた」
「俺もそんな感じだ。手元にメイスを持ってたことを思い出したんで、相手をタコ殴りにしたらなんとかなった」
二人の言葉にフィルバードは頷いた。
「悪夢への没入感が薄れるって感じかな……。最悪、悪夢が合体すると思ってたから朗報だ」
「おい」
人体実験じゃねーか、という二人の視線からフィルバードは眼を逸らした。
「信頼の証だよ。僕らの中でも図太さに定評のある君らなら、もしものことがあっても大丈夫だろうし」
「フォローしたつもりか?」
「でも話を聞く限り、敵に食ってかかるくらいのメンタルが本人に無いと無駄かもね……でもま、そこは心配しなくても大丈夫か」
フィルバードは頷いた。
「とりあえず、皆を起こそう」
◇◇◇
数分の間、連続した破砕音が鳴り響く。
その僅かな時間で、その場のほとんどのものが目を覚ました。
皆、顔色は悪いが別状は無い。
例外は二人だけ。クロウと、ウルである。
「……どういう状況なんだ、コイツは?」
疑問の声をあげたのはザクスだ。
その視線はクロウを向いている。
よく見ればクロウの目の前にだけは、そもそも黒い鏡が浮かんでいなかった。赫光の冠も無く、見た目には平常だ。
だが、ならばただ気絶しているのかといえば、そうでもない。何をしても眼を覚ます気配が無いのだ。
「この状態なら害はないし、ほっとけばいいんじゃないかな。奇数になって余ったウルには悪いけど……」
「いや、どちらにせよクロウとは組ませない。コイツと組ませると、何かとんでもないことが起きそうだ」
嫌そうな表情のアルマに、フィルバードは肩を竦める。
「まあ、ウルはウルでこのままでもすぐに危険があるわけじゃないし、ほうっておけば? 眼を覚ましてもこの状況、悪夢とは別に恐怖が募るだけでしょ」
「……むぅ。その方が、いいか……?」
「今はそれよりも、あの災厄を……」
「────待て。クロウを放置するのはマズい」
唐突に、シュラがフィルバードとアルマの会話を遮る。
その表情は蒼白だった。
悪夢によるものではない。空から降り注ぐ黒水晶の雨によるものでもない。それよりもシュラは、眠り続けるクロウを見て顔面から血の気を引かせていた。
「なんで? そりゃ彼はすごい戦力だけど」
「違う。そうじゃない。開きっぱなしなんだよ……!」
「? 何が?」
危機感を共有できないフィルバードにシュラは言った。
「
シュラの『精霊の偽眼』に写るのは、クロウの頭上の穴から延々と垂れ流されるドス黒い魔力。
……それだけなら、いい。それだけなら、脅威ではない。
だが。だが────。
「このまま放置するのはヤバい。すぐに閉じる必要がある」
「えっと、何を、なんで?」
シュラはクロウの頭上を睨みつけて言葉を吐き出した。
「出てくるぞ、『
誰も事態を正確に理解できていない。
できていないが……その言葉に秘められた破滅的なニュアンスだけは、誰もが読み取ることができた。
間違いなく災厄に匹敵、あるいは凌駕する『何か』。
────孔を通じ、こちらに出てこようとしているのだ。
「どうすればいい?」
一瞬で事態の深刻さを理解したフィルバードが問いかけると、シュラは迷いながら答えた。
「縫合は無理だ。方法がわからない。なら……。……埋める。デカい魔晶を押し込んで蓋にする」
「勝算は?」
「わからない。だが、他に手段が思いつかない」
フィルバードは内心で計算した。
ミューに魔晶を提供することで生存の時間を延ばし、その代わりに更なる混沌の発生というリスクを許容する。あるいは、生存時間を短縮してでも孔を塞ぐ。
正しいのはどちらだ────?
数秒の沈黙の末、フィルバードは虚空から巨大な魔晶を取り出してシュラに手渡した。
「これならいける?」
十分すぎた。
その巨大さに驚いたシュラは思わず尋ねる。
「これは?」
「
それは自殺した黒竜の死骸からフィルバードが拝借した、魔晶化した心臓である。
シュラが慎重な手つきでそれをクロウの頭上へと押し付ける。魔晶が虚空に押し込まれていくという奇妙な光景ののち────クロウの目の前に、黒い鏡が出現した。
誰かが安堵の吐息を漏らす。ひとまず危機は去ったはずだ。
だが一息つく余裕など無い。状況を手早く共有する。
「状況は依然として最悪だ。ミューの護りが持続するのはあと二十分程度。もちろん僕らの手持ちの魔晶を全部提供してタイムリミットを延ばすけど、無限にはならない」
「なら、やることは決まりだな。大元をぶっ壊す」
そう真っ先に言ったのはエウーリアだった。
皆が口々に賛同する。
「僕も賛成だ。けど────アレを破壊しきるのは骨だよ」
フィルバードもまた賛同し、しかし視線を上空に向ける。
そこに浮かぶのは遠近感の狂った、黒く巨大な太陽。
冒険者たちがいかに強力な魔法を扱えるとはいえ、個人の魔法で打倒できるような存在ではないことだけは確かだ。
「もう一回やるぞ、核撃魔法だ。アルマ、いけるか?」
エウーリアの即決にアルマは頷いた。
アルマは再び魔力の奔流に身を染めた。
それは怖気の走るような感覚で、精神的な負担はかなりのものだったが、しかし最初から覚悟ができている分だけマシだ。
今度はクロウに放った一撃とは違う。
範囲を絞る必要などない。制御可能な最大規模で核撃魔法を膨張させ、一撃であの黒い太陽を呑み込む。
人間ではそこまでの微調整は不可能だろう。だが、アルマにとってみれば、それは決して難しいことではなかった。
「消し飛べ……!」
そう小さく呟き、臨界したマナを解き放った。
解放された暴虐は先ほどのものとは全く異なる規模で解き放たれ、凄まじいまでの光の奔流が上空で爆発する。
もう一つの太陽が地上に出現したかのような光景だった。黒い太陽との衝突点からは、虹色の光輪が断続的に放出される。
視界を灼くその光景を直視できたのは、ヒトとは異なる構造の眼を持つ者のみ。そしてその数少ない一人に該当するアルマは、発生している現象を目にして呆然とした。
「……相殺、している……!?」
黒い太陽と核撃の白雷は、バチバチと音を立てながら相剋し、喰い合っていた。
……いや、違う。正確には、相殺しているのは黒水晶ではない。
拮抗し、相殺しているのは、砕ける黒水晶に内包されるもの────赫の魔力そのものだった。
「……あれも、マナか……!」
理解が追いついたアルマは黒い太陽を睨みつける。
黒水晶は物体に違いないが、そこに内包される赤い魔力は核撃魔法と同様、属性を持たないマナなのだ。
であればそれは、単純な上下関係を持つものではない。
物質に対しては絶対的な威力を持つ核撃魔法も、魔力────マナそのものを分解することはできない。
故に相剋し、相殺し……。
「消え、た……」
誰かがぽつりと呟いた。
突如として光の喰い合いは収束した。
マナを全て消耗した核撃魔法は停止し、黒い太陽だけが何事もなかったように上空に残っている。
だが、何も変化が無かったわけではない。
僅かに、だが明らかに、黒い太陽に内包する赫の魔力は弱まっていた。災厄もまた消耗したのだ。
だがそれを確認できたのも束の間のことだった。
消失した魔力はすぐに補填され、充填される。
そしてその魔力の供給元は、他でもない────黒い鏡に繋がる、数万人の魂だった。
黒い鏡から上空へと伸びる赫の魔力糸が、生物的に脈打つ。囚えた獲物たちに絶望と後悔を提示して同情とともに擦り寄り、その魂から魔力を搾取する。
地上で幾度か、鏡の割れる音がした。
それは解放の音ではない。失落の音だ。
耐えきれずに全てを捧げた弱き魂は、黒い太陽に喰われ、咀嚼され、呑み込まれていく。
跡にはただ、物言わぬ屍体と黒水晶の残骸だけが残った。
「……ッ! 続けて撃つ! アルマ!」
「ああっ……!」
それを認識したフィルバードが弾かれるように指示を出した。冒険者たちも思考停止から解き放たれ、再び核撃魔法を編む。
だが、そんな状況でアルマに供給された魔力は動揺と不安に脈打ち、マナの抽出をより困難にさせる。
その結果、負荷に耐えきれなかったアルマはマナの抽出に失敗し、集まった魔力を霧散させてしまった。
アルマは精神の負荷に疲弊しながら、表情を歪ませる。
「クソ、すまない……!」
その僅かな時間で、黒い太陽は何事もなかったかのように元の姿へと回帰した。
肩で息をするアルマにフィルバードが確認した。
「もしかしてこの魔法、連続はキツい?」
「……気にする必要はない。制御ミスはしない」
「無理なことはできるって言わなくていい。ていうか、逆に誤算に繋がるから迷惑かな」
明け透けな言い方にフィルバードを睨みつけながら、アルマは悔しそうに言った。
「……失敗せずに確実に撃つには、おそらく十分程度のインターバルが必要だ」
「分かった。……確認だけど、失敗しても暴発はせず、今みたいに何も起こらないだけなんだよね?」
アルマは頷いた。
「暴発はマナの制御を失敗した場合にだけ起こる。私が苦手なのはその前段階のマナの抽出で、これを失敗しても暴発はせず、不発になるだけだ」
「ファンブルなしで試行できるだけで充分だよ。しかし……どうするか」
フィルバードは思案した。
視線を崖下にやる。
「まず、全員を目覚めさせないと駄目だ。囚われた彼ら全員の魔力が相手のストックじゃあ、流石に勝負にならない。君らの魔力は常人の数十倍とか数百倍だろうけど、それでも数万人が相手じゃ桁が違う」
ザクスが険しい表情で言った。
「だが、時間が無い。何日あれば手作業で何万人も解放できるんだ……物理的に鏡をぶっ壊してみるか?」
「手間は大して変わらないよ。根本的に別の方法が必要だ。……ユフィ、混乱状態みたいに治療することは?」
フィルバードの問いかけにユーフェミアは首を振った。
「試しましたが無理です。あの黒い鏡、私の魔法よりも干渉力が強いみたいです」
この少女には珍しく悔しそうな表情をしていた。
フィルバードは次にシュラに問いかける。
「なんか手はない?」
「ある」
力強く言い切ったシュラに、驚きの視線が集まった。
シュラは説明を始めた。
「まずこの魔法なんだが、囚われた状態でもおそらく五感は働いている。目は見えているし音も聞こえる、触覚もある。だが、意識にはフィードバックされていない」
「どうしてそんなことがわかる?」
驚いて聞くミセルに、シュラは自分の偽眼を指した。
「さっきの間に
「そんなことはどうでもいいよ。それでどうするの?」
急かすフィルバードにシュラは頷いた。
「五感が働いている以上、彼ら自身に動いて貰えばいい。周囲の誰かと背中合わせの態勢になるよう脳に干渉する魔法基を散布する。感染力を最大にすればすぐに蔓延するだろう」
「なんか怖いこと言ってるけどまあいいや。すぐやってよ」
フィルバードの言葉に、シュラはフッ……と笑った。
「……開発に二日欲しい」
「待てるかぁ! ……えっなんだったの今までの!?」
自身に集中する『コイツありえねぇ』と言わんばかりの視線に、シュラは慌てて弁解した。
「待てないのは分かるが他に方法も無いだろう!? だったら可能性の一つとして提示するべきじゃあないのか!?」
「それはまあ……そうなんだけどさぁ……!」
先に言えよ、という理不尽感が圧倒的に拭い難い。とはいえ、その言葉自体には納得せざるを得なかった。
なにしろ、他に有効な回答を誰も思いつけないのだ。
冒険者たちの手持ちの魔石を集めたところ、相当な量になった。それをミューに渡し、タイムリミットは少し伸びたが……それでも二日は間違いなく保たない。
「何かないか、何か……!」
フィルバードは必死に頭を回転させた。
囚われたものたちに、自発的に呪縛から抜け出してもらうという考え方は理に叶っている。
だが、そんな行動を起こせないからこその呪縛なのだ。
理性だけで呪縛から抜け出すことは不可能であり、それを超越する何かこそが必要となる。
それは例えば信念や矜持。
あるいは経験、本能、執着、狂奔────
「狂、奔……?」
その単語がフィルバードの思考に引っかかった。
……聞き覚えがある。
記憶にある。確かに何か、この階層にそれに関係するものが存在したことを覚えている。
だが、どうしてもその正体を思い出せない。
フィルバードが必死に思考の糸を辿る中……唐突に、背後から破砕音が聞こえた。
振り返る。
そこにいたのは、黒い鏡の呪縛から抜け出し、視線を宙に彷徨わせる、ちっぽけな少女だった。