少女にとって、そこは巨大な棺だった。
外に出ることもなく、誰かと関わることもなく、終わりなき祈りの中に生を受け、生を継ぎ、生を終える。
外界に何ら影響を及ぼさず、屍人として生きる日々。
それを望まれるのならそう生きるほかない。
神殿という棺に埋葬されることを少女は拒まなかった。
けれど────だからといって少女の中に、思うところが全く無かったというわけではない。
何もできないし何もしない。
自分の中に価値あるものなんて何もない。
私の人生はきっと、このまま消費されて終わるのだ。
少女は幼いながらにそう理解していた。そして、そう実感するたび、少しだけ想像してしまう。
────この場所に生まれていなければ。私は、もっと。
想像は甘美で、だからいつも、すぐにやめてしまった。
忘れられない記憶がある。
まだ幼い少女は母の膝に抱かれ、祭壇に捧げられた。
苦しいことをするわけでも酷い目にあうわけでもない。
古くから定められた祈りを唄い、未だ幼く拙い
そして当然の如く、それはなんの効果も齎さなかった。
祈りは言葉に過ぎず、
そして少女はその瞬間、背後の母から確かに感じたのだ。
落胆ではない。安堵だ。
自分だけではない。
出来損ないは自分だけではなく、娘もまたそうだった────。そんな、暗く仄かな安堵。
母はそれからほどなくして死んだ。
穏やかな微笑のなかで眠りについた。
母が自分から生を手放したことを、少女は悲しまなかった。悲しんではいけないと思った。
母は役割を果たした。
何の価値もない飾り物。その役割を損ねることなく、確かに娘に引き継ぎ、心残りなく目を閉じた。
それはきっと、善きことなのだ。
少女は自分にそう言い聞かせた。だってそうでなければ、母は救われないまま生を終えたことになってしまう。
母は価値の無い生を、それでも最後の最後に肯定できた。
少女はそう信じた。
その日、少女の
後にも先にも、この時だけのことだった。
視界が切り替わる。
ある日、眠るような日々が壊れた。
棺から強引に引きずり出されたのだ。
連れ出された世界は鮮烈だった。数多くの人々が行き交いすれ違う視界には、強欲で明確な意志が満ち溢れていた。
そこは少女の知る世界ではなかった。
棺の中の静謐な安寧はどこにも存在しない。
耳に聞こえてくる音はひどく騒々しく、目の前を歩く誰もが眩しいまでに堕落していた。
彼らは皆、自分自身のために生きていた。
別に彼らも、自由なわけではないのだろう。ままならない状況も望まない選択もある。けれど、それでも誰もが最良の決断を目指し、もがいていた。
正直に言ってしまおう。……憧れた。
屍人の眼には、彼らの生命力は禍々しいまでに眩しい。
そう在れたら、そう生きられたら────想うだけで形の伴っていなかった光景が、目の前にあった。
だから少女は生まれて初めて我儘を言い、嘘をついた。
空虚な安寧に戻りたくない。
自分もまた生きているのだ────と。
屍人が生を騙るなど、許されるはずもない。
そんなことは最初から理解していたのに。
視界が切り替わる。
地獄が広がっている。
人が人を殺していた。
誰もが表情を歪めながら剣を握っている。
貫かれ、切り裂かれる肉体から噴き出す血潮は赤かった。これほど顔を背けたくなる赤を、少女は初めて知った。
だが、顔を逸らすことは許されない。
憧れは血塗られ、穢された。
────誰のせいで?
少女は答えることができない。
ただ、呼吸が荒くなる。
私のせいで、と。
そう言ってしまうことが侮辱に他ならないことを、実のところ少女は知っている。
だってそうではないか。
本当に自分のせいで────無価値なもののせいで彼らが死んだのであれば、彼らの生きた意味は、死の価値は、どこにある?
それは駄目だ。
それではあまりにも、救いが無い。
彼らは死にたくなどなかった。それでも、逃げることなく戦場へと足を踏み入れた。それこそが自分に取りうる最良の選択と信じ、役割を果たして死んでいった。
それを無意味と呼ばせてなるものか。
彼らの死を見届け、彼らの最期を看取り、彼らの価値を肯定することだけが自分にできる贖罪なのだと、少女はそう理解している。
だが、できなかった。
少女は弱かった。
少女が行ったことは贖罪ではなかった。
実際に地獄を目の前にして少女が取った行動は、身勝手な自責と誰も聞いていない謝罪、そして無意味な祈りだった。
いったいそれに、何の意味があるだろうか。
少女は許せない。
死者を思い遣る────それは贖罪であり、そしてそれ以前に人として当然の行いだ。
それなのに逃避した。現実に向き合わず、死者を悼むふりをして自分を慰めることに終始した。
そんな自分を、少女は許せない。
「……私はそう思っているので。だから」
少女は口を開いた。
聞こえてくる囁き声に言葉を返す。
「もうやめてくれませんか。的外れな慰めを押し付けてくるのは」
……自分にこんな感情があることを、少女は知らなかった。
「仕方がない、無力なことは悪ではない、何もできないのはしょうがない、彼らは勝手に死んだだけ……そうですか」
自制できなかった。
目の前で揺蕩う救いようのないものに、どうしても少女は侮蔑の視線を向けてしまう。
「あなた、慰めるふりをしているだけで、私に共感なんてしてないでしょう? だって、あなたに本当に私を理解する気持ちがあるのなら、私に同情なんてするはずがない」
