『聞こえるか? 聞こえるな? 勝手に話すぞ』
禍々しき黒の太陽から黒竜が生まれた。その口蓋より、視界全てを飲み込む白の極光が迸る。そして次の瞬間には天より黒槍も雨が降り注ぎ、完膚なきまでに破壊された肉体は今まさに、勝手に再生を始め、何事も無かったかのように復元した。
とても現実とは思えない。
悪夢から目覚めた先は地獄だった。
そう考えることが唯一の合理的な解釈となる状況下で、響き渡る声は聞く者全ての耳を奪った。
少女と思しき澄んだ声が、託宣の如く聞こえてくる。
『長々と説明する暇は無いんで、簡潔に説明する。ここは今、戦場だ。敵はヒトでも亜人でもない。空に浮かぶ、あの黒い竜が敵だ』
その声に、一斉に視線が宙を彷徨う。
空に坐すは黒き竜神。
その姿は絶対的な暴威と畏怖を伴っていた。
武器を取り落とすものも、跪こうとするものもいる。
だが、その瞬間に聞こえてきた声が、戦士たちの挫けようとする意気を縫い止めた。
『しかし実際……良かったよな』
誰もが混乱しながらも、耳を疑う。
理解が及ばないのだ。
この状況が……
『だって、うんざりしてたろ? 戦争。あんたらにも事情があることはもちろん知ってるし、否定したいわけじゃない。でもさぁ……人間のやることじゃないぜ、あんなの。楽しくもないし、勝ったところで後味が悪いだけだろ?』
戦士たちは理解する。
この声の主は、本気でこの状況を『善し』と捉えているのだ。
声は嬉々として語った。
『────いったん全部忘れていい。今はただ、生き残るためだけに、何の良心の呵責もなく、全力で戦っていい。目の前には、何の遠慮もなくぶっ潰していい、
その言葉に、思わず視線が先を向いた。
その先にいるのは、『敵』……だったはずの、ヒト、或いは亜人。
もはや敵ではないと、声は言う。
『ああ、言い忘れてた。あそこに浮かんでる竜はお前らのよく知ってる黒竜とは違う。竜は竜だが形だけ、似ても似つかないまがいものだ。だから亜人たちも遠慮はいらん』
次の瞬間に天より降り注いだ黒槍の雨が、『声』の正しさを肯定する。
肉体は容易く破壊され、次の瞬間には巻き戻るように再生する。もはや、死へと逃避することすらできない。
痛みに呻きながら、亜人たちは黒竜を睨みつけた。
仮にだ。……あれが竜だとして。神だとして。
ことこうなれば、それはもはや、何の関係も無かった。
こちらを害そうとするものは、敵でしかない。
ヒトも亜人も変わらない、人間の真理だ。
声は滔々として語った。
『さて……やることは単純だ。まず、アイツの攻撃は無視しろ。どうせ避けられんし再生するから、余計な防御は考えずにアイツの鱗を一枚でも砕いて、魔力を消耗させてくれ。で、最終的に全部削り切れば私たちの勝ちになる。簡単だろ?』
それは文字通り、地獄の消耗戦。
それを本当に簡単だと思っているに違いない『声』の語り口に、兵士たちは顔をしかめ────だが、武器を握り締める。
この『声』が味方か敵か、正しいか正しくないか……そんなことは今、どうでもいい。大切なことは『声』が生き残る指針を示していること、ただそれのみ。
理性だの思考だのといかに取り繕おうとも────全ての結論は結局のところ、ただ一つに帰結する。
『さあ、さあ、さあ────起きろ。武器を持て。武器を振るえ。ただ、生き残るためだけに。……ああついでに、勝った時には竜殺しだ。孫の代まで語り継いでいい』
故に、兵士たちは狂奔する。
号令とともに、戦いは始まった。
『────総員、征け。楽しい楽しい生存競争の始まりだ。
◇◇◇
「臆すな! 逃げ場など無い、この地獄から逃れたければ、戦って、一刻でも早く終わらせろ! 打て、撃て、射て────!」
戦場全域に響き渡る『声』が途切れたその瞬間、戦場に満ちる音は戦闘音だけとなった。
相手にはこちらを慮る気などない。こちらに決意ができているかなど関係なく、攻撃してくる。そしてなにより、相手の攻撃は防ぎようも逃げようもない。
であれば結局のところ、戦士たちは『声』に導かれずとも、戦うほかなかった。
「儀式部隊の護衛!? いらん! どうせ再生する、根性で撃たせろ! 上層部の退避!? どこにだ!? 馬鹿なことを言わせるな! 武器を持たせて戦わせろ! それから────!」
だがその中でも、『声』の正体を知るものの反応は早い。
シリウスは血風戦火のなか、自らも剣を振るいながら矢継ぎ早に指示を出していた。
「だ、だが、竜神様に……!」
「竜神様!? まさか貴様、あそこに浮かぶデキの悪いガラス細工をそう呼んだのか!? お前は竜神様を侮辱するのか!?」
「い、いや……」
「だったら四の五の抜かすな! いいから立って、戦え!」
「お、おう……!」
ほとんど暴論に近い説得で同胞たちを鼓舞しながら、シリウスは荒い息を吐いた。
あの少女が。
不敵に笑いながら自分達を翻弄した、力の底すら見えないあの
シリウスは本能的に、それを理解していた。
戦場に響き渡る笛の音。
挫けようとする意志を繋ぎ止めるその音とともに、シリウスは剣を振るった。
シリウスたちには、空を飛ぶ術などない。だが、地面に突き刺さる黒水晶を砕き、内包する魔力を消し散らすことはできる。
魔力の抜けた黒槍は、もはやただの黒水晶の残骸だ。黒竜に回収されることもなく、そのまま黒竜の消耗に繋がる。
肉体を吹き飛ばされ、殺され生き返りながら行うそれは、もはや拷問以外の何物でもない。
だがそれでも、やらねば終わらない。有限の気力を振り絞りながら剣を振るう。だが、張り詰めた精神は限界を迎えようとする。
そしてその瞬間だった────地面に突き刺さった黒槍が形を変えて、小さな竜へと姿を変じたのは。
「……っ!?」
一瞬、反応が遅れた。
凄まじい速度で小竜が襲い来る。
咄嗟に避けようとするが間に合わない。その瞬間────空から落ちてきた何かが、ソレを砕き潰した。
黒水晶が砕けると同時、空から落ちてきた何か……というか人間も、落下の衝撃で死亡する。
だが次の瞬間、完全に破壊された肉体は逆再生のように回復し、シリウスに話しかけてきた。
「無事か!? シリウス!」
「……お前がな」
こちらを心配するジャックに、呆れと同時に安堵を感じてしまう。それがどこか悔しく、シリウスは誤魔化すように魔法を詠唱し、砕けた小竜を焼き払った。
「うおっ……!?」
「物理的な破壊だけでは駄目だ。黒水晶を砕いたうえで、内部の魔力を消し散らさなければ意味が無い。……それでジャック、貴様、なぜここに? 軍はどうした?」
「いろいろあって抜けてきた。で、ここにいるのは、お前と一緒に戦いに来たからだ。当然だろ」
「ん……ッ!?」
ジャックは真っ直ぐな視線でこちらを見つめた。言葉が詰まる。
思わず誤魔化すように声を荒げた。
「……な、なら戦え! ボサっとするな! お前が剣で黒水晶を砕き、私が魔法で焼く! それでいいな!?」
「ああ、もちろんだ! ……ところで」
ジャックは返答の通りに剣を振るいながら、少し気まずそうに、ひとつだけシリウスに尋ねた。
「……なんで治ってないんだ、その傷」
「……っ」
ジャックが何のことを言っているのか、シリウスにはすぐに理解できた。
ジャックの視線の先。
そこにあるのは、自分の頬に走る、つい最近にできた傷だ。自動で発動する回復魔法でも消えない傷。その理由は……。
……合理的な返答は無かった。
故にシリウスは、ほとんどキレながら叫ぶ。
「
「……。そっか。そうか。そうだったか。……すまん。なんて言えばいいか分からないんだが……」
ジャックは笑った。
目の奥に戦意を滾らせ、剣を握りしめる。
「死んでる場合じゃねぇなぁ……!」
「当たり前だ! ……こんなところで終われるか!」
「おお! よっしゃ! 行くぞ、相棒!」
シリウスは『相棒』というその言葉の響きを否定しなかった。唇の端を歪め、牙を剥き出して笑う。
「フン。精々足を引っ張ってくれるなよ……!」
二人は戦場を駆ける。
この修羅場にひしめく、数多の兵士と同様に。
ただ、生を諦めないために。
◇◇◇
「五分……か」
周囲に極大級の魔法が荒れ乱れるなか、フィルバードはただ、自分にできることを────思考だけを、続けていた。
己に無いものを嘆く余裕はない。考えることでしか役に立てないなら、考え尽くすのみだ。
だが────。
「決め手が、無い……!」
その表情には焦燥が浮かぶ。
五分では駄目だ。
相手は無限の魔力に支えられる『災厄』。
ミューとユーフェミアの魔力にはまだ余裕がある。が、有限。時間制限のあるこちらが、耐久戦で勝てるはずがない。
だが……既に戦力は絞り切っている。
冒険者たちによる核撃魔法と各々の魔法。
無数の兵士たちによる泥臭い白兵戦。
通常の災厄など簡単に消し飛ばすだけの戦力を揃えながら、しかし天秤の均衡を崩すには至らない。
故に……必要なのは、理不尽な一手。
全てを覆し、強引に流れを引き寄せる反則手。
その可能性がどこにあるのかと問えば────。
「……ひとつしか、無いか」
……正直に言おう。
目醒めさせること自体が、もはや恐ろしい。
だが賭けるならば、ここしかない。
フィルバードの視線の先には少年が一人、周囲の喧騒とは裏腹に、未だ黒い鏡に囚われて眠っていた。