生まれて初めて、少女は自分の感情に────怒りという激情に身を焼いていた。
「私、今、あなたにムカついています。……初めて使いました、こんな言葉。誰かをぶん殴ってやりたいと思ったのは生まれて初めてです」
闇が揺れた。
「自分の行いの薄っぺらさを、客観的に見せつけられている気分です。これはきっと……同族嫌悪なのでしょうね」
少女は静かに言った。
「もういいです。その安い口をいい加減に閉じなさい。……いまだに気付かないのですか? あなたのその上っ面の言葉が、私の憧れを侮辱していることに」
闇が何かを喚いている。
だがもはや、雑音だった。
「人を救いたいのなら、せめて想うべきです。……あたりまえのことでしょう? それがあなたには、本当にわからないのですか? だとすれば────」
少女は怒りのまま、言葉を吐き捨てた。
「哀れなものです。同情しますよ、心から」
◇◇◇
闇が砕け、現実に帰還する。
少女は────ウルは、そこでようやく、自分が見ていたものが現実ではなかったことに気がついた。
だが、それでも感情は収まらない。
それは幻覚に対する怒りだけではない。
何よりも自分自身に。そしてこれまでに経験し、まともに向き合ってこなかった理不尽に。その全てへの怒りが萌芽する。
それは魂を焦がす火傷のようで、その痛みは否応なしにウルへと生を実感させる。
だが現実のウルは、戸惑うだけだった。
この感情をどう出力していいのかわからない。ひたすら莫大で無闇な怒りを、ただ持て余すことしかできなかった。
「気分はどうかな? 大丈夫なら、ちょっとやってほしいことがあるんだけど」
……おそらく、この状況でなければ。
顔を上げたウルはそこでようやく、黒い鏡に囚われていたのが自分だけではないことに気付いた。
上空に浮かぶ黒い太陽が、鏡を通して人々から魔力を吸い上げている。その光景に胸がザワつく。
「────で、君の演奏を……。……あの、聞いてる?」
困惑したようなフィルバードの言葉に、ウルは頷いた。
「ええ、聞いています。あの不躾な黒い鏡に対して、私の演奏が有効かもしれないということですね。私の演奏は、なぜか亜人たちの精神に影響するようですから」
「ぶ、不躾……? ま、まあ……うん」
「任せてください」
フィルバードの少し引き気味の反応を無視して、ウルは肌身離さず持っている笛を口元にあてがった。
心を落ち着けるために深呼吸をする。
演奏の時のいつものクセだ。
────だが、全く意味が無かった。
深呼吸により取り入れた酸素は、少女の中に渦巻く混沌を怒りとして燃焼させるためだけに消費された。
だからウルは、冷静さなんてかなぐり捨てることにした。
想いのまま心のまま、
今までにもたった一度だけそうした、そうせざるを得なかった────……母がいなくなった、あの時のように。
この時点で、このちっぽけな少女が事態を解決することを期待するものなど、誰ひとりもいなかった。
それはウルに促したフィルバードすらも同じである。他の手段の足しになってくれれば万々歳、その程度。
はっきりと言えば、皆がウルという少女を軽んじていた。
竜の巫女という立場こそが本質であり、本人に見るべきところはさほど無い。年齢の割には聡いが、ただそれだけ。
アルマただ一人を除いて、この場の冒険者たちの誰もがウルという少女をそう捉えている。
無意味に生を終え、その記録すらも残されていない。結局のところは歴史の脇役であり、黒竜という災厄の添え物に過ぎない。それが少女の辿った人生だ。
ウル自身も、そう言われて否定する気は無いだろう。間違いなくそれは、事実なのだから。
だが、少しだけ考えてみるべきだ。
……本当に、それだけが全てだろうか?
冒険者たちが見ていたのは過程だった。災厄へと対処するため、『どうしてそれが起きたのか』、ただそれだけを探った。
そして過程を知ったからこそ、結果を重要視しない。
だが、
それは少し視点を変えてみれば明らかだ。
もし仮に、真実の全てが後世に伝えられていたとすれば。
多分に恣意的な見方になることは間違いないが────ウルという少女は、歴史を語るものたちの一部から、きっとこう評価されることになっただろう。
笛の音色だけで竜を誑かし、数万人を自分の死の巻き添えにした、人類屈指の虐殺者。
最悪の立場に最悪の能力で応え、彼女が彼女でなければ成立しない地獄を出現させた少女。
彼女自身が、災厄である────と。
音色が大気を伝わり、無限に伝播した。
感情を融かし込んだ音は、それを聞くもの全ての魂へと干渉し、強制的な感情の爆発を引き起こす。
────この
竜すらも狂わせたウルの本気の音色を前に、もはやヒトも亜人も、その一切合切が関係なかった。虜囚となっていた全ての魂がその音に揺り動かされ、狂奔を始める。
そして当然、黒い鏡はその膨張を押し留めるにはあまりにもちっぽけで、脆かった。
断続する凄まじい破砕音。
目醒めた人々は天に禍々しい黒の太陽を見上げ、破砕した黒水晶の雨に祝福された。
そんな混乱のなか、魂に聞こえるただ一つの明瞭な声。
────怒れ。吼えろ。理不尽全てに。
敵はなんだ。どう戦えばいい。
まだ分からない。
だが、一つだけ確かなこともある。
彼らはもう、弱者の群れではない。
眼を醒ましたものたちは、再び武器を手に握りしめる。彼らの瞳の奥には、凶暴な戦意が確かに揺らめいていた